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~第一章~ 第六話「六日目」
どうやら日曜の朝、という体内時計が自分の中に設置されているらしい。
目が覚めたのは朝の十時だった。
普段の朝とは時間差が激しいせいか、まだ頭の中が眠っている。
「……ねむ」
重い体をゆっくりと起こすと、体全体に痛みが走り顔がゆがむ。
(そういえば昨日、青木葉の仲間にボコボコにされたんだったな)
切れ、すでにかさぶたになっている額の傷を指腹で撫でつつそんなことを考え、カーテン越しから光の射している窓を見つめる。
ぼんやりと、働かない頭をそのままにしばらく見つめていると、辺りに空腹を告げる音が鳴り響く。
そこでようやくベッドから下り、のっそりと、まるで亀のような動きで冷蔵庫まで辿り着いては中を覗き込み溜め息をこぼす。
大好物のバナナがない。
これは大問題だ。
(昨日、握り潰したあれが最後だったか)
もったいないことした、ともう一度溜め息をこぼした俺は買い物に行こうと、携帯と財布をポケットに家を出た。
今にも雨が降りだしそうな曇り空だ。
さっきカーテンから光がこぼれていたのは、雲と雲の隙間から差し込んだ光らしい。
なんとなく浮かない気分のままビニール傘を手に主婦に混じってスーパーの自動ドアをくぐる。
買い物カゴを手にいつものようにバナナを一房、他になにかいいものがないかと店内をぐるりと一周すると、赤嶺が好きそうな限定のイチゴミルクが売っていたため、それもカゴに入れてやる。
もちろん、あとでお金は請求するけど。
他にめぼしいものが見つからなければそれらだけをカゴに、レジに並び会計を済ます。
袋が無料だったことに少しだけお得感を覚えながら、再びアパートに向けて歩き出そうとすると雨が降りだしてきていることに気がついた。
傘を持ってきて正解だったな、とそれを開き傘に雨が当たる軽い音を聞きながらアパートへ戻った。
バナナをくわえたままパソコンの前に座ってメールをチェックしている。
相変わらず『報酬は後払い』を希望する奴らが多くて、呆れてしまう。
「報酬は先払いが基本だって教わらなかったんだか」
新しく届いたメールを消していったらほとんど残らなかった。
残ったメールといえば、アイツの弱点を教えろだの、あの人のタイプを教えて欲しいだの。
代わり映えのしないものばかりでつまらない。
金久保の情報を集めたりする、それくらいスリリングのある仕事がもっときて欲しいもんだ。
そんなことを考え、食べ終えたバナナの房はあとで捨てようと脇に。
モニタから視線を外し、なんとなしにテーブルの上に置いたままの白狐のお面を手に取る。
「シロ……俺はどうすればいい」
本当は情報屋をやめるかどうかまだ悩んでるんだ。
やめてしまったら少ないあの人との繋がりが消えてしまうような気がして。
「……最近、弱くなったな」
自分らしくないと自嘲気味に笑い、再びお面に視線を落とした俺はなんだか無性にシロに会いたくなった。
俺たちに会うなとは言われたけれど、シロに会うのはきっと大丈夫だろう。
病院へ向かう途中、花屋で花を買った俺は徐々に強くなってきている雨を降らしている曇り空を、ビニール傘越しから鬱陶しげに見上げた。
花が雨で濡れてしまわないように抱え、病院に辿り着くとどこか足早に部屋を目指す。
そして一つのとびらの前、一昨日ここに来たときもそうだったけれど、中に入るのに勇気がいる。
高まる気持ちを押さえ込むように深く息を吸い込み、吐き出すのを何度か繰り返してからゆっくりと目の前のとびらを開く。
すると前回と同じ景色が目の前に広がる。
花が飾られており、ベッドに人が横になっており。
唯一、前と違うのは雨が降っているせいで窓が閉じられているということだ。
