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~第一章~ 第五話「五日目」

 朝が来た。  重い瞼を擦りながらゆっくりと上半身を起こし辺りを見渡すと、隣に赤嶺が眠っている。  そんな彼の赤く、やわらかな髪を撫でベッドから下りては台所へと向かう。  冷蔵庫からいつも通りバナナと牛乳を取り出しては、バナナを口にくわえながらパックの牛乳にストローをさす。  その瞬間、バタバタとなにやら騒がしい音が台所へ向かってきたことに気がつき、顔を向けてみるとわずかに息を切らしている赤嶺の姿が。  一体どうしたのかと、くわえたままのバナナを口から離そうと手を持ち上げる。  が、そんな俺の行動よりも先に赤嶺の手がくわえたままのバナナを掴んだかと思うと、なにを思ったのかそれを喉奥まで押し込んできた。 「ん、ぐ……っ」  突然の喉奥へと刺激に、苦しさにわずかに眉間に皺を寄せながらバナナを噛み千切っては、牛乳を手にしていないほうの手で目の前の赤い頭を強めにはたいてやる。  すると『いたっ』なんて声を上げながら離れてくれた。  そこでようやく、くわえたままだったバナナを口から離し、噛み千切ってしまった部分は細かく噛み砕いてから飲み込むことができた。 「お、前は朝っぱらからなにするんだよ」  このままだと怒りのあまり牛乳パックを握り潰してしまいそうだ、と手にしたままの牛乳を洗面台へ。  地を這うような声を発しながら目の前の男を睨むが、彼はヘラヘラといつもの笑みを浮かべたままだ。 「えー、だってバナナ食べてるクロちゃんがあまりにもイヤらしくて」  食べかけのバナナを思わず握り潰してしまった。  その様子に赤嶺は『ギャー』なんて声を上げながら自分の股を押さえている。  本気でソコを踏みつけてやろうか、なんて考えたが想像してみたら自分自身も痛かったためやめておく。  溜め息混じりに、フローリングを汚したバナナを片付けては牛乳を片手に昨夜と同じようにベッドへと腰を落ち着かせる。  と、なぜか俺の隣に座る変態野郎。 「……なんで隣に座る」 「えー、いいじゃん。一つのベッドで体を暖め合った仲なんだし?」 「ただ一緒に寝ただけだろ」  バッサリ、そう切り捨てながら手にしたままの牛乳を喉へ流し込み、枕元に置きっぱなしにしていた携帯を手に取るが着信も受信もない。  平和でなにより、と爺臭いことを考えていると突然、腰にまわされた腕の力の強さに驚き、思わず口に含んでいた牛乳を吹き出してしまった。  一つだけ言わせてくれ。  朝っぱらから、いい加減にしろ!  どうやら最近の赤嶺は真面目らしい。  単位がヤバイから、なんて言いながらも余裕そうにウインクをした赤嶺を先に見送り、取り残された俺はようやく訪れた静けさに深く息を吐き出してしまった。  そして手の中の、まだわずかに残っていた牛乳を飲み干してはゴミ箱へと放る。  今日のやることは決まってる。  シロを脅した奴を。  俺を脅しのネタに使った奴を。 「潰すしかないよなぁ」  テーブルの上に置いたままの白狐のお面を手に取っては、それを見つめる。 「……あと少しだけ、付き合ってもらいますよ」  お面を被りシロになった俺は、自然と口元に笑みを浮かべていた。 ――――  さて、困ったものだ。  潰してやるぜー、と意気込んだものの脅した奴が誰なのか、情報をどこから頂けばいいのか。  金久保のチームの情報自体あまり流れてくることがないため、ネットなどで調べても意味がないことだろう。  この俺でもチーム内の情報はわからず、金久保ただ一人の情報しか手に入らないのだから、そのチームの元総長を巻き込んだ事件なんてそんな簡単に手に入らないはずだ。  チームの総長の金久保に聞けばいいのだろうが、『なんで知りたいんだ?』と聞かれることが面倒だ。  