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後編

「髭を剃ってくれないか?」  顎をさすりながら、先生が言った。 「悪いね。もう、右目が見えないんだ」  おれはぎくっとして、先生の顔を覗きこむ。黒い瞳はいつもと変わりない。 「敵の魔術でやられた」先生は言った。「視神経を断たれたんだ。回復させるほどの力は、もうぼくにはない」  その言葉に愕然とする。先生にできないことがあるなんて。沈黙したおれの頭を、先生は大きな手のひらで撫でた。 「頼むよ。きみは器用だから、きっときれいに剃ってくれると思う」  湯がおれの額から鼻筋に伝って落ちた。  おれは椅子の上に湯を汲んだ洗面器を置き、石鹸を泡立てたブラシも使って、剃刀で先生の髭を剃った。先生の顎はがっしりしていて、男らしい。 「はあ、天国」  気持ちよさそうな先生。昔はギラギラしてたらしいけど、今はなんというか、ほわほわしている。どこからどう見ても、呑気で優しいおじさんだ。 「しゃべると危ないですよ」  おれが注意すると、先生はこくりとうなずいた。  しばらく沈黙が落ちた。 「結婚式は、いつ?」  危ないって言ったのに、先生はしゃべりかけてくる。おれは肌を切らないように注意して剃刀をすべらせながら答えた。 「六月にしようかと話しあってます」 「あと四か月後か。おめでとう」  おれは口の中をきつく噛んでいた。血の味が溢れる。 「ありがとうございます」 「相手は、レティシアさん? アンダースン家の」 「ええ」  レティシア・アンダースンは年下の二十二歳。裕福な家の三女で、可愛らしい顔立ちをした、しっかりした女だ。彼女は魔術に興味があり、おれが参加していた勉強会で知り合った。でも、レティシアが興味があるのは占いとか惚れ薬とか、そんな分野で、純粋魔術とはまた違う。その証拠に、魔術教団に参加するつもりはないと言った。  彼女はおれがレイモンド先生の弟子だと知ると、それを喜んだ。あんな立派な先生の弟子なんて、と言う。先生の名声はレティシアのような一般人にまで届いていると知って、くすぐったい気持ちになった。  レティシアに対して自分がどう思っているのか、おれはわからない。  先生は冷静な声で言った。 「たぶん、式に出席はできないよ。すまない。でも、その代わりと言っちゃなんだけど、きみに遺したいものはたくさんある。本とか魔術表とか、実験道具とか、もらってくれるか?」 「いりませんよ」  おれは声が震えそうになるのを抑えるのがやっとだった。 「あなたの跡を継ぐつもりはない」 「ふさわしくないと思ってるのか?」 「それも、思ってる。でも、もう嫌なんですよ。あなたには敵対者がたくさんいる。あなたの跡を継げば、危険なんです」 「そうだな」 「先生。自分の勘違いだったと謝って、もう二度と魔術の世界に戻ってこないと誓ったらどうですか。そしたら、命を奪われることはないかもしれない」 「それもできる。だが……魔術はぼくの人生なんだ。魔術がない人生なんて、ぼくには『ない』んだよ」  先生は頑固だ。おれは知っていた。先生は二十六年前の若いころ、恋人の女を亡くし、それをきっかけに魔術に目覚めたこと。先生が生涯を懸けて探究したのは、死者の蘇生に関する魔術だってこと。おれはたった一人の家族、たった一人の妹を亡くし、自暴自棄になっていたところを、先生に助けられた。いっしょに、死者を甦らせる術を探究しようと言ってくれた。  そのとき、先生はおれに言ったんだ。「きみの目は亡くなった恋人の目にそっくりだ。いい目だね」って。  魔術は完成した、と先生が言った。そのために、彼は悪しき魔術師から狙われ、善き魔術師たちからも敵対視された。そんなのは神の摂理にもとるというわけだ。  先生は居場所を失くし、味方も全部敵になり、逃げるしかなくなった。 