1 / 2

前編

 命を狙われているわりには、レイモンド先生は元気だった。  一週間ぶりに自宅に戻ってきた先生は、玄関ホールでおれの姿を見かけて手をひらひら振った。 「ただいま、トルーマン君。変わりなかったか?」  探してたんですよ、どこ行ってたんですか、とおれが詰め寄ったら、先生はあの優しい顔に微笑みを浮かべて、「秘密」と言った。嫌な人だ。 「冗談だよ、知り合いを頼って行ったんだが、追い返された」  そう言って、先生は行方不明になってたわりに汚れひとつ、皺ひとつない真っ白な手袋をはめた手で、おれの頭をぽんぽんと叩いた。これをされると、おれは条件反射でガキに戻ってしまう。ほんとうに嫌だ。  捨てられかけた仔犬の目で先生を見上げて、「メシ、できてますよ」と言った。 「『食事』と言いなさい」と先生。相変わらずおれの頭を撫でている。それからにこっと笑った。 「食事より、先に風呂に入りたいよ。きのうは入れなくてね」 「イギリス人で毎日風呂に入ってる人なんかいませんよ」 「きみは?」 「……おれは入ってます」  先生が、そのほうが好きだって言ったから、という言葉を飲みこんだ。素直に言うのは癪だ。先生は自分の右目を擦った。 「トルーマン君は本当にぼくの言いつけをよく守るな。えらいね。いいこいいこ」 「ガキ扱いはやめてください」 「『子ども扱い』、と言いなさい。いつまでもスラム上がりのままだと、ぼくがいなくなったあと、苦労するよ」  その言葉に、心臓が止まりそうになった。先生は自分の発言の威力に思い至っていないらしい。飄々と、「もうかばってあげられなくなるんだからね」と言った。その口調は、完全に父親のそれだった。  おれは虚勢を張った。先生の手から異常に重いスーツケースを冷たく奪いとり、「一人で大丈夫ですよ」と言った。 「そうだな」先生は笑った。「結婚するって、言ってたもんな」  おれはうなずくこともせず、先に立って歩きだした。ロンドンはグッジ街にあるこの先生の家には、やたらと廊下に観葉植物の鉢が置いてあり、見通しが悪い。だから初めてこの家に来たころは、よく鉢の陰になった扉にぶつかったり、行き止まりに気づかず壁にぶち当たったりしていた。  この家が観葉植物の鉢だらけなのは、先生が一つ一つの鉢に「魔除け」を封じこめているからだと以前聞いた。鉢の一つ一つに仕込まれた魔除けが、先生がいないあいだもおれといっしょにこの家を守っていたんだ。  おれが荷物を運ぶために寝室に向かう階段をのぼりはじめると、先生は玄関扉のほうを振り向いて、黒い扉に右手のひらを押し当て、術を掛けている最中だった。それからポケットから正方形の護符を取りだした。先生のシンボル、円に盲目の狼と眼の図像。先生は護符をポケットナイフで扉に突き刺し、「眼になる」とつぶやいた。  それから振り返ると、二階にいるおれを見上げてにこっと笑った。 「もうこれくらいはできるようになったか?」  おれはうなずいたが、顔が青ざめるのは抑えようがなかった。  先生が魔術を使うと、おれの体の中から血が引いてしまう。それは「反発」なのだと先生が言った。未熟な魔術師は、強大なエネルギーを前にすると力のバランスがうまく取れず、自分の中のエネルギーが引いて具合が悪くなってしまうって。S極から逃げるN極みたいなものだ。ただ、磁石はお互い反発して逃げあうが、この場合逃げてしまうのは未熟なおれだけだった。  やっぱり先生は強大な魔術師だと思わされる。そんな先生の姿を、おれはいつも這いつくばって敬ってきたつもりだった。  先生は階段をのぼって、いつのまにかおれのすぐそばに来ていた。 「風呂に行こう。新しい石鹸を下ろそうと思って、楽しみにしてるんだよ。摘みたてのローズの香りがするんだって。すてきだろう?」  ローズの香りがする先生を想像すると、複雑な気分になる。四十六歳のおっさんなのに。 