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~第一章~ 最終話「七日目」

 今日で金久保と関わりを持つようになってから一週間。  未だ降り続いている雨の音で目が覚めた。  梅雨の季節、にしてはちょっと早いよな。  鬱陶しい雨音に深く眉間に皺を寄せながら体を起こし、いつも通りキッチンへ向かってはバナナを取り出し頬張る。  片手には牛乳パックを、再びリビングへ戻ってきてはテーブルの上に置きっぱなしの白狐のお面を手に取り、ベッドへ腰を落ち着かせる。 (今日で金久保の情報を集めるのも終わりか)  とはいっても、金久保はまだ病院にいるだろうから情報を収集することはできない。  なら今日は久しぶりに学校に行くかな。  バナナを食べ終え、牛乳を飲み終えた俺は手にしていたお面をテーブルの上へ戻す。  そして一度、大きなアクビをこぼしてから着替え始めた。  学校指定の鞄を肩から下げ、ビニール傘を片手に学校への道を歩いていると雨音が響く中、聞き慣れた声が耳に入った。 「クーロちゃん、おっはよー」 「はよーさん」  なんかデジャヴだな。  そんなことを考えながら後ろから歩いてくる赤嶺を待つように立ち止まっていると、なぜか彼は開いていた傘を閉じた。  かと思うと昨日のように狭い俺の傘へと体を滑り込ませてくる。 「狭いんだけど」 「クロちゃんと相合い傘ー」  聞いちゃいねえ。  相変わらずの赤嶺に小さな溜め息をこぼしてから辺りを見渡すと、ちょうど登校時間とかぶっているからか学校に向かっている生徒が多い。  そのせいで俺たちの今の行動を見ている人も多い。  俺が見渡したことで目が合った人たちは、何事もなかったかのようにすぐに目をそらした。  頼むから勘違いだけはしてくれるなよ。 「クロちゃん、今日は学校行くの?」 「そのつもりだけど。赤嶺も行くんだろ?」 「もちろん。単位ヤバイからねぇ」 「お前それ前から喋ってるよな」 「クロちゃんもヤバイんじゃないのー?」 「赤嶺よりは大丈夫だと思う」  自信は全くないけれど。  そんないつも通りくだらない会話をしながら学校の下駄箱に辿り着くと、見慣れた後ろ姿が靴を履き直していた。  隣に立っていた赤嶺もその存在に気がついたらしく、なぜか足音を立てないよう近づいていく。  そんな様子を、俺は傘を閉じながら見つめていた。 「隙ありー!」  声を上げながら赤嶺が片足を持ち上げ、靴を履き終えた白柳先輩の腰めがけて蹴り上げようとする。  だがその動きよりも速く先輩は赤嶺から距離を置き、脇に抱えていた鞄を放る。  するとその放られた鞄は見事、赤嶺の顔面を直撃した。  ベチンッ、なんていい音が辺りに響き渡る中、靴を履き終えた俺は赤嶺の前に落ちていた先輩の鞄を拾い歩み寄る。 「先輩、おはよーです。先輩も今日は学校なんですね」 「まあな。実はちょっと単位がヤバかったりするんだよ」  先輩もですか。  とは言わずに拾った鞄を渡し、動かない赤嶺をそのままに二人で教室を目指す。 「そういえば今日雨降ってますけど、先輩どこで昼食べます?」 「あー、特に決めてねえな」 「なら俺たちと一緒に食べませんか?」  突き当たりの分かれ道、三年生の先輩の教室は一階に、二年生の俺たちの教室は二階にあるため階段を上らなければいけない。  だから先輩とはここで別れることになる。  そのため俺たちはその突き当たりで立ち止まったまま会話をしている。 「いいのか?」 「もちろん、先輩なら歓迎しますよ。俺たちいつも二階の一番端の空き教室で食べてるんで」 『先輩も来てください』と続けるつもりだったが、いきなり背中に飛びかかってきたものに驚き言葉が途中で切れる。 「なになぁに、なんの話ぃ?」 「……先輩、やっぱり二人だけで食べますか」 「えー! ちょっと、また白柳贔屓!?」 「冗談だから耳元で叫ぶのやめてくれ」  耳キーンってなるから。  一週間ぶりの授業は全くわからなかった。  俺ってこんなに頭悪かったか? と自分で自分にビックリしてしまった。  しかしなにを言ってるのかわからない教師の声はなんでこんなにも眠気を誘うのか。  