42 / 54

第41話

 来賓用の部屋へと、漆黒は楼主とともに入った。 「呼ぶまでは控えてろ」  と、楼主が(おきな)面の男衆へ告げ、人払いをする。  恭しい仕草で頭を下げた翁が、退室していった。  やわらかな絨毯の上に、漆黒の髪から滴った雨水が音もなく落ちる。  楼主がゆったりとソファへ腰を下ろすのを、立ったままの姿勢で漆黒は見た。 「とっとと座れ」  男がぞんざいに、煙管(キセル)の先端で向かいのソファを指し示す。  漆黒はそこへは行かず、その場で床に膝をついた。上体を屈め、両手も折り曲げた膝の前につく。 「……なんの真似だ?」  楼主が片眉を跳ね上げた。  漆黒は顔を伏せ、土下座の姿勢で男へと言葉を発した。 「頼む。一度だけ俺を淫花廓(ここ)から出してくれ」    ひたいを絨毯へと押し当てて、漆黒は懇願した。  沈黙が上から降って来る。    しゅ、とマッチを擦る音がして、続けて甘い煙の匂いが広がった。楼主が煙管に火を点けたのだ。    漆黒は床に這いつくばったままで、男の返事を待った。 「男娼が、借金も返さずに出られるわけねぇだろうが」    静寂の後、冷笑とともに返って来たのはそんな言葉だった。  漆黒は床の上でぐっとこぶしを握り締める。 「わかってる。逃げるわけじゃないんだ。必ず戻って来る。だから、頼む」 「手前(テメェ)、頭涌いてんじゃねぇのか? 頼むと言われて、俺があっさり許可すると思ってんのか? ああ?」  温度のない声が、平坦なトーンで投げつけられる。  漆黒はそれでも、「頼む」と頭を下げ続けた。 「顔を上げな」  煙管の雁首を灰皿に打ちつける硬質な音に続いて、楼主がそう言った。  漆黒は、どう言葉を重ねればこの男の許可が得られるのか、目まぐるしく考えながら、ゆっくりと顔を上げた。 「一円にもならねぇ土下座は、見る価値もねぇ。とっとそこへ座れ」  眼差しだけでソファを示され、漆黒は頬を歪めながら立ち上がると、楼主と向かい合う形でひとり掛けのそれに座った。 「大体な」  唇から白い煙を吐き出して、男が問いかけてくる。 「ここを出て、なにをしようっていうんだ」  漆黒は、この世の深淵を覗くような、深い沼のような楼主の目を真正面から見返し、静かに口を開いた。 「梓を迎えに行く」  漆黒のセリフを、楼主がハッと冷ややかに笑う。 「バカなこと言ってんじゃねぇ。あれはもう、客じゃねぇんだよ。やくざの持ち物に手ぇ出してボコられてぇのか、手前(テメェ)は」 「梓は梓自身のものだ。自由になる権利がある」 「ねぇよ、そんなもん。いいか。ガキとはいえ、あいつはやくざと契約したんだ。外野が口を挟むんじゃねぇ」 「未成年を交渉の道具に使う契約なんて、無効に決まってんだろっ!」  漆黒は思わず声を荒げた。  楼主が嘆息を漏らし、呆れた眼差しを向けてきた。 「だとしても、だ。手前(テメェ)になにができるんだ」  鋭い指摘が、漆黒の耳を打った。  漆黒は一拍押し黙り、膝の上でぎりっと手を握り込んだ。    漆黒にいったいなにができるのか……。  それを考えてしまうと、足が動かなくなる。  だからいまは、自分を突き上げてくる衝動のままに動きたかった……が、漆黒のその甘えを楼主はゆるさなかった。 「手前になにができる」  同じ問いを、繰り返して。  男が小さく鼻を鳴らした。 「……それは、梓を見つけてから考える」  漆黒が、喉奥でつぶれた声で答えると、男に笑い飛ばされた。 「てんで話にならねぇな」  話は終わりだと言わんばかりに、楼主がひらりと手を振った。  だがここで諦めるわけにはいかない。 「警察に……知り合いが、居る。そいつの助けを借りれば……」  食い下がる漆黒の、その語尾に被って。 「漆黒」  と、楼主が漆黒の名を呼んだ。 「手前(テメェ)は本気で、警察が動くと思ってんのか?」  唇の端に厭世的な笑みを刻んだままで、楼主がふぅと紫煙を吐き出した。  漆黒は唇を噛みしめ、眉根を寄せた。    警察は、動かない。  それは漆黒が誰よりもよくわかっていた。  