抱えていた花を花瓶の横へ、ベッドへ歩み寄っては置かれたままの椅子へと腰を落ち着かせる。
シロはまだ眠ったままだった。
「……シロ」
名前を呼ぶと声が震える。
手を伸ばすとその手が震える。
それでも手が震えたまま、俺はシロの手を両手で握り締めた。
まだ温かさが残ってるそれに俺がどれだけ安心したかなんて、きっと眠ってるシロは知らない。
「シロ……ごめん」
握り締めたそれを自分の額まで持っていき、開いていた目を閉じて、今までの気持ちを込めて謝罪する。
チームの仲間を騙させてしまったことも。
シロを裏切り者にさせてしまったことも。
こうして、三年間も眠らせていることも。
どれだけ謝罪しても、感謝しても、足りない。
「シロ、しろっ……!」
こんなにも感情を高ぶらせるつもりなんてなかったのに。
それなのにシロと出会ってのこの四年間のことを思うと瞼の奥が熱くなり、それが頬を伝う。
シロと出会ってからも、出会う前からも泣いたことなんてなかったのに、今は涙がとまらない。
力を込めただけで折れてしまいそうなほど細くなってしまったシロの手を握り直しては、ようやく額から離し伝っていた涙を乱暴に拭う。
それなのに、どれだけ拭っても涙がとまらない。
まるでダムが崩壊したみたいだ。
「……なあ、シロ」
涙を拭うことをやめてしまうと、それは自分の膝にパタパタと落ちていく。
それすらも気にせず、シロの手を握り締めたままゆっくりと頭を彼の胸の上に置くと、ドク、ドク、と弱いながらも聞こえた心臓の音が心地よかった。
「なあ……シロ。話したいことが、たくさんあるんだ」
俺は自分がわがままだってわかってる。
だから、守ってもらったのに、さらに早く目を覚まして欲しいと思うんだ。
たくさん聞きたいことがある。
たくさん聞いて欲しいことがある。
「っ……し、ろ」
だから早く起きて、名前を呼んでくれ。
どのくらいの時間そうしていただろうか。
雨音だけが響く室内。
ポケットに入れていた携帯が突然、震え出しため驚き勢いよく体を起こす。
ポケットから取り出し画面を見てみると、どうやら赤嶺からの着信らしい。
震えている携帯を片手に、未だ目を閉じたままのシロへと視線を移しては空いている手を伸ばし、真っ白なその髪に触れる。
そして手の中からさらりと髪を落としては、その手で再び涙を拭ってから部屋を出た。
もう涙が出てくることはなかった。
病院の外に出ても震え続けている携帯に、それほど大事なようなのかと通話ボタンをスライドさせ耳にあてがう。
その瞬間、聞こえてきた相変わらずの赤嶺の明るい声に、ふっと笑みが浮かんだ。
『クロちゃん、今どこにいる?』
「今は病院だな。シロの様子を見てた」
『そっか。ならちょうどよかったかもね』
「なにがだ?」
病院に来る前よりも雨が強くなっているような気がする。
そのせいで、電話越しから赤嶺のものではない声が聞こえている気がするが、誰のものなのか、そしてなにを言っているのかわからなかった。
『クロちゃんに見せたいものがあるんだぁ。もちろん来てくれるよね?』
「別にいいけど……あ、でもそこに白柳先輩いるのか?」
『いるけど、どうしたの?』
「今日は絶対に会いに来るなって言われたんだけど、いいのか?」
そう尋ねた直後に訪れる沈黙。
なにか言ってはいけないことを言ってしまったのかと、心配になり口を開くが先に言葉を放ったのは赤嶺だった。
『大丈夫だよ。むしろ、クロちゃんは来るべきだと俺は思うなぁ』
「それなら、行くけど……今どこにいるんだ?」
『三丁目の空き倉庫、かな』
一体、どうしてそんなところにいるんだ。
昨日までは三丁目の空き倉庫には青木葉と、その仲間がいた。
けれど金久保が仲間を潰してしまったから、あそこにはもう誰もいないはずだ。
それなのになぜ、赤嶺も白柳先輩もそこにいるんだ?