チラリと、右隣の席の赤嶺を見てみると彼はノートも出さず、代わりに涎を出しながらすでに眠っていた。  ときおり、教師が赤嶺の名前を呼んだりしているが起きる気配は全くない。 (図太い神経だな)  小さく笑いながらそんなことを考え、大きなアクビをこぼしてから腕に顔を埋めてしまった俺もなかなかのものなのかもしれないけれど。  そうしてほとんどの授業を寝て過ごしてしまった俺たちは今、売店にいる。  だが俺は財布を片手に売店から少し離れた場所で立ち尽くしている。  いや、こうして立ち尽くしてしまうのも仕方がないと思う。 (人、多すぎだろ……)  まるでタイムセールに群がっている主婦のように、目を血走らせながらパンを購入している様子にげんなりしてしまう。  あんパンしか残らないだろうけど待つか、と壁に寄りかかった瞬間。 「はーい、みんなちょっとごめんねぇ。俺たちにも選ばせて欲しいなー」  赤嶺が手を叩き、言葉を続けながら人混みに近づいていくが退ける人はいない。  叩いていた手、足の動きをとめて数秒。  突然、赤嶺の手が近くにいた人の肩を掴んだかと思うと、なにかを耳元で囁いた。  その瞬間、囁かれた人は顔を真っ青に染めながら売店から離れた。  その様子を赤嶺は満足そうに、そして次々と同じことを繰り返していったかと思うと、あんなにも売店の前にいた人たちは今、花道をつくるように綺麗に並んでいる。 「クロちゃん、空いたからパン買おー」  そしてその花道の一番向こう側には満面の笑顔を浮かべている赤嶺が手招きしている。  俺にこの花道を通れというのか。  こんなことなら人混みに混ざるべきだった、と深く溜め息をこぼしながら足を一歩、踏み出した。  なんとかパンを買うことができた。  あんなにも痛い視線を浴びながらパンを買うなんて、きっとこれから先はもうないんだろうなと思う。  いや、もうないことを願いたい。 「クロちゃん、今日もいつもの場所でいい?」 「二階の空き教室だろ?」 「もっちろーん」  階段を上り終え、騒がしい教室をも通りすぎ空き教室の前へ。  目の前のドアを開き中を覗き込むと、すでに一人の男子が未だ雨の降り続いている窓の外をぼんやりと見つめていた。  その儚げな表情が不覚にも、とても綺麗だと思った。 「あっれー、なんで白柳がここにいんの?」 「ん……ああ、そういえば言ってなかったっけ」  赤嶺の声、白柳先輩がこちらに顔を向けたことによって我に返った俺は室内に足を踏み入れながら言葉を続ける。 「朝に俺と先輩が話してただろ。二人だけで食べますかーって」 「ああ、それって昼飯の話だったんだぁ」 「そういうこと」  赤嶺が納得したことがわかれば、すでに椅子に座っていた白柳先輩に向かい合うように机を挟んでの椅子に座った。  左は窓、向かいは先輩、右は赤嶺という図だ。 「あ、先輩これあげます」  買ってきた昼飯の中から一つだけ手に取っては先輩へと差し出す。  すると彼はお礼の言葉を口にしながらそれを見た。 「おにぎり?」 「はい。この前一緒に食べたとき落としちゃって、結局スズメに食べられちゃったじゃないですか」 「……そういえばそういうこともあったな。なら俺からはこれやるよ」  受け取ってもらえたことに口元が緩んだのもつかの間、逆に手渡されたものを見てみると、それは牛乳だった。 「前それ飲んでたから好きなのかと思ってな」 「ありがとう、ございます。飲み物買い忘れてたんで助かります」  そう二人で笑い合っていると、横から視線を感じたため目だけを向けてみる。  と、ジト目で俺と白柳先輩を交互に見ている赤嶺がいた。 「……二人とも、俺の分はないんだぁ?」 「花道なんかつくったお前に奢りたくない」 「花道?」 「クロちゃんのバカー! 買い忘れた飲み物買ってくるから二人なんかイチャイチャしてればいいんだぁ!」  なんて、泣き真似をしながら教室を出ていく赤嶺の後ろ姿を見送ったあと、俺たちは顔を見合わせ笑ってしまった。 「なんか最近、赤嶺変わりましたよね」 「黒滝もそう思うか?」 「はい。なんかこう、表情が豊かになったっていうか、前はなに考えてるのかいまいちわからなかったんですよ」 「ああ、それはあったな」 「だから、赤嶺のことがもっとわかるようになったことがすごく嬉しいんです」  赤嶺が出ていった、わずかに開かれたままのドアを見つめていると、頭に優しい温もりが。  