「あいつらは、先生を殺して皮を剥ぎ、脳みそを摘出して、先生の脳髄に刻まれた死者蘇生の魔術言語を取りだすつもりです。おれは、先生にみすみす殺されてほしくない。せめて、いま敵にまわっている元の味方だけでも、こっちに戻ってきてもらいたい。あの魔術は封印する、二度と魔術には手を出さない、そう誓って、護ってもらいましょうよ」  すがりつくようなおれの声も、先生はどこ吹く風に見えた。 「魔術がなければ、ぼくはないも同然なんだ」 「魔術を使えなかったとしても、おれは先生が好きです」  先生はちらっとおれを見て、笑った。 「そうか。じゃあ、ぼくがきみの先生を辞めたら、『レイモンド』と呼んでくれるつもりか?」  そう言った先生の声は冷たかった。おれは剃刀を持ったままうなだれた。 「サイモン」  先生の手がおれの頭を撫でる。 「泣くな」  泣いてません、とおれは答えた。鼻水が口の中に流れ込んできた。 「なあ、サイモン。人は死んだら流転するんだって、賢者たちはみんな言うよ。生まれ変わって、また人間に、虫に、動物に、地獄の亡者に生まれ変わるんだってな。おれは、今度はきみの子どもに生まれてくるよ」  幸せにな、サイモン、と先生は言った。おれは涙で歪んだ自分の爪先を見ていた。  そのときだ。天啓に打たれたように、ひらめいたのは。  おれは顔を上げて、じっと先生の顔を見つめた。涙で歪んではっきりとは見えなかったけど、先生は不思議そうな顔をしていた。 「トルーマン君?」  尋ねる優しい声に、おれは身を乗りだして言った。 「先生、おれに死者蘇生の魔術、教えてくれませんか?」 「え?」  先生はびっくりしていた。おれの顔を見て「でもね」と困ったように言った。 「あれは、そうとう難しい魔術だよ。術者のエネルギーも、命を費やすほど必要だ。悪いが、今のきみにできるとは思えない」 「成長します。あなたのように強い術者になる。頑張ります。だから、おれに教えてください」 「妹さんを甦らせるのか?」 「いいえ。あなたを甦らせる」  おれは先生の目を見つめて言った。 「あなたがいつ死んでもいいように、教えてください」 「無茶だよ」 「いいえ。教えてください。おれがその魔術を使えるようになったら、あなたが死んでも安心だ」 「死者蘇生の魔術を使ったあとは、エネルギーを消費しすぎて、魔術生命が絶たれるかもしれない。それどころか、最悪廃人になるんだよ」 「それでもいい」  おれは床から立ちあがった。 「おれに魔術を教えてください。で、教えながら、いっしょに逃げましょう」  先生の両手をぎゅっと握って言うと、先生は目をぱちぱちとしばたいた。 「本気か? でも、苦しい逃避行になるぞ」 「スラム育ちを舐めないでください。土を食って生きてきたんですよ。風呂に入れなくてもどうってことない。いますぐ、逃げましょう」 「この家を捨てて? 叡智の詰まった本や実験道具や膨大な書類を捨ててか?」 「すべて捨てて、逃げるんです」  先生は虚空を睨んだ。そして言った。 「それもいいかもしれないな」  先生はバスタブから立ちあがった。湯が体から滝のように落ちる。おれは先生の、逞しい裸の体をぼんやりと見上げていた。 「先生」おれはつぶやいた。 「先生、うれしかったです。死なずに戻ってきてくれて。おれの子どもに生まれてくるって言ってくれて。昔、キスしてくれて」 「覚えてたのか」 「覚えてます。おれ、男を好きになってはいけないと思ってた。それに、同性愛は法律で禁じられてる。でも、先生はキスしたとき言ってくれましたね。じゃあ、きみはだれか、いいなと思う女性と結婚すればいい。それで、ぼくはきみたちの子どもとして生まれてくるって」 「あのときも言ってたのか? ぼくはもうだめだよ、物忘れがひどい」 「あんまり本気じゃなかったんでしょう?」 「本気だよ。だから、今も言ったんだ」  おれは先生の顔を見た。その目は、おれが初めて見るものだった。