なんだか、すごく嫌な予感がする。
この胸騒ぎが気のせいであることを願いたい。
傘をさしたまま足早に倉庫へ向かったせいか少しだけ服が濡れてしまったが、そんなことも気にせず倉庫へと通じる目の前のとびらを開くと、まず最初に壁に寄りかかってる白柳先輩が目にとまった。
とびらが開かれたことに気がついたらしい先輩がこちらに顔を向けたかと思うと、目を大きく見開いた。
次いで口が開かれたかと思うと、言葉を放ったのは他に俺の存在に気がついたらしい別の人だった。
「あっれー、クロちゃん、いつものあれは?」
先輩の姿にも、言葉にも被さるようにして横から飛び出してきたのは赤嶺だった。
『いつものあれ』というのはきっと白狐のお面のことだろう。
「いや、病院から真っ直ぐ来たからさ」
「そっか。まあそのままでもいっかぁ」
「おい、赤嶺! なんでここに黒滝がいるんだよっ」
俺の手首を掴み、引っ張ろうとした赤嶺の体を押し退けたのは白柳先輩だった。
「さっき黒滝に電話してたとき、絶対にここに呼ぶなって言ったはずだよな」
「俺が白柳の言うこと聞くと思う? 俺が言うこと聞くのはクロちゃんか、あの人だけだよ」
淡々と放たれた、それでいて力強い言葉に白柳先輩は言葉に詰まったらしく、らしくもなく大きな舌打ちをこぼした。
そんな姿に満足したらしく、わずかに目を細めた赤嶺が再び俺の手首を掴む。
「赤嶺、見せたいものってなんなんだ?」
「きっとクロちゃんも喜んでくれる。もしかしたら混ざりたいって言うかもねぇ」
ヘラヘラっと笑う赤嶺の歩いていく先へ視線を移すと、なにやら人が輪になっている。
そして鈍い音が聞こえてくるこれはまさか、リンチか。
「なあ、赤嶺。一体、誰を……」
「クロちゃんの目で確認するといいよ」
舌がまわらない。
正常な判断ができない。
それなのに赤嶺は輪になっていた人たちを退け、俺の背中を押してくる。
一人の男が倒れていた。
この倉庫に来たときから、姿が見当たらなくて変だと思っていた。
なあ、どうしてこんなことになった?
どうして、いつも綺麗だった金色の髪が赤く染まっている?
どうして?
そんなの決まっている。
全て、俺のせいじゃないか!
「金久保ッ!」
未だ俺の手首を掴んだままだった赤嶺の手を振り払い、倒れている金久保へと駆け寄る。
顔は傷だらけで、頭から血を流しているらしくコンクリートに赤い染みができていた。
力なく金久保の隣へと座り込み、震える手をゆっくり伸ばしその腕に触れる。
「か、ねくぼ。なあ、金久保。金久保」
昨日はこの倉庫で俺を助けてくれたじゃないか。
変なことだってされたけど、傷に絆創膏だって貼ってくれたじゃないか。
「かね、くぼ」
「ね、クロちゃん。総長――んーん、金久保がなんでこんなことされてるか不思議?」
「……裏切り者には制裁を。前の総長にその判断を下したのが金久保だからだろ」
いつの間にか俺の真後ろにしゃがみ込み、そう問いかけてきた赤嶺の言葉に顔も見ずにそう返す。
それでも俺は金久保に触れている手を離すことをやめない。
腕に触れていた手を彼の頭に添えると、血はまだ生暖かかった。
「そこまで知ってるなら話は早いね。クロちゃんも金久保が憎いでしょ? 嫌いでしょ? 金久保さえ判断を下さなければあの人はあんなことになることはなかった」
俺の両肩にそっと手を置き、耳元で放たれる残酷な言葉に笑ってしまいそうになった。
本当は俺に向けられるべきはずの言葉。
本当は、この暴力だって俺が受けなければいけないはずだった。
「……俺は、金久保を憎いとも嫌いとも思ってない」
「なんで? だってこの男はクロちゃんの大切な人を制裁して、今も眠らせたままなんだよ?」
本当に不思議そうに尋ねる赤嶺の言葉に、金久保に触れていた手を離しその場に座り込んだままようやく振り返る。
すると赤嶺も、一言も話さない白柳先輩も、その他の大勢の人たちもみんな、俺を見ていた。