梓という存在が警察にとって価値を持つのは、人質交換が終わった後なのだ。漆黒が梓をエスにしようと思ったのも、彼が……鬼頭組や柴野組の情報を掴める立場に居ると考えたからだった。   「なぁ、漆黒。俺がなんで手前(テメェ)に、梓を預けたと思う?」  不意に、楼主が押し黙る漆黒へと、そう問いかけてきた。  漆黒は、ハッとして男を見た。  楼主は煙管の中の燃えカスを、カツン、と灰皿の中へ落としながら、気怠げな眼差しを投げてきた。 「最初に手前(テメェ)が言ってただろうが。なぜ俺なんだ、って。なぜだと思う?」 「…………俺が一番、適任だとあんたが思ったからだ」 「適任、ねぇ。まぁ当たらずとも遠からずってトコだな。漆黒、俺はな」  楼主が新しい刻みタバコを指先で丸めて、煙管へと詰めながら、世間話のように口にした。 「俺は、おまえなら梓を助けるんじゃねぇかって思ったんだよ。なぁ、」  あまりにもさらりと言われて……漆黒はうっかり聞き逃しそうになった。  瞠目する漆黒へと、男が片頬で笑う。 「なんだその顔は。手前(テメェ)の正体にも気付かねぇ、俺がそんな間抜けに見えてたのか?」  くく、と喉を鳴らして、楼主はまた煙管の吸い口に唇を寄せた。 「…………いつだ」 「あん?」 「いつ気付いた」  漆黒は上体を乗り出し、飄々と煙を吐き出す男を()めつけた。  楼主がゆらりと立ち昇る紫煙を目の端で追いながら、小さく肩を竦める。  それからおもむろに腰を上げると、二人の間にあったローテーブルに片膝を乗り上げ、漆黒の濡れた髪をぐいと掴んできた。  頭皮が引き攣れるほどの強さだ。  漆黒は顎を上げて男を見上げた。 「なぁ、漆黒。手前(テメェ)はこの三年間、ボロを出さねぇ、優秀な捜査員だった。そんなおまえが淫花廓(うち)へ潜ってる刑事だと、俺がなぜ、知ってると思う?」  男の、問いかけの意味を理解して……漆黒はハッと身じろいだ。  優秀な捜査員だと、楼主が評した通り。漆黒がこれまで上手く潜れていたのだとしたら……。  楼主がそれを知っている理由は、ひとつしか有り得なかった。  脳裏に閃いたその答えを、漆黒は苦い思いで吐き捨てた。 「知ってたのか……!」    漆黒の言葉を、楼主は否定しなかった。  つまりは、そういうことなのだ……。  警察と淫花廓は。  それは、組織の上層部だけの話ではなく……漆黒に身分秘匿捜査を命じた上司たち……実務を取り仕切る面々にも浸透していることだったのだ。    思い返せば、淫花廓へ潜れと言われたときも、穴だらけのずぼらな指示だった。  漆黒が淫花廓や楼主についてなんの情報を得ることができなくても、特に急かされることもなかった。  後輩の……イエスマンになりきれない熱血漢が、淫花廓を捜査すべしと声高に叫んだから……だけに、ここへ送り込まれたのだ。   「……最初から、検挙目的じゃなかったということか……」  ぽつりと、苦渋の呟きが漏れた。  道理で、警察に戻りたいという訴えが無視され続けたわけだ……。  いつまで淫花廓(ここ)に居ればいいのか、と涼香越しになんど訴えても、明確な返事が得られなかったわけだ。  警察組織にとっては、第二第三の正義感溢れる若者が「淫花廓を捜査すべし」と声を上げたときに、こう答えられる体裁があれば良かったのだ。  、と。      上司の思惑を正しく理解した漆黒を、楼主が満足げに細めた目で眺めた。 「冷静に頭が回ってるようでなによりだ。さて、じゃあ改めて話をしようじゃねぇか、漆黒。梓を助けたいと言ってる手前(テメェ)は、?」 「……は?」 「俺はいま、誰と喋ってんだ? 淫花廓(うち)男娼(しょうひん)か? それとも刑事さんか?」  楼主の眼差しが、一気に鋭さを帯びた。  ここが交渉の分かれ道だ、と漆黒は悟った。  男娼か、刑事か。  答えを間違えれば、そこで話は終わってしまうだろう。 「おまえは、何者として梓を迎えに行こうとしてんだ?」      厳しい声が、畳みかけるように漆黒へと向けられた。  漆黒は男を凝視したままで、どう答えるべきかを考えた……。        

ともだちにシェアしよう!