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第5話 12月25日(火)8時45分 蔵臼商事 3階 広報部
変な夢だった。だが心は軽い。
久しぶりに見た「朝の生理現象」の感動が、いまだに冷めずにいるのだ。
「ふわぁぁぁ……」
「あら、雪村くん。ずいぶん眠たそうね?」
パーテションの向こう側から、聡子の凛とした声が届いた。
「でも、ずいぶん顔色が良くなったわ」
にこりと笑った聡子は、それ以上なにも言わずに颯爽と去って行く。そのすらりとした後ろ姿をぼうっと見送っていると、入れ替わりで背の高い影が居室に現れた。
「専務、おはようございます!」
「おはよう、みんな。昨日は休んで悪かったね」
口々に挨拶をする社員一人一人に、丁寧に応えながら歩いていく。その後ろには、バインダーを抱えた戸名がにこにこと笑いながら付き従っていた。
(そういえば、昨日の夢……)
聖は思い出そうとして、ボッと顔を赤らめた。サンタと名乗る男、もふもふのトナカイだったはずの男――刺激が強すぎてもはや顔はおぼろげだ。……そう思いたい。
「雪村くん――雪村くん?」
「はっはい!?」
名前を呼ばれて顔を上げると、そこには秀麗な蔵臼の顔が目の前にあった。ふわりと笑いかけられ、聖もつられて頬をゆるめる。
「私の部屋に来なさい」
「へ?」
「失礼しま――うわっ」
扉を開いた瞬間に強い力で腕を引かれた。そのまま地面へ衝突すると思い固く目をつぶったが、厚みのある胸に抱きとめられる。
「聖くん、大丈夫かい?」
首筋に息を吹きかけるようにささやかれ、聖は全身を震わせた。この声を、耳が、身体が覚えている。
「さ、さ、さ……!」
専務は面白がっているのか、聖の肩に手を置いたまま笑っている。
「サンタ……」
「専務、コーヒー持ってきましたよ……って、サンタさん抜け駆けはずるいです!」
戸名は専務から聖を引き剥がした。
「ま、まさか、蔵臼専務の下の名前って――」
「おや、本当に気づいていなかったのかい?」と専務は肩をすくめる。
「私の名前は蔵臼三太 。残念ながら、本名だ。それも代々、全員同じ名前を受け継いでいる」
肩をすくめながら、蔵臼は机の上を指さした。『専務 蔵臼三太』と書かれている。
「俺はわざわざ『カイ』にする必要はないっていうのに、やっぱり周りは期待しちゃうみたいで」
「戸名……カイ!?」
「そうです。開 く、って書いて『カイ』なんですよ。戸名家は代々蔵臼家に仕えているんです」
戸名は聖を抱きかかえたまま、くすくすと笑う。
「で、でも、もふもふは……」
「あ、見たいですか? うーん、ここだと服脱ぐのが面倒ですから……」
そう言う戸名を見上げた聖はぎょっと目を剥いた。戸名の頭からは、二本の大きな角が生えている。
「うえええ! 夢じゃ、なかった!?」
じたばたと暴れ出す聖に「落ち着いてください」と声をかけながら、戸名は聖をひょいと抱えて応接ソファに座らせた。
「君が子どもの頃のクリスマスイブの夜を、覚えているかい?」
蔵臼は聖の向かい側で長い脚ゆったりと組んで微笑みを向ける。今日は赤い服ではなく、いつも通り完璧に整えられたスーツ姿だ。
「君は毎年、枕元にホットミルクと手作りのクッキー、それから手紙を置いてくれていた。『いつもありがとう、おつかれさま』と書かれたそれを見るのが、本当に楽しみだったんだよ」
聖は頬を赤く染めてうつむいた。まさかそれが本当に本人に――それも目の前の人に届いているとは思わなかったからだ。
「父からこの『家業』を継いで、初めて手に取った子どもからのプレゼントだったんだ。君が五歳のときだ。しかも君は、私がプレゼントを与えることのできる十二歳まで、毎年欠かさず置いてくれていた」