「いっしょに入るか?」と言った顔はいたずらっぽかったので、おれはむかついて階段をのぼった。 「男同士でいっしょに入るなんて変ですよ」  おれが言ったら、「そうだね」と先生は答えた。おれは振り向いた。スーツケースの重さが、ずしりと右手に伝わる。 「先生。命を狙われてたんでしょう? 大丈夫なんですか」 「トルーマン君」  先生はおれの目を見つめて、言った。 「ぼくはもうだめだと思う」  そうですか、とおれは答えた。 ☆  レイモンド・V・レイモンド(仲間うちからは、通称『ダブル・レイ』とふざけて呼ばれているらしいけど)先生は、おれの師匠だ。年齢は四十六歳。少し白髪の混じった黒髪をいつもオールバックにしていて、形のいい浅黒い額を覗かせている。そこに叡智が詰まってるんだって、先生を信奉する人間たちは言うけれど、おれには夢ばかりが詰まっているように見えた。  先生は、おれから言わせてもらうとそんなにハンサムではない。少しエキゾチックで、インドの血が混ざっていると言う人間もいる。とはいえ、先生本人が言うには、イギリス人とユダヤ人のハーフだそうだ。黒い目が印象的で、いつも穏やかで笑い方が優しい。  おれなんかでは、ただその前に立ちすくむことしかできないほど、頭がいい。古代の魔術からローマ文学、ギリシャ哲学、ユダヤ教の秘儀までなんでも知っていて、よく同じくらい頭のいい人たちと自宅の書斎で議論をしていた。おれはびびって、お茶を持っていくときも、先生たちが発する言葉が一言でも体をかすると、思考停止になってしまう。  先生は笑って、トルーマン君もいっしょに参加したらいいのに、と言うけれど、あの場にいたら呼吸停止になってしまう。だから、お茶を持っていけるだけで充分だ。  おれは先生の弟子になって三年経つ。今年、二十四歳になった。それまでは、スラムで暮らしていた。酷いところだったから、先生に拾ってもらって感謝している。  おれなんか、先生の弟子にふさわしくないと言う人間たちがいる。もっともだと思う。先生は、「トルーマン君には三ついいところがある」と言ってくれた。 「探究心が旺盛。体が頑丈。犬を飼っている気分が味わえる」  そう言うと、やつらは笑っていた。でも、先生に悪意はない。それはわかってる。先生はこう言いたかったんだと思う。「トルーマン君はぼくの心をちょっとは慰めてくれる」と。  そう脳内補完していますが、それでまちがっていませんか? 先生。  おれはとりたててどうということのない人間だ。魔術の素質を見込まれて先生に拾ってもらったけれど、それ以外にたいした才能はない。魔術の才能も、あると言ってもとるに足らないものだ。あ、スラムのひどい訛りを三年で矯正できたことは褒められたけど。  ファースト・ネームを呼ばれることは、誰からであろうとめったにない。おれのファースト・ネームは「サイモン」と言う。先生に呼ばれたのはこれまで二回だけ。  一度目は先生の弟子を辞めると告げたとき。二度目は、キスされたとき。  でもその二回だけで、先生はいつもおれのことを「トルーマン君」と呼ぶ。 ☆  浴室はシャワーが使えるけど、なかなか温かい湯が出ないため、結局は別で湯を沸かしてそれをバスタブに入れる形にしている。だから入浴は面倒で金もかかり、イギリス人が毎日入浴しないというのもうなずける。おれだって、スラム暮らしのときは風呂なんか入ってなかったし(せいぜい体を拭くくらいだった)。それに、イギリスの浴室は例外なくふつうの部屋にバスタブだけ置いてあるもので、床には絨毯が引いてあるから、この部屋を汚さないでおくのとか、カビさせないでおくのはまたとても大変だった。  湯を沸かしてバスタブに張るころには、先生が帰ってきてから一時間近く経過していた。先生は浴室で服を脱ぐと、逞しい裸を全然隠さず、王侯貴族のように堂々とバスタブに浸かった。 