その目が一瞬で嫌悪の色に染まることを思うと、恐ろしくてたまらない。
けれど、話さなきゃ駄目だ。
血で濡れた両手を、額をコンクリートの地面へと押し付ける。
いわゆる土下座、という体勢だ。
「え。ちょ、クロちゃん? なに、してんの」
みんなの表情はもう見えないけれど、聞こえた赤嶺の声が動揺していることだけはわかった。
「俺の話を、聞いてください」
「クロ、ちゃん。いいから、そんなのいいからッ……顔、上げてよ」
「……金久保は、なにも悪くない」
きっと赤嶺の手だろう。
未だコンクリートに額をつけている俺の肩を掴み顔を上げさせようとするが、俺は顔を上げるつもりなんてない。
そんな俺の気持ちが伝わったのか、それとも放った言葉に反応したのか。
肩を掴んだままの赤嶺の力が一瞬だけ抜ける。
「悪いのは全て俺なんだ。金久保が制裁をしなきゃいけなくなったのも、あの人が今も眠ったままなのも……全部、俺のせいなんだ」
そう放ったあとに訪れるとても長い沈黙。
いや、実際はもしかしたらたったの数秒だったのかもしれない。
けれど俺にとっては数分と、とても長く感じられた。
「意味、わかんねえよ。なんで黒滝のせいになるんだよ。アイツが裏切ったのは――」
「そもそもあの人は裏切ってなんかいなかった!」
白柳先輩の言葉を遮ってまで叫んだ俺の声が、広い倉庫内にこだました。
「あの人は、誰も裏切ってない。ただ俺を守ってくれただけなんだ」
「っ……もう、それ以上、言うな」
突然、背後から聞こえてきた掠れた声に、俺は地面をつけていた顔を上げ勢いよく振り返る。
するとそこには、苦しげに眉間に皺を寄せつつ片目だけを持ち上げ、倒れたまま俺を見ている金久保がいた。
「かっ、金久保……」
「そこから先は、言うな。じゃないと、なんのために俺たちが――ッ!」
いきなり金久保が声にならない声を上げた。
その原因は、傷があるであろう金久保の頭を踏みつけている足のせいだ。
その足を辿り顔を持ち上げると、わずかに眉尻を下げている赤嶺が俺を見下ろしていた。
「クロちゃん、続けて」
「……あぁ」
金久保の意識が戻ったことにほっと短く息を吐き出してから、俺は再び辺りを見渡し口を開く。
金久保が苦しげに俺の名前を呼んだが、口を閉ざすことはしない。
「脅しのネタに使われていた俺を、あの人は守ってくれた」
「脅しのネタって、クロちゃんが?」
「そう。俺があの人と親しかったからそう使われたらしい。でも仲間想いのあの人は自分を犠牲にして俺を守ってくれたんだ」
そこまで言葉を続けたとき、金久保が大きな舌打ちをこぼした。
それに気がつき金久保に顔を向けた瞬間、彼は口を開いた。
「元々の狙いは、アイツだった。だからアイツは、自分さえいなくなれば黒滝を守れると、考えた」
苦しいだろうに、途切れ途切れになりながらも俺の代わりに言葉を続けてくれる金久保に、胸の奥が熱くなる。
「アイツは、俺に言った。『あんな奴らに殴られるくらいなら、仲間に殴られたほうがマシだ』ってな。それに、このことをお前らに黙ってたのだって、意味はある」
「意味って、なに」
「アイツは、仲間のことを信用してた。けど大切な奴ができて、心配になったんだろ。もし仲間で黒滝を憎み、攻撃する奴がいたら、ってな」
『今の俺みたいにな』と、傷は浅くないはずなのにカラリ、と笑う姿に俺の眉はわずかに下がる。
そしていつの間にか、金久保の頭を踏みつけていた赤嶺の足は退けられていた。
見上げてみると、未だ眉尻を下げたまま、らしくもなく目を泳がせている。
「黒滝は、なにも悪くない。悪いのは、結果的にその判断を下した俺だから、な」
徐々に弱々しくなっていく声質に、赤嶺を見つめていた目を再び金久保へ戻すと、開かれていたはずの片目が閉じられている。
「……金久保?」
名前を呼んでも返事がない。
雨の音がうるさすぎて聞こえないのだろうか。
「なあ金久保、呼んでるのになんで返事してくれないんだよ」