まあ、それでも――、 「……お」  俺自身がチームに入ったことで情報がポロポロとこぼれてきたことは助かる。  白狐のお面を被りながら行くあてもなく歩いていると、いつものバーの前でカラフルな頭をした男が二人、談笑していた。  一度も話をしたことがないし見たこともないが、バーの前にいるということはきっとこの二人も不良なのだろう。 「あの、ちょっといいですか?」 「あ? っと、シロか」  近付き声をかけると、まるで白柳先輩のように白い髪をした背の高いほうが一瞬ドスの利いた声で返すが、声をかけたのが俺だとわかるとすぐに声色を和らげてくれた。  かと思うと背の高い人の陰に隠れていて見えなかったもう一人の、青い髪の男が横から顔を覗かせてきた。 「秀和(ひでかず)さん、知り合いっすか?」 「いや、俺も初めて会った。つか遼(りょう)、シロの噂聞いたことないのか」 「ないっすね。俺は自分のことでいっぱいいっぱいなんすよ」 「だろうな。……っと、悪い。で、どうした?」  また談笑し始めた目の前の二人に、声をかける相手を間違えただろうか、と後悔していると、そんな俺の空気を読み取ってくれたらしい秀和、と呼ばれたほうが再び俺に話を振ってくれた。  そのことに、いい人だ、と感動を覚えながらも口を開く。 「あなたたちは三年前の出来事を知ってますか?」  そう尋ねた瞬間、秀和の顔色が変わり、隣にいたもう一人の遼と呼ばれた俺と同じくらいの身長の男は話がわからないらしく瞬きを繰り返した。 「ああ。金久保の前の総長が裏切りを起こして制裁されたって話だろ」 「本当にそうだと思います?」 「……どういうことだ?」  もしこの人が、三年前の本当の出来事を知らないのであれば、今から俺の話すことは情報の流出になる。  そしてそのことを金久保にバレたら、制裁の対象だ。  二分の一よりも確率の低い賭け。 「もし裏切りを起こしたのではなく、誰かに脅されていたんだとしたら?」  その問いに対しての表情の変化はない。  一体なにを考えているのか、さすがの俺でも頭の中まではわからない。  真剣な表情を浮かべたまま、口も開かずにじっと視線だけを合わせていると、秀和の隣に立ち暇そうにアクビをこぼしていた遼が突然、手を叩いた。 「秀和さん、もしかしてそれって翔夜(しょうや)さんが脅された話と関係あるんじゃないっすか?」  誰のことだよ。  なんて言ってしまいそうになる口を閉ざしたままでいると、なぜか秀和は白く短い髪を揺らしながら深く息を吐き出した。  かと思うと拳を振り上げ、遼の頭に落ち――なかった。  ギリギリのところで避けたらしく、なにやら悪戯っ子のような笑みを浮かべている。 「秀和さん、俺はもうあの頃の俺じゃな――いだっ!」  秀和の片足が持ち上げられたかと思うとそのまま、笑みを浮かべている遼の尻を蹴り上げた。  痛みで悶えながら、彼は自分自身の尻を押さえながらしゃがみ込んでいる。  そんな彼に同情の目を送ったあと、秀和へと視線を戻す。 「秀和さん、なんでもいいんで教えてください。俺にはやらなきゃいけないことがあるんです」  お面越しの俺の真剣な表情。  相手に伝わるかはわからないが、しばし見つめていると秀和は一瞬だけ目を伏せてから再びその瞳の中に俺を映した。 「一つだけ約束して欲しいことがある」 「なんですか?」 「俺が話したことは誰にも言わないでくれ。お前の仲間にも、俺たちの仲間にも」 「……遼さんは聞いてるみたいですけど」 「コイツは馬鹿だから気にするな」 「ちょ、同じ大学に入れたんだから馬鹿じゃな――ぐおっ」  顔を上げ、途中まで言葉を放った遼の顔面を秀和の手のひらが掴んだかと思うと、そのままゆっくりと口を開く。 「俺たちの仲間も、ソイツの大切な奴をダシに脅された」 「……一体、誰に。誰に脅されたんですか?」  