「はあ、天国」  気持ちよさそうに言うので、おれも無下にはできない。 「よかったですね」と答えると、「ほんとに入らないのか?」と先生が言う。 「いっしょにお風呂入ったら、このあともう一度湯を沸かす手間がなくなるよ。きみも夜に入るんだろう?」 「おれは、今日はいいです」 「入ってくれるほうが個人的にはうれしいけど」 「いいじゃないですか、別にいっしょに寝るわけでもないし」 「寝ないのか?」  そう言ってじっと見つめてくる黒い瞳に、おれはひれ伏しそうになる。 「誘惑しないでください」  そっけなく答えたら、先生は笑って、「まじめな子を誘惑しちゃだめだね」と言った。  ほんとは、誘惑なんかいらない。力づくで奪ってほしい。  そう思う自分が気持ち悪くて、罪深くて、ほんとうに嫌になる。おれはバスタブのそばに置いた椅子から立ちあがり、先生の背後にまわった。 「背中、洗いますよ」  そう言ってスポンジを手に取った。下ろしたてのローズの石鹸。泡立てているあいだに、先生はざぶんと湯に潜った。床とおれの爪先が濡れそうになって、慌ててよける。  湯から頭を出した先生の前髪が額に貼りついてる。先生は両手で顔をごしごし擦り、おれを見上げた。髪から、額から、ぽたぽたしずくが落ちる。先生の色香に、おれは言葉を失くした。  先生は笑った。 「お願いするよ。四十肩で、背中に手が回りにくいんだよねえ」  はいはいとつぶやいて、おれは先生の背中にスポンジをすべらせる。  きれいな形の肩甲骨と肩甲骨のあいだには、先生のシンボルである盲目の狼と眼の図像、それに魔術言語で「常に賢くあれ」という言葉が彫られている。こういう護符の類はだいたいくるぶしのあたりに彫ることが一般的らしいけど、先生は肩甲骨と肩甲骨のあいだに彫っている。そのほうが、護符としての効果が大きいらしい。一般的にここに彫らない最大の理由は、人前で服を脱ぐことがあってもし見られたら、目立つから――というよりも、体の中心部に彫ることで護符としての威力が大きい代わりに、自身が消費するエネルギーもまた大きくなるから、だそうだ。  先生はおれの思考を読んだかのように言った。 「この背中の護符に、今回もとても護ってもらったよ」  おれは護符を丁寧に洗う。先生の肉体は、四十六歳という歳を感じさせず引き締まっているけれど、特に傷痕というものはない。今回も、死の追走劇をくぐり抜けてきたわりには、体はきれいだった。ただ、護符の色が少し白くなって、傷みたいになっている。  おれは少しでも先生を護る力になれない自分を歯がゆく思った。先生が留守のあいだ、家を護ることだけで手いっぱいだった。 「きみはよくここを護ってくれたね。安心して帰ってこられたよ。ありがとう」  先生は手のひらですくった湯を顔に掛けながら言った。おれは「はい」とつぶやいた。しばしの沈黙。 「久しぶりにきみの顔を見たが、あいかわらずハンサムだな」  左側の壁に掛かった鏡を見て、先生が言った。おれは鏡を覗きこむ。黒い短髪、緑の目、不機嫌そうな若い顔。先生はハンサムだと褒めてくれるし、実際スラムにいたころは、この顔のおかげで裕福な女たちから金や食べ物を恵んでもらうことがあった。  男相手に体を売ればもっと生活が楽になる、と仲間に言われて、それだけは承服できなかったけれど、あのとき頑なでよかったと今は思う。土を食うほど餓えてたけど。でも、きれいな体のままで先生のそばにいられる。 「おれ、ハンサムじゃありませんよ、先生」  そう言うと、先生はいたずらっぽく笑った。 「ぼくの十倍はハンサムだよ。騎士みたいで、いい男だな」 「十倍は言い過ぎです。五倍くらいですよ」  はははと先生は笑った。伸びやかな笑い声で、おれはそのとき、ふいに泣きそうになっていた。  死なないでください、先生。  すがりついて、泣きわめきたかった。

ともだちにシェアしよう!