緊張で喉がかれ、指先が冷たくなっていく。
震える手を伸ばし、金久保の胸に置いてみるとまだ動いていて安心した。
遠くから救急車の音が聞こえる。
それは少しずつ近づいてきて、倉庫の前でとまった。
きっとここにいる誰かが呼んでくれたんだろう。
「金久保……死ぬなよっ」
慌ただしく入ってくる救急救命士に顔を向けることもなく、俺は赤が混じった金久保の金色の髪を撫でていた。
今、俺たちは『手術中』の文字が光っているとびらの前にいた。
俺は長椅子の端に座り、そのもう端には赤嶺が。
白柳先輩は椅子に座ることなく壁に寄りかかっている。
その他の仲間たちも来たそうにしていたが、先輩が押し返しているのを見た。
「……金久保、きっと大丈夫だよねぇ?」
嫌な沈黙が続く中、それを最初に破ったのは赤嶺だった。
その問いに言葉を返す気になれない俺はじっと床だけを見つめている。
「さあ、どうだろうな」
「もしさぁ、もし金久保が死んじゃったらどうすればいい? 俺、取り返しのつかないことした。知らなかったじゃ済まされない」
「落ち着けよ」
そうなだめている先輩の声は届いていないのか、端に座っていた赤嶺の近づいてくる気配がした。
それでも俺は床を見つめたまま、動くことはしない。
「クロ、ちゃん」
「……ん?」
「俺を恨んでるよね、憎んでるよね」
少しだけ震えた声。
俺の着ていた服の裾を軽く引っ張る赤嶺の手に、自分の手をそっと重ねてみる。
「俺は、誰も恨んでないし憎んでもない。むしろあの人がまだ眠ったままで、金久保にあんなことさせて……俺を憎んでるだろ」
赤嶺の手を握っている手にわずかに力がこもってしまったのは、仕方がないと思う。
返答を待って数秒。
やっぱり憎まれているのかと、沈黙に耐えられなくなれば握っていた手の力を緩め離そうとする。
だが離すことができなかったのは、俺の手の上にさらに手を重ねられてしまったからだ。
俯きかけた顔を上げると、俺を見ている白柳先輩と目が合った。
「俺も赤嶺も、黒滝を憎むわけねえだろ。ただ……まだ信じられねえんだ。俺たちはずっと金久保を嫌ってきてたからな」
「……平気で仲間に制裁をする、金久保はそういう男だと思ってた」
握っていた赤嶺の手がもぞりと動いたかと思うと、逆に強く握り返される。
先輩に向けていた視線を赤嶺へ戻すと、彼は力なく笑っていた。
「金久保も、ずっと悩んでたんだ。今でも自分は恨まれてるって、間違ったことはしてないと信じたいって」
入院しているシロのベッドの下に隠れていたとき、金久保はそんなことを呟いていた。
あの頃の金久保は俺をのことを本気で憎んでいたけれど、仲間のことは本気で大切にしていたはずだ。
そうでなければあんなにも切な気な声は出さない。
「今すぐには無理だとしても、いつか金久保のことをわかってくれると俺も嬉しい」
二人の顔を交互に見てから言葉を放った直後、『手術中』の文字の光が消えとびらが開かれた。
それを合図に重ねられたままだった手はほどかれる。
「あ、あの……金久保は」
こちらに歩み寄り、かけていたマスクをずり下げた一人の男性に慌てて椅子から立ち上がりながら尋ねると、彼はやわらかな微笑みを浮かべてくれた。
「傷はそれほど深くはなかったですし、大丈夫ですよ」
その言葉に安心したのは、どうやら俺だけじゃなかったらしい。
「会ってもいーい?」
背中に重みを感じ、前屈みになってしまう。
きっと赤嶺が俺の背中にのし掛かっているんだろう。
事実を知っても態度の変わらない赤嶺に、また泣いてしまいそうになったのは秘密だ。
「いいですよ。もうそろそろ目も覚める頃だと思いますし」
『相手は病人ですから騒ぎすぎは注意ですよ』なんて笑いながら背を向けて去っていく男性の後ろ姿に、俺は頭を下げた。
ただの喧嘩ではできるはずのない金久保の怪我をおおごとにしないでくれたことと、命を助けてくれたという感謝の気持ちを込めて。