先生の目は殺気立っていた。  先生はおれの手首をつかみ、唇をおれの唇に押しつけた。湯のにおいがした。  おれの体の芯を電流が走って、脳天から抜けた。でもその電流は体の中に残っていて、おれの中で共鳴し、鳴り響いていた。  唇を離すと、先生はおれを見た。その目はもう元の優しいものに戻っていた。でも、今度は自分の目つきがおかしくなっているのがわかった。 「……おっ勃ちそうです」  思わず素直に言ったら、先生は目を丸くした。 「『おっ勃つ』って、上品に言うとなんなんだろうね?」 「『勃起』じゃないですか?」 「あんまり変わらないな」  そう言って、先生はくすっと笑った。おれの頭を、大きな手でぽんぽんと叩いた。  その日の夜、おれは初めて先生と寝た。でも、セックスはしなかった。ただベッドで、隣同士で眠っただけ。おれはムラムラしてしまって、恥ずかしかった。自分は同性愛者じゃないのに、こんなの変だと思う。でも、先生は特別だ。  おれのこと、好きにしてくださいと言ったら、先生は「いい子だね」と言った。おれの頭を撫でて、「ぼくが寝つくまで、結界を張って護っていてくれないか」と言った。  先生はこのころ、魔術師たちから夢や思考といった内面世界に踏みこまれる攻撃を受けていた。おれは先生が起きるまで結界を張っていると言い張った。それなら先生も安心して眠れる、おれは先生が起きたあと寝ますからと。  先生はそんなことしなくていいと言ってくれたけど、おれは頑張った。結局先生が折れて、彼は眠った。  先生は毛布にくるまって、上半身裸で眠っていた。外では雪が降っている。寒くないんですかと訊いたら、このほうが落ち着くと答えた。眠るときはいつも上半身裸で眠っていること、おれはこの日初めて知った。  肩甲骨と肩甲骨のあいだで、護符と『常に賢くあれ』という魔術言語が白く光っている。おれはその場所に額を押しつけた。先生の肌はあたたかかった。バラの香りがして、思わず笑ってしまった。 ☆  目が覚めたら、先生はいなかった。  ベッドの上に書き置きがあった。「きみが危ない目に遭うのは嫌だから、ここで別れよう。でも、ときどきは会いに来るよ」  先生はばかだ。  それから、おれは魔術の修行に励んだ。今では、もうほとんどの魔術師が相手でも気分が悪くなったりしない。  おれはミセス・ウェイクフィールドというひとの弟子になった。白髪で丸眼鏡の、優しいおばあさんだ。彼女だけは、先生に敵対する者が続出するなか、中立を保っていた。ミセス・ウェイクフィールドは、他人の思考や夢に侵入して、コンタクトをとる魔術に長けていた。  その魔術で、おれは今でも先生とコンタクトをとっている。初めは、先生のほうから月に一回、おれの夢にアクセスしてくるだけだった。今では、おれが先生の意識や夢にアクセスする。そこでおれたちは互いの近況を報告しあった。  先生はチベットに行ったり、ロシアに行ったり、スイスに行ったり、各地を転々としていた。こんな生活も悪くないと、少しやつれた顔で笑っていた。おれがレティシアとの結婚を取りやめたと言ったら、「そうか」と一言だけ言った。  夢の中でおれたちは抱きあい、キスし、体を重ねて、お互いいつ死んでもいいと確かめあう。でも、先生の顔は少し名残惜しそうで、その顔を見るのがおれの愉しみだった。  ミセス・ウェイクフィールドがあるとき言った。 「こんなことを言うと気を悪くさせるかもしれないけれど、ミスター・レイモンドは、あなたに強力な魔術を掛けたのかもしれないわね。あの人を好きになるような魔術を」  それが魔術でも、おれはかまわない。おれの心は、もう先生があずかっているから。  今夜もおれは先生の背中の護符に額をくっつけて、いっしょに眠る夢を見る。

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