それは俺の頭をしばらく撫でていたかと思うと耳に触れ、そして離れていった。  触れられた耳がくすぐったい。 「黒滝、今日誘ってくれてサンキューな」 「いえ、別にそんな、気にしないでくださいよ。俺がただ先輩と食べたかっただけですから」 「誘ってくれたおかげで話す決心がついた」 「話す決心、ですか?」  一体なんの話だろうか。  売店で買ったカツサンドの封を開けながら聞き返すと、彼の顔が窓に向けられたことがわかる。  封を開けたカツサンドを手に、なんとなしに顔を上げた俺は息を呑んだ。  この部屋に入ったときと同じ表情だ。  儚げで、それでいてとても綺麗。  思わず俺はそんな先輩の手の甲に自分の手を重ねてしまった。 「黒滝?」 「……あ、いや、これは気にしないでください」  そう言いながらも先輩の手を握り締めたまま。  すると手の中の先輩のが反転したかと思うと、逆に握り返されてしまった。 「……今日で金久保の情報を集めるの最後だろ?」 「え? あ、はい、そうです」 「まだ連絡してねえんだろ?」 「そう、ですけど」 「報酬は二十万」  先輩の手を握っている手に力を込めてしまった。 「なんで、先輩がそれを」 「……なんでだと思う?」  なんでだと思うって?  そんなの、理由は一つしかない。 「先輩が、依頼人だから」  そう言葉にした瞬間、ここ一週間の先輩の言動を思い出す。  情報を集めてることを話したら声を荒らげたり。  まだ情報を集めていることに心配の言葉をかけてくれたり。  最近だと、金久保の情報を聞こうとして俺が断ったんだったか。  どうしてそういうことをしてくれたのか、先輩が依頼人だとわかった今ならわかる。 「シロに依頼したとき、まさかチームに入るとは思わなかった。だから俺のせいでお前が制裁にあうようなことがあったらって、気が気じゃなかったんだ」 「だからあのとき取り乱してくれたんですね」  だからあのとき、謝ってくれたのか。  制裁されるかもしれないのに情報を集めるようなことをさせて悪い、って。  きっとそういう意味だったんだろう。  自分で依頼しておいて心配してくれた先輩の気持ちが嬉しくて、笑みを抑えることができない。  いや、笑みを抑えることができない理由はそれだけじゃない。  そもそもなぜ、先輩が金久保の情報を欲しがったのか。  それはきっと、 「先輩、本当は金久保を信じたかったんですよね?」  笑みを浮かべたままそう尋ねると、未だ俺の手と繋がれたままの彼の手がピクリと震えた。  それだけでその考えが間違っていなかったことがわかる。 「白柳先輩もあの人に似て仲間想いなんですね」 「アイツと比べんな……つかその顔やめろ」  繋がれていないほうの手でぐにっ、と頬を引っ張られた。  でもあまり力を込められていないからか痛くはない。  どこまでも優しい白柳先輩に、俺は繋がれたままの手に力を込めたその瞬間、突然ドアが勢いよく開かれたためビクリと肩を跳ね上げてしまった。  そして恐る恐るそちらへ顔を向けると、手にしていたイチゴミルクのパックを握り潰している赤嶺が。 「おま、赤嶺! 中身っ、中身出てるから!」 「……本当にイチャイチャしてたよ、このむっつりが」 「誰がむっつりだって?」 「白柳に決まってんじゃん? やっぱりクロちゃんと二人きりにしておけないねぇ」  繋がれたままの手を離し、掃除用具から雑巾を取り出して慌てたりしているのは俺だけで、二人は言い争いをしている。  イチゴミルクで汚れてる手を洗ってこいとか。  腹が減ったから早く飯を食べようとか。  とりあえず誰か手伝ってくれとか。  そう言いたかったのに昼休み終了を告げるチャイムが鳴り響き、俺は思わず手にしていた濡れた雑巾を赤嶺の背中に投げつけてしまった。  結局、昼飯を食べることもできないまま五時間目の授業を受けている。  といっても俺は腹が鳴らないように両手で押さえながら丸まっているため、教師の言葉なんて耳に入ってないわけだけれど。 (腹減りすぎて気持ち悪くなってきた)  これも全部、赤嶺のせいだと睨むように隣へ顔を向けた俺は目を大きく見開いてしまった。  予想外だった。  いや、確かにさっきからなんかいい匂いがするなとは思ってたけど。  でもまさか授業中にパンを食べるなんて。  そんな俺の視線に気がついたらしい赤嶺がこちらに顔を向けたかと思うと、満面の笑顔で一本のバナナを差し出された。  しかしそれを受け取る気になれないのは赤嶺の日頃の行いのせいだろうか。  これが白柳先輩なら素直に受け取っていた。  なんてことを話したらまた、白柳贔屓って言われてしまうんだろう。 「……サンキュ」  躊躇しながらもそれを受け取っては、隣から赤嶺の視線を感じながら皮の剥いたバナナを頬張る。  その瞬間、隣からの視線がさらに熱っぽくなったことに気がつくが、そちらに顔を向ける勇気はもうない。 「クロちゃん、美味しい?」 「まあ、バナナ好きだしな」 「そのバナナ美味しい?」 「……美味いけど」 「俺のバナナ――」 「だぁあ、それはもういい!」  この男は相変わらずだ!  残ったバナナを皮を赤嶺の顔面に投げつけながら声を張り上げると、辺りに静けさが訪れる。  その瞬間、授業中だったことを思い出し顔を前方へ戻す。  すると予想通り、教師の顔がこちらに向けられていた。  次に教師の口から放たれる言葉も予想できる。 「黒滝と赤嶺、廊下に立ってなさい」 「……はい」 「やったー」  なぜそこで喜ぶ。  教室を追い出された俺たちが真面目に廊下に立っているはずもなく、下駄箱へ向かう俺の後ろを赤嶺がついてきている。 「クロちゃん、どっか行くのー?」 「んー、シロに会いに行こうかなってさ」 「本当、クロちゃんってあの人が好きだよねぇ」 「ん、大好きだ」 「……らぶ?」  飲んでいた、白柳先輩からもらった牛乳を吹き出しそうになった。  慌てて、無理やりそれを飲み込んだら気管に入ってしまい、咳き込んでしまったわけだけれど。 「なに、言ってんだっ。ラブじゃなくてライクだから。変な勘違いするなよ」 『あの人に失礼だろ』と言葉を続けながら手の甲で口元を拭いつつ、中身のなくなった牛乳パックをゴミ箱へ放る。  なにやら赤嶺が意味深な笑みを浮かべていたけれど、なんとなくこれ以上この話題には触れないほうがいいかもしれない。 「ほら、赤嶺も来るんだろ?」 「俺も一緒に行っていいの?」 「なに今さら遠慮してんだよ」 「えー? だってクロちゃんとあの人との愛の巣に――」 「お前、はっ……!」  思わず赤嶺の腹を殴ってしまったが、許されると思う。  昨日と同じように花屋で花を買い、俺と赤嶺はあの人が入院している病室を目指している。  ここに来ると手が震えてしまうのは、仕方のないことなんだと思う。  なんとなしにチラリと隣を歩いている赤嶺へ視線を移してみると、俺の視線に気がついたらしくヘラリと笑い返してくれた。  その笑顔に勇気付けられながら、目の前のとびらを開く。  昨日と特に代わり映えのしない真っ白な風景。  違うところをあげるとするならば、俺が昨日、持ってきた花が花瓶にささっているということだろうか。  そんな些細なことに俺は詰まっていた息を吐き出しながら足を踏み入れる。 「……シロ」  昨日と同じように花瓶の横に花を添え、椅子に腰を落ち着ける。  そんな俺の背から、赤嶺の気配を感じ取った。 「今日も雨降ってるな。薄暗いし、やっぱ雨は好きになれない」  シロの手を、力を込めすぎないようにそっと握りながら話しかける。  その間、赤嶺が横から茶々を入れてくることはなかった。  そのことに内心、感謝をしながら口を閉ざした俺は窓の外へと視線を移す。  まだ雨は強い。  この雨は、一体いつやむんだろうか。 「クロちゃん」 「ん……あ、どした?」 「飲み物買ってくるけど、クロちゃんもいる?」 「あ、なら俺が行くよ」 「いーのいーの。俺が行くからクロちゃんはゆっくりしてて」  気を遣わせてしまったんだろうか。  ウインクをしながらそんなことを言ってくれた赤嶺に、『サンキュ』と返すとなぜか頭を撫でられた。  同い年の幼馴染みに頭を撫でられるなんて、ちょっと複雑だな。  そんなことを考えながら再び視線を目の前のシロへ。  