未だのし掛かったままの赤嶺が不思議そうに名前を呼んできたため、体勢を戻しながら『なんでもない』と返してやると頭の撫でられる感覚がした。
目だけを持ち上げてみると、先輩の手が俺の頭を撫でている。
きっと先輩は、今のお辞儀の意味に気づいたんだろう。
先輩の態度も変わらないことにわずかに表情を緩めながら、俺たちは金久保がいる部屋へと足を踏み入れた。
金久保はまだベッドで眠っていた。
頭に巻かれた包帯が痛々しい。
未だにのし掛かったままの赤嶺が小さく息を呑んだことがわかる。
そんな彼を気にかけつつも置かれていた椅子に腰を落ち着ける。
「……金久保、ありがとうな」
口を開くと、背から視線を感じた。
赤嶺のものか、先輩のものかわからないけれど言葉を続けるために口を開く。
「三年前に俺を助けてくれたことも、さっき倉庫で俺の代わりに話してくれたことも、感謝してる」
そこまで言ってから首を捻り背後にいる赤嶺を見ると、目が合った。
「赤嶺は? 金久保になんか言いたいことあるか?」
『まだ眠ってるしチャンスだぞ』と言ってやると、のし掛かったままだった赤嶺がようやく離れてくれた。
俺の隣に立ち、金久保を見下ろす赤嶺の真剣な表情になんとなしに視線を外した。
「俺はまだ金久保を信用できない。……でも、クロちゃんを助けてくれたことには、俺も感謝したいって思うなぁ。ありがとう、総長」
呼び方が戻ったことにハッ、と顔を上げると、赤嶺は照れ臭そうな表情を浮かべながら俺を見下ろしていた。
かと思うと両手を広げ、俺の体を抱き締めた。
「あー、俺が金久保に『ありがとう』なんて、自分で言ってて鳥肌が立っちゃったぁ」
「それはこっちのセリフだ」
ギュウギュウと力を込めて抱き締める腕の強さに内心、苦しいな、と考えていると前方から声が聞こえ、そちらを見る。
すると眉間に皺を寄せている金久保がこちらを見ていた。
「うげ。なに、いつから起きてたのー?」
「黒滝がありがとうって言ってるときからだな」
「えー、狸寝入り? クロちゃん、やっぱりこの男最低だよ。こんな奴放っておいて帰ろーよ」
いつも以上に口の悪い赤嶺に、照れ隠しなんだろうかと思わず笑ってしまう。
すると帰ろうと俺の腕を引っ張っていた彼は拗ねたように再び背中にのし掛かってきた。
「……金久保、ごめんな。シロとの約束を破ることになって」
「本当にな。これでアイツが目を覚ましたら俺がなに言われるか」
「そうなったら俺もフォローするから。あの人は仲間想いだからきっとすぐにわかってくれる」
「……そうだな」
そう、やわらかく微笑む金久保を見るのは初めてだった。
二人で笑い合い、やわらかな空気に感動していると足音がまた一つ、近づいてきた。
誰のものか、なんて考えなくたってわかる。
「白柳か」
「金久保、俺も赤嶺と同じでまだアンタを信じられない」
「ま、無理に信じろとは言わないしな」
「……でも、黒滝を守ってくれたことには本当に感謝してる。それと倉庫内でのことも、悪かった」
そこまで言葉を続け、頭を下げた白柳先輩に驚いたのは俺だけじゃなくて金久保もだ。
目を見開いたあと一瞬だけ目を泳がせ、苦笑いを浮かべながら短く息を吐き出した。
「俺こそ三年前のあのとき、本当はとめるべきだったのに、話すべきだったのにそうできなくて悪かったな」
同じように金久保も頭を下げた。
そんな二人の様子に、わかり会える日はそう遠くないんじゃないかと胸の奥を熱くしてしまう。
そしてそんないいシーンを邪魔したのはやっぱり赤嶺で。
いつの間にか俺の背中から離れていた彼は、頭を下げたままの二人の後頭部を掴んだかと思うと、そのまま容赦なく頭部同士をぶつけた。
ゴッ、と鈍い音が辺りに響き、確実に痛いであろう音に顔をゆがめてしまう。
二人はというと頭を押さえ、悶えている。
「……赤嶺」
先に復活したのは白柳先輩だった。
ドスの利いた低い声が一人の名前を口にした瞬間、名前を呼ばれた赤嶺はまるで台風のような早さで病室を飛び出した。
