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エピローグ
着流しの男が、煙管 をふかしている。
梓と漆黒は、楼主と向かい合う位置で並んで座っていた。
場所は、応接室である。梓が漆黒と初めて対面した場所だ。
漆黒の唇に、タバコはない。
この部屋の窓が開いていないからだ、と梓にはわかった。
自室で喫うときも換気には気を遣っている漆黒である。
やっぱりやさしいひとだな、と、梓の胸にじわりとぬくもりが広がった。
けれど見上げた彼の横顔は、硬い。
なにか、あまり良くない話なのだろうか?
少し不安になった梓を、
「梓」
と低く深みのある声で楼主が呼んだ。
「は、はい」
梓が男へ視線を向けると、ふぅ、と紫煙を吐き出した唇を楼主が小さく動かした。
「今回の件の詳細は、漆黒から聞いてるな?」
問われて、梓はこくりと頷く。
今回の件……梓が、鬼頭 組組長の愛人の身代わりになるために淫花廓へ連れて来られたことには裏があった、ということは、昨日漆黒に教えてもらっていた。
最初から楼主には、この人質交換を成立させる気がなかったということ。それは、他の組の……若頭、という立場のひとの意向であったということ。
梓はただ、大人たちの都合で振り回されただけの被害者で……だから漆黒を恨んでいい、と言われたこと。
でも、と梓は思う。
でも、梓は淫花廓 へ来たからこそ、漆黒に出会うことができた。
色々つらいこともあったけれど、いまこうして隣に漆黒の姿があることには、喜びしかないから。
だから梓は、利用されたとも被害者だとも思ってはいないのだった。
「いくら若頭が仕組んだことだったとはいえ、梓、手前 は鬼頭と柴野に面が割れてる。柴野の機嫌は昨夜アザミがとっちゃいるが、問題は鬼頭だ。梓。おまえはしばらく淫花廓 で身を潜めてろ。それぐらいの金は、若頭から貰ってるしな」
楼主のその言葉に口を開いたのは漆黒だった。
「しばらくっていつまでだ」
「さぁな。一年か二年か……とにかくほとぼりが冷めるまでは隠れてる方が無難だろうな」
煙管の吸い口でひたいを掻いて、男が梓の返事を促すように目線を送って来る。
梓は一も二もなく頷いた。
梓がここを出てしまえば、漆黒とはもう会えないから……出て行かなくていい、ということは朗報であった。
梓は笑みを浮かべて隣に座る男を仰いだが……漆黒の眉間はまだ険しく寄ったままで、梓はたちまち不安になる。
どうしたのだろうか……。
「それで、理久だが」
理久、という名に、梓は意識を楼主へと戻した。
「理久は外の病院へ戻す。ここじゃあなにかあった時に手に負えねぇからな」
「……はい」
「治療費は、手前が稼ぎな、梓」
「おいっ」
漆黒が噛みつくように身を乗り出した。
「梓を使うつもりかっ」
「うるせぇよ。なにも男娼に仕立てるって言ったわけじゃねぇだろうが。まぁ俺ぁそれでもいいがな。いい娼妓になりそうじゃねぇか」
「ふざけるな。金なら大楠から充分に貰ってるはずだろ」
「だからうるせぇって」
楼主がうんざりとしたようにため息をもらし、灰皿に刻みタバコの燃えカスをカツンと捨てた。
男の吐く煙が、仄かに甘く部屋に満ちている。
「俺は親切で言ってるんだぜ? こんな場所じゃあ子どもは暇を持て余す。梓。手前昨日アザミの手伝いをしただろ」
「は、はい……」
「般若がおまえのセンスを褒めてた。手隙のときは、これからもあれの手伝いをしてやれ」
「え……」
「般若は両邸を回ってるからな。ああ見えて忙しいんだよ」
「ぼ、僕にできることがあるなら、お手伝いさせていただきます」
梓は楼主へ向けて、頭を下げた。
楼主が満足げに頷いて、それから漆黒へと視線を転じた。
漆黒の背が俄かな緊張を宿したのが、梓にも伝わってくる。
「さて、じゃあ次は手前の処遇だ、漆黒」
「ああ……」
漆黒が少し顎を引き、膝の上の手をこぶしの形に握った。