三年ぶりに見たシロの真っ白になってしまった髪に初めは驚いたけれど、慣れてしまうと似合ってる。  もちろん真っ黒だった髪も似合ってたけれど。  そして今は閉じられている瞼が開かれたら、切れ長の瞳の中に俺が映る。  その薄い唇が開かれたら―― 「って、なに考えてんだ俺は!」  赤嶺が学校であんなことを言うから変なことを考えてしまった。  らしくもなく熱くなってしまった顔を押さえながら謝罪の言葉を口にしたその瞬間。  閉じられたままのシロの瞼がわずかに揺れた。 「し、ろ?」  気のせいかと、何度かまばたきをしてから再び視界に入れるが、やはり動いている。 『もしかして』なんて言葉が頭の中を駆け巡り、俺は緊張を抑えることができなかった。  ベッド脇のナースコールを押しながら、俺はシロ、と何度も呼んだ。  その目を早く開いて欲しくて。  俺の名前を呼んで欲しくて。  ありがとう、って言いたくて。 「シロッ!」  雨音にも負けないほどの大きさで名前を呼ぶと、閉じられたままだったその瞼が、ゆっくりと開かれた。  今まで眠っていたせいか、どこか疲れた色をしたその瞳は宙を泳がせたあと、顔を覗き込んでいた俺の姿をとらえた。 「シロ……」 「お前、誰だ?」  耳が狂ったんだと思った。 「金久保たちは、いないのか」  金久保の名前は呼ぶのに、なんで俺の名前を呼んでくれない?  なあ、なんで?  なんで、なんで。 「クロちゃ――って、うわ! 総長お目覚めだぁ!」 「お、赤嶺か」  体に力が入らないから誰が入ってきたのかわからないのに、声だけで赤嶺だってわかった。  俺のは、わからなかったのに。 「なあ、赤嶺」 「どうしたのー、総長」 「そこにいるやつ、お前の知り合いか?」 「……は?」  ずっと聞きたいと思っていたシロの声が、今は残酷だ。  赤嶺が引きつった笑みを浮かべながら説明しているみたいだけれど、シロは不思議そうな表情を浮かべるだけ。 「なん、で……」  ハッ、としたように赤嶺がこちらに顔を向けるが、もうこんな残酷なところにいたくなかった。  シロが俺のことについて口を開くたび、何度も頭を殴られたような衝撃を受ける。  何度も、地獄に落とされるような感覚だ。 「あぁぁあッ!」  医師たちがこの病室に入ってきたその瞬間、俺は弾かれるようにその場から走り出した。  背後で俺の名前を叫ぶ赤嶺の声が聞こえたが、立ち止まることなんてできなかった。  どこをどう走ってきたのか、覚えていない。  今、自分自身がどこにいるのかもわからない。  ただ無我夢中だった。 「し、ろ」  雨が冷たい。  傘をさしている人たちが俺を周りを避けて歩いているが、そんなことどうでもいい。 「シロ……シロ、シロッ!」  なあシロ、なんでだよ。  金久保のことだって赤嶺のことだって覚えてるのに、なんで俺のことだけ覚えてないんだよ。  俺の名前を呼んで欲しかったのに。  笑いかけて、欲しかったのに。 「……なんで」  雨じゃない熱いものが頬を伝っている。  それが涙だということには気づいてはいたけれど、すでにびしょ濡れの俺には拭う気力も起きなかった。  その場で座り込み、膝を抱えて丸くなる。 「俺、どうすればいい」 「とりあえず俺に話してみれば?」  聞き覚えのある声。  俺の体を打ち付けていた雨がやんだことに顔を持ち上げると、手にしている傘を差し出している見覚えのある顔が。  こんなどんよりとした雨の中でも青い髪は目立っていた。 「その前に風邪引かないように風呂だね。おいで、ここからなら俺の家近いから」 「……俺のこと、ムカつくんじゃないのかよ」 「もうそんな感情ないよ。むしろ君なら歓迎する」  差し出される手。  その手と男の顔を交互に見つめ躊躇した後、俺はゆっくりと震えている手を重ねた。  三年前の冬に姿を消したあの人にやっと出会えた。  そして意識を取り戻したかと思うと、それは最悪の形だった。  どうして。  どうして。  なんで俺のことを忘れたんだよ。  あれから三年。  今、泣きそうな顔をしているのは俺だった。   ~第一章~ 完

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