正々堂々と戦わずそうやって脅すなんて、汚すぎるだろ。  今すぐにでもソイツの顔を見ていられないほどボッコボコに殴ってやりたい。  苛立ちが、募る。 「三丁目の空き倉庫。そこにそいつらはいる」 「三丁目って……」  ここから三十分もしないところに憎い相手がいるって?  俺の大切な人を三年間も、そして今も眠らせているくせに、悠々と過ごしているというのか。  本っ当、いい度胸してる。 「シロ、もし潰そうと考えてるなら考え直せ」 「どうして、ですか」 「簡単に潰せるならとっくの昔に俺たちや金久保たちが潰してる。それなのに潰さないってのがどういうことかわかるだろ?」 「……潰さないんじゃなくて、『潰せない』ってことですか」 「そういうことだ。一人一人の力が弱いにしても、数が多すぎる」  そう言葉を続けた後、『そうだな……』と俺から一瞬だけ視線を外し呟いたかと思うと、未だに掴んだままだった遼の顔から手を離しバーの壁へと寄りかかりつつ両腕を組んだ。 「金久保のチームの三倍はいる」 「さんっ……!」 「だからお前が一人で行ったところでなにもできずに返り討ちにあうだけだ」  金久保の仲間の数も多いとは思っていたが、その三倍だって?  馬鹿だ。  そんな馬鹿共のせいでシロがまだ目を覚まさないんだと思うと、狂える。 「返り討ちにあうってわかってても行くなら、一ついいことを教えてやる」  喧嘩を苦手とする俺は三倍の数なんて絶対に無理だ。  ボコボコにされるのが目に見えている。  それでもシロのことを思うと、手招きをしている秀和に近づくしかなかった。  彼がゆっくりと腰を屈めたかと思うと、そっと耳打ちをした。 ――――  三丁目の倉庫の前に俺はいた。  倉庫内がガヤガヤと騒がしいのは、不良の溜まり場だからだ。  辺りには酒缶や煙草の吸い殻が転がっている。 (汚いところだな)  金久保のバーと比べると汚すぎる。  というより、あのバーと比べるほうが間違えてるな。  短く、それでいて深く息を吐き出しては目の前のとびらを蹴り破ってやる。  すると騒がしかったはずの倉庫内には怖いほどの静けさが訪れ、何十個もの視線にわずかに指先が揺れたことには気づかない振りをした。 「青木葉(あおきば)さんに用があってきたんですけど、いますか?」  そう尋ねた瞬間、倉庫内に響き渡るのは耳を塞ぎたくなるほどの俺に対しての怒鳴り声。  あまりの騒がしさに近所迷惑だろ、なんて考えていると、突然とびらの近くにいた男に胸ぐらを掴まれ、腕を振り上げられる。  血の気の多さに再び息を吐き出しながら、一歩後退しようとする。 「待って待って。せっかくのお客さんなんだからみんなで歓迎しようよ」  騒がしい中でも凛と響き渡る透き通った声に、再び辺りに静けさが訪れた。  俺の胸ぐらを掴んでいた奴はというと、俺にだけ聞こえるほどの舌打ちをしながらも手を離してくれた。  こんな大人数を従わせることができる人物。  それは一人しかいない。 「青木葉さん、ですか」 「うん、そうだよって……あれ、そのお面って」  広い倉庫の奥にポツンと置かれていたソファから飛び降り、青い、肩までの長さの髪を一括りにしている男が歩み寄ってくる。  不思議そうに目を丸くしながら俺の顔を凝視していたかと思うと、いきなり声を上げて笑い出した。 「アッハッハッハハ! え、なに、ありえねぇ!」  お前がありえねーよ。 「はー、笑った笑った」 「……俺のどこかに笑う要素でも?」 「ありまくり。まさか二代目の白狐のシロがここに来るなんてね」 『もうあれから三年も経ったのに』と、笑いを堪えながら放たれた言葉に、怒りで握り拳が小さく震えた。 「なあ、元シロはどうしてる? 今もまだ眠ったまま?」  今だ口元に笑みを浮かべている目の前の男に、握り拳を振り上げる。  