隣に座る戸名を見ると、「美味しかったですよ」と手を握られる。「カイ」とたしなめる蔵臼の声に、戸名は「ちょっとくらいいいじゃないですか」と唇を尖らせる。
「家業って……この会社は違うんですか?」
はたと気がついて聖は口を挟んだ。この会社――『蔵臼商事』は、蔵臼家の経営ではなかっただろうか。
「経営者は長男以外が引き継ぐし、私にとっては副業だね。基本的には暇なんだ。七月に世界会議があるくらいで、本当に忙しいのは十二月くらいだから」
「はぁ……」
おとぎ話のような話は信じられない――と言いたかったが、昨日見た空に浮かぶソリ、四足のトナカイの変化……その上、家族しか知らないはずのクリスマスイブの夜のことを、蔵臼は知っているという。
「入社試験で君に『サンタはいると思うか?』と訊ねたとき、君の熱弁に私は再び心を打たれたんだ。君のことを、一生守っていこうと思ったんだよ」
「入社試験って……も、もしかして俺がこの会社に入ったのも、あなたの……!?」
聖の指摘に蔵臼は片眉を上げ、唇の端を引き上げた。大人の色香が漂う表情だ。
「私はただ、君の部屋に我が社のチラシを置いただけだ。プレゼントを配るついでにね。 あくまで選んだのは君で、入社できたのだって君の力だ」
戸名が「本当はルール違反なんですけどね……」と苦笑する。その言葉を聞いた蔵臼が「昨夜のことは」と前置きをして話し始める。
「確かにルールを逸脱してしまったかもしれない。だが、君の力になりたかったんだ。君が悲しみに暮れているのを、見ていることができなかった」
蔵臼は組んだ脚を下ろし、身体をずいと前に出す。正面から見つめられた聖は一ミリも視線をずらすことができない。
「君が、もし……」
蔵臼の声に、聖ははっと我に返った。蔵臼は立ち上がり、聖の足元に跪く。ぎょっと身を引いた聖の指先が掴まれた。蔵臼は初めて見るような、少し自信のなさげな表情を浮かべている。
「嫌じゃなければ……これからも私にプレゼントを送り届けさせてほしい。クリスマスだけじゃなく、毎日でも、君に――」
これも魔法か、と思った。だが頭の片隅で、それはきっと違う、と誰かがささやいている。
胸の内が心地よくざわめき始める。
「ずるい! サンタさんばっかりずるいです!」
張りつめた空気を乱す戸名の声が、聖の背後から飛んできた。
「俺だって聖さんのこと、あんなにも好きだって伝えたはずなのに!」
「カイ、邪魔をするな。私に仕えているのならここは譲るべきだろう」
「あ、それを持ちだすなら、来年からソリ引いてあげませんからね!」
「なっ……」
「ぷっ」
突然始まった二人の言い合いに吹き出した聖を、蔵臼と戸名が同時に振り返った。
「あ……す、すみません! なんだか、嬉しくて……本物のサンタとトナカイに会えるなんて、こんなに素敵なプレゼントは二度とないです。本当にありがとうございます。俺はもう、充分に幸せです!」
それにきちんと勃つようになったし、と心の内で思いながら満面の笑みを浮かべる。だが、二人は呆然と聖を凝視していた。何か間違ったことを言っただろうか。
「カイ……ここは休戦しよう」と蔵臼が静かに切り出した。
「ええ、そうですね。ここは協力したほうが良さそうです」戸名も聖を見つめたまま大きくうなずく。
「ああ。まだ聖くんには私たちの本気を理解していないようだ。今夜、もう一度じっくりと伝えるとしよう」
「え? ええっ?」
「聖くん……クリスマスは、まだ終わっていないよ?」
父さん、母さん。
俺は昨夜、本物のサンタとトナカイに会いました。
でも、なんだかとんでもないプレゼントを、俺はもらってしまったようなのです――
~Fin.~
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