梓はなんだか胸がざわざわとして、対峙する二人の男を忙しなく見交した。
「手前は俺の犬になると、約束したよな?」
「した」
楼主の問いに、漆黒が諾々と頷く。
梓は思わず、漆黒のこぶしの上に手を重ねていた。
漆黒が一瞬梓と目線を合わせて、心配するなというように口角を上げたが、すぐにまた真顔に戻って、楼主の次の言葉を待った。
楼主は新しい葉を指先で丸めて煙管 へと詰めながら、平坦な声を漆黒へと放った。
「なら手前の行く場所はどこか、わかってるな?」
片眉を跳ね上げて確認をしてきた男へと、漆黒が硬い表情のまま首肯する。
「警察へ戻る」
梓はぎょっとして腰を浮かせた。
立ち上がった梓の手を、漆黒が掴んで。
梓を見上げて、じわりと滲むような微苦笑を見せた。
「梓。俺はこの男に恩がある。それを返すには、警察に戻る必要があるんだ」
子どもに言い含めるような、やさしい口調で。
ゆっくりと、漆黒が口にした。
「ど、どうしてですかっ」
動揺がそのまま声に表れた。
「い、嫌ですっ」
梓はぶんぶんと首を振った。
せっかく、漆黒と一緒に過ごせると思ったのに……。
漆黒が淫花廓を出るなんて、そんな、思いもしなかったことを告げられて、思考が停止してしまう。
漆黒は、楼主へ恩返しをするために警察に戻り、そこで楼主の手足となって情報を集めるのだという。
男娼と警察との二重の仮面に疲れていた漆黒が。
今度は楼主のスパイとなって警察に潜るというのか。
恩というのはなんなのだろう。
梓のせいなのか。
梓のせいで、漆黒はまた望まぬ仮面を被らなければならないのか。
働かない頭で、それでも梓はそう考えて。
漆黒の手を振り払い、テーブルの脇を回って楼主の隣に行くと、床に膝をついて土下座の姿勢になった。
「お、お願いしますっ。漆黒さんを追い出さないでくださいっ」
必死に言い募る梓を、感情の読めない楼主の目が無感動に見下ろしてきた。
「梓。やめろ。いいんだ」
梓の背後に立った漆黒が膝を折り、身を屈めて梓の両肩を掴んでくる。
「だ、だって。嫌です。僕は嫌です」
制御できない感情に、梓はじっとできずに体を捩った。
駄々をこねる幼児のようにもがく梓を、漆黒の腕がぎゅっと強く抱きしめた。
「梓。ごめんな。おまえと一緒に居てやれなくて、ごめんな。でもちゃんと迎えに来るから。絶対に、おまえを迎えに来るから。今度は嘘じゃない。おまえを愛してる。だからおまえの安全が確保された頃に、俺が必ず迎えに来る。必ずだ」
梓の好きな、バリトンの声が耳元で囁いた。
それでも梓は「嫌です」と首を振り続ける。
だって、安全が確保される頃って、どれくらい先なのだろう? 一年? 二年? そんなに長い間漆黒に会えないなんて、そんなのは嫌だった。
欲深くなっている、と梓は自分でそう思う。
昨日は、漆黒と思いが通じ合っただけでもう望むものなんてないというぐらい、満たされたのに……。
永遠に会えないわけじゃないのに、離れるのが嫌なんて。
梓は欲深くなってしまっている。
それでも簡単には頷けなくて……。
梓は涙をこぼしながら体をくるりと反転させて、正面から抱き合う形で男の胸に縋りついた。
「ぼ、僕も行きます。あなたと行きます。だから僕をひとりにしないで……」
聞き分けのないことを言っている自覚はあったが、そう乞うことをやめられない。
漆黒の顔が苦し気に歪んで。
頭をさらに強く掻き抱かれた。
これが最後の抱擁のようにも思えて、梓はますます泣いてしまう。
「おいおい……」
不意に、呆れたような声が降って来て、部屋にふわりと煙が漂った。
梓と漆黒は同時に、ひとり泰然と座っていた楼主の方へと目を向けた。
新しく火を点けた煙管 をゆっくりと吸った男が、眇めた瞳でじろりとこちらを睨んでくる。
「イチャつくなら余所でやれ。まったく……」
煙とともに、そう吐き捨てて。
楼主が薄い唇を歪めた。
「勝手に話が進んでるみてぇでなによりだが、いつ誰が手前に警察へ戻れと言ったんだ?」
「……は?」