だが周りを囲んでいた複数の男たちに簡単に取り押さえられ、そのまま土や埃などが散らばっている地面へとうつ伏せの体勢で押し付けられる。  痛みでわずかに顔をゆがめながらも少しだけ持ち上げると、彼は笑みを浮かべたまま俺を見下ろしていた。 「誰にこの場所を聞いたのかは知らないけど、ここは危険だって教わらなかったのかな」 「……返り討ちにあうとは聞きました。でも、それでも俺は青木葉さんと話をしたかったんです」  俺の肩を押さえつけている男の手に力が入ると地面に擦れ、走る軽い痛みに少しだけ眉間に皺が寄る。 「こんな状況なのに俺と話したいとかすげぇ度胸。でも、君がこのお面を被る資格はないな」  笑みを浮かべたまましゃがみ込み、被っていたお面に触れたかと思うと、そのまま無理やり引き剥がされた。  カツン、という音を奏でながらお面は離れた場所へと転がっていった。 「意外に呆気なかったな、元シロは。だって大切だって奴をネタに脅しただけで自滅するんだぜ?」 「……なんで、あの人を脅したんだよ」  お面の被っていない俺の頬を撫でる青木葉の手から逃れるため顔を背けながら言葉を放つと、『それが本性か』という呟きが聞こえた。  頬から離された手が俺の前髪を掴み、そのまま持ち上げられる。  髪の抜ける感覚がしたが、そんなこと気にしていられない。 「なんで? そんなの大切な人をできたからに決まってる。ただの族の総長のくせにそういう奴ができるなんておかしいと思わない? オカシイオカシイだろ!」  前髪を掴んでいる手を勢いよく振り下ろされると、コンクリートに額が落ち、嫌な音が響いた。  脳にまで響くような、あまりの痛さに一瞬だけ目の前が真っ白になる。 「っ、あ……」  ツン、と鉄の臭いが鼻についた。  コンクリートの一部が赤くなっているところを見ると、どうやら額が切れたみたいだ。 「人を絶望に落としてきた奴らが大切な奴と悠々と過ごす? はっ、そんな資格なんかねぇんだよ」 「……あんたは、結局寂しいだけなんだろ」  額から伝い、口に入った血をコンクリート上に吐き出しながら放った言葉に、恐ろしいほどに辺りに静けさ訪れる。  あまりのその静けさにゾクリ、と体が震えた瞬間だった。  青木葉の足が俺の胸に入り込んだかと思うと、そのまま容赦なく蹴り上げられた。  俺の体を押さえつけていた仲間であるはずの男も一緒に吹き飛ばされたらしく、呻き声を上げている。 「俺が寂しい? 君は本当、面白いことを言うね。……でも、殺したいほどムカつくよ」  男の目がギラついている。  それが怒りからだとわかると、こちらに伸ばされた手から逃れるために痛む体をなんとか捻り立ち上がる。  足元がふらつき、油断をすると今にも倒れてしまいそうだ。 「本当のこと、だろ。自分も大切な奴が欲しいのに大切な奴ができない。だから大切な奴がいる人たちを脅したんだろ?」 「……黙れよ」 「そうやって人を多く集めて。本当は誰よりも人が恋しくて恋しくてたまらないくせに」 「黙れっつってんだろうがッ!」  青木葉の長い足が持ち上げられる。  素早く動くそれから逃れるために体を左へ傾け避けるが、右から拳が振り上げられていることに気づけば流れるように一歩、後ろへ下がろうとする。  が、下がることができなかったのはなぜだ。  こんな近くに壁なんてなかったはずだ。  デジャヴを感じながらも背へ顔を向けると、俺を逃がさないためか一人の男が立っていた。  その男の手が俺の襟首を掴む。  前方へ顔を戻すと、振り上げられていた青木葉の手が振り下ろされている。  動くことのできない俺は、その拳を右頬に受けた。  ゴッ、と鈍い音が辺りに響き、まるで脳がシェイクされたみたいに視界がまわる。 「君みたい奴が一番ムカつくんだよ。みんなに好かれて、それでいて知ったような口で説教してさ」  襟首を掴んだままの手が離れると、足に力の入らない俺はその場に崩れ落ちる。  