そしてそれを先輩が追いかけ、部屋の外でバタバタと走り回る音が聞こえる。
(騒ぎすぎは注意って言われたのにな)
声には出さずに笑い、未だ頭を押さえたままの金久保へ視線を戻す。
「金久保、大丈夫か? もしかして傷口開いたか?」
椅子から立ち上がり、動かない金久保の肩に手を添え顔を覗き込むと彼は笑っていた。
目にいっぱいの涙を溜めながら。
「金久保……すぐにみんな信用してくれる。だって金久保だって仲間想いだしな」
肩に触れていた手で、包帯越しから優しく頭を撫でてやると金久保の腕が俺の腰にまわり、そのまま引き寄せられる。
そんなことをされても抵抗する気になれなかったのは、俺の胸に顔を埋めている金久保の肩がわずかに震えていたからだ。
弱いところもあるもんだと、小さく笑いながら背中を撫でてやると、『ありがとうな』という呟きが聞こえた。
その後、金久保は検査があるからとその日は病院に泊まることになった。
なんともなければ次の日には退院ができるそうだ。
「いやー、まさか入院中の知らないお爺ちゃんに説教されることになるとは思わなかったなぁ」
「赤嶺が病院の中走り回るからだろ」
「白柳が追いかけなければ走らなかったけどー?」
「お前が逃げなかったら俺も追いかけなかったけどな」
金久保が俺の胸に顔を埋めていた間、どうやらこの二人は『病院内を走り回るなど最近の子供はなっとらん』などと見知らぬ人に説教されていたらしい。
まあ、自業自得だよな。
まだ雨のやまない病院からの帰り道。
俺の左側には赤嶺が、右側には白柳先輩と三人横に並んで歩いている。
しかしその中で傘を広げているのは俺だけだ。
というより、傘を持っていたのが俺だけだった。
「ねー、クロちゃん。もっとそっち寄っていい? 俺の肩濡れるー」
「待て。そんなことしたら俺が傘に入れないだろ」
「いいんじゃないの? 濡れて風邪引いて一週間くらい部屋に閉じこもってればいいと思うなぁ」
「お前な……でももしそうなったら黒滝が看病しに来てくれるんだろ?」
「え、まあ、看病して欲しいなら行きますけど」
「えー、なにそれズルイズルイ! クロちゃん、俺も風邪引いたら来て欲しいなぁ」
騒がしいのはいつものことだと諦めよう。
でも狭い傘に男が三人も入っているこの図はどうにかならないものか。
周りからの視線も痛くて、どこかに穴があったら入りたい気分だ。
「そういえば、二人ともありがとうな」
歩みを進めながら放った言葉に、二人が俺を見たことがわかる。
それでも俺は前方に顔を向けたまま、言葉を続けるために口を開く。
「俺も金久保も、二人の言葉がすごく嬉しかった」
「クロちゃん……」
「本当にありが――うおっ」
突然、左側から衝撃を感じた俺はバランスを崩し右側へと倒れそうになるが、白柳先輩が支えてくれたため倒れることはなかった。
そんな彼にお礼の言葉を口にしてから、衝撃を感じたほうへ顔を向けると赤嶺が俺の体に抱きついていた。
「俺にも言わせて。クロちゃん、ありがとう」
「俺は、なにも」
「黒滝がいたからさらに金久保にひどいことしなくて済んだし、黒滝がいたから……勇気を出して金久保に話せた」
白柳先輩の腕が腰にまわされる。
赤嶺から彼へ顔を移すと、優しげな瞳が俺を見つめていた。
「先輩……」
「だから、俺からもありがとうな」
言葉に詰まってしまった。
まさか二人からそんなことを言われるなんて思ってもみなくて。
傘の柄を握っている手がわずかに震えた。
「っ……先に行きます」
動揺している姿を見られたくなくて。
触れ合ったままの二人から体を離しズンズンと先を歩くと、傘がないからか慌てた声が背から聞こえた。
それでも俺は立ち止まることをしない。
だってまだ肩の震えがおさまらないから。
こんな顔、二人には見せられない。
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