「俺はひと言も言ってねぇよ」
「だが……あんたにはその方が都合がいいはずだ」
漆黒が戸惑う声を聞かせた。
梓は固唾を飲むようにして、楼主を凝視する。
「俺の都合を手前が決めるんじゃねぇよ。確かに、おまえが警察に潜ってくれりゃあ俺は情報を得やすくなる、が」
一度言葉を切った男が、憎らしいほど緩慢な動作で煙管を吸い、シャープな印象の頬を僅かにゆるめた。
「おまえが居なくなれば、またどこかのタイミングで潜入捜査官 が送り込まれて来んだろ。それもまた面倒なんだよ。面倒事 は少ないに越したことはねぇからな。漆黒、手前なら、余計な真似はせずにこれまで通りに振る舞えるだろう?」
「……ああ」
「それに『漆黒』の年季もまだ明けてねぇ。稼げる男娼 をみすみす手放す阿呆がどこにいる?」
ふん、と鼻でせせら笑って。
楼主が煙管の先端で漆黒を示して、命じた。
「手前は取り敢えずこれまで通り、男娼を続けな。稼ぎが良けりゃ、梓に合わせて淫花廓 を出られんだろ。せいぜい馬車馬のように働けよ」
梓はポカンと、ニヒルな印象の整った楼主の顔を見つめた。
いまのはいったい、どういう意味なのか……。
感情の振れ幅が大きすぎて、理解がついていかない。
それでも、漆黒が。
梓の肩を、強く強く抱き寄せて。
目尻に、くしゃりとしわを寄せて、笑ったから。
この男と、離れなくても良いのだ、と。
梓はあまりの安堵に脱力し、漆黒の体にへなへなともたれかかった。
「理解したならさっさと出て行け。手前らのラブシーンなんざ、一銭の金にもならねぇんだからよ」
楼主の憎まれ口に急かされて、漆黒が梓の腕を掴んで立ち上がった。梓は足の裏がなんだかふわふわとしていて、漆黒にすがることでなんとか立位が保てる状態であった。
「楼主」
漆黒が深々と、男へと頭を下げた。そして、口を開こうとしたが……楼主が切っ先を制するように、
「礼を言うよりも金を稼ぎな」
と、守銭奴ぶりを発揮するのを耳にして。
梓はふふっと笑ってしまった。
ふと見れば、漆黒も苦笑を唇に刻んでいる。
「せいぜいあんたのために働くよ」
「そうしてくれ」
ふぅ、と煙を吐き出した男へと、梓はそれでも礼の言葉を舌に乗せた。
「あのっ、……ありがとうございましたっ」
声と同時にぴょこっと頭を下げた梓へと、楼主が肩を竦めて……それから梓の名を呼んだ。
「梓」
「は、はいっ」
「漆黒の言った通り、理久の治療費なら若頭にたんまり貰ってる」
「……はい」
「だから、手前の稼いだ金は、手前で使っていいんだ」
男がなにを言いたいのかがわからずに、梓は曖昧に頷いた。
隣で漆黒が、小さく肩を震わせて笑っている。彼には楼主の意図が理解できたのだろうか?
首を傾げた梓へと、楼主が補足を口にした。
「手前の金で、そこの男娼を買ったっていいんだぜ?」
悪戯っぽい口調だった。
梓はきょとんと目を丸くして……それから、ちからいっぱい、頷いた。
「はいっ!」
漆黒に肩を抱かれて応接室を後にする。
廊下に出た途端に、キスの雨が降って来た。
梓はくすぐったさに肩を竦めながらも、男の顔を引き寄せて、その整った鼻先や頬に負けじとキスをした。
「梓。一緒にここを出ような」
バリトンの声が、甘く鼓膜を震わせた。
はい、と梓は返事をして。
「ずっと一緒に居てくださいね」
と、漆黒へとそれを乞うた。
漆黒が、目尻にしわを寄せるやさしい笑い方をして。
唇が、降りてきた。
梓は瞼を閉ざして、口づけを待ち……待ちきれずに伸びあがって、自分からも迎えにゆく。
しっとりと、唇が重なった。
仄かにタバコの味のする、漆黒のキスは。
梓の胸をしあわせで満たしてくれて。
それはまるで、未来を約束する、誓いのキスのようで。
梓は喜びを噛みしめて、愛の言葉を、大切に大切に、舌の上で転がしたのだった。
淫花廓~漆黒の章~
終幕
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