俯せの体勢で倒れた俺は、青木葉の足によって仰向けへと転がされる。  視界がまわる中で見えた彼の表情は、今にも泣きそうだった。 「……もう、飽きた。俺帰るから、ソイツのこと好きにしていいよ」  そう言葉が放たれた瞬間、今まで見ているだけでなにもしてこなかった男たちの手が伸びてくる。  髪を掴まれ。  顔を殴られ。  腹を蹴られ。  何度も戻しそうになった。 「っ、青木葉ぁぁあッ!」  それでも俺は、力の限り男の名前を叫んだ。 『あの倉庫にいるチームの頭の名前は青木葉って言うんだ。ソイツの情報を教えてやる』 「俺は今すぐにでもお前を殴りたいくらいムカついてる。本気でぶん殴ってやりたいってな!」  青木葉が足をとめている。  俺の話に耳を傾けているんだと、信じたい。 「でも……なあ、俺もお前と同じなんだよ。確かに俺は仲間には恵まれたかもしれない。でも、あんたと同じなんだ」 『青木葉の両親はアイツが生まれてすぐに命を落とした。だからアイツは愛情もなにも知らないんだよ』 「……君は――」  いつの間にか振り返り、俺の目を見つめていた青木葉がゆっくりと口を開く。  だが放たれた言葉に被さるように大きな音を立てたのは、閉ざされたままだった倉庫のとびらだ。  勢いよくとびらが開かれ、そこから金色の髪の持ち主が現れた。  周りで俺を掴み上げたままの男たちは、突然、出てきた男に声を張り上げている。 「おい」 「……君の探し人はあそこにいるよ」  騒がしい中でも二人の話し声が聞こえる。  青木葉が俺のほうを指差したかと思うと、金髪の男もそれを辿るようにこちらを見た。  かと思うと、目を大きく見開きわずかに唇を揺らしたあと、青木葉の胸ぐらを掴んだ。  揺れた唇が『黒滝』と動いたように見えたのは俺の気のせいか。 「青木葉、テメェ三年前に言ったことと違うだろ」 「俺が悪いんじゃない。あの子が勝手にここに来たんだ。俺と話がしたいってね」 「だからって手を出すとはどういうことだ」 「あまりに綺麗事ばっか言うからちょっとムカついてね」  そう言葉を続けながら俺に顔を向けてきた青木葉は、また泣きそうな表情を浮かべていた。  だがそれも一瞬だけで、胸ぐらを掴んでいた男の手を振り放ったかと思うと、開かれたままだったとびらをくぐって出ていった。  そちらに顔を向けていた男が再びこちらに顔を戻したかと思うと、ゆっくりと歩み寄ってくる。 「おい。今すぐソイツを離さないと、一生後悔することになるぞ?」  俺を掴み上げたままだった男たちが歩み寄ってくる男に飛びかかっていく。  呻き声が。  鉄の臭いが辺りに広がる。  大量の男たちに囲まれている男と目があった。  まるで野獣のような、瞳の強さに俺は一瞬だけ息を呑んだ。  すでに辺りは静かになっている。  手の中には白狐のお面が。  そして目の前には屍の山が。  壁に寄りかかり、座っている俺の隣に男が――いや、金久保が腰を落ち着かせている。  さすがの金久保でもあの人数を相手にするのはキツかったらしく、口端に切り傷ができていた。 「……お前がシロだったんだな」  二人で屍の山を見つめて数分、先に口を開いたのは金久保だった。  屍の山を見つめていたはずの彼の目が、俺をとらえていることがわかる。 「なんで、ここにいるんだよ」 「俺の知り合いから連絡があったからな」  知り合い、というのは秀和のことだろうか。  誰にも言うなって言ってたくせに、よりによってこの男に連絡するなんて。 「俺を嫌ってるんだろ。俺のせいで、シロがまだ目を覚まさないから」 「……ああ、そうだな」 「それなら、なんでここに来たんだよ」  噛みつくように、棘のある言葉を放ちながらようやく金久保へ顔を向けると、彼は短く息を吐き出してから再び屍の山へと顔を向けた。 「白柳に追い出されたあと考えていた。確かに総長が狙われたのはお前が原因だった。お前のせいでアイツは今も眠ったままだ。けどな」  そこまで言いかけ、再び俺に顔を戻す金久保に釣られるよう、俯きかけていた顔を持ち上げる。 「お前を守るって決めたのはアイツと俺だし、お前は総長のために取り乱してくれた。そんな奴を三年経った今でも嫌わなきゃいけないのかってな」 「金久保……」 「そんなこと考えていたらいつの間にか朝になってて、知り合いから連絡があって……まだお前を守らなきゃいけないって、やっと思い直すことができた」  金久保の手が、俺の頭に触れる。  それは数日前のときのような掴むような触り方ではなく、優しく髪をすくような気持ちのいい触り方だ。 「俺はお前のことが嫌いだ。でも、逆に好きで好きでたまらないんだよ」  金久保の影がゆっくりと落ちてくる。  口付けられているんだと気づいたのは、いつの間にか切れていたらしい口端を舐められ、痛みが走ったからだ。 「気の強いとこも、突っつけばすぐ崩れるくらい弱いとこも……好きだ。黒滝が好きだ」 『無事で、本当によかった』とらしくもない言葉を放つ金久保に強く体を抱き締められてしまった。  そんな腕の強さに俺自身もらしくもなく安心してしまったようで、瞼の奥が熱くなってしまうのをなんとか堪えていた。  抱き締められたまま数十分。  ようやく体を離されたかと思うと、金久保が俺の腕を掴み無理やり立ち上がらせた。  その瞬間、体全体に痛みが走り思わず顔がゆがむ。 「痛むのか?」 「まあ、ここ何年もこんなになるまで殴られたことなかったし――う、おっ」  言葉を続けている途中で突然、体が宙に浮いた。  驚き辺りを見渡すと、金久保によってお姫様抱っこの体勢で抱えられていることがわかった。  その体勢のまま歩き出し、開かれたままのとびらをくぐろうとしたんだから声を上げるしかないだろ。 「ちょ、金久保っ。待て待て!」 「誰が待つかよ」  俺の言葉を見事にスルーしてとびらをくぐると、道を歩いていた学生や主婦たちがぎょっと俺たちに顔を向けてくる。  あまりのその視線の痛さに俺は俯き、手にしたままの白狐のお面を被った。  その瞬間に聞こえてきた笑い声に、確信犯か、と睨んでやった。  連れられてきた先はいつものバーだった。  バーにはマスターの姿しかなく、俺たちの格好を見ても特に表情を変えることはせず、金久保の『奥空いてるか?』という問いには頷いただけだった。  奥の部屋、ソファの上へと優しく下ろされてしまうと、今までの金久保とは違う行動に戸惑ってしまう。  未だに顔を隠したままだったお面を外し、体が離れた金久保へと顔を向けると彼の手に救急箱が握られていることに気がついた。 「おら、脱げ」 「……いや、それくらい一人でできるけど」 「俺のせいで怪我したんだから俺が治すのは常識だろうが」  常識かどうかは別として、治療してくれるというのなら素直にその言葉に甘えようか。  着ていたワイシャツのボタンを一つずつ外してはそれを脱ぎ、中に着ていた色物のシャツをも脱ぎ素肌を空気にさらす。  その瞬間、息を呑む音が聞こえた。 「お前、自分の体が今どうなってるかわかってるか?」  その問いかけに自分の体を見下ろしてみると、青木葉に蹴り上げられた、ヘソより上部分が赤く染まっていた。  その後、集団に襲われたときは丸くなり、背中ばかりを狙われたため背中がどうなっているのかはわからない。 「赤くなってる、とかか?」 「赤くなってるし充血もしてる。しかも所々血が出てるな」  金久保が背中に触れてきたらしく、ピリッ、と軽い痛みが走りわずかに肩が揺れる。 「……痛いか?」 「いや、そこまで痛くはない」  首を横に振りそう答えた瞬間、ぬるりとしたものが俺の背中を這った。  熱のこもったそれは、先ほど痛みが走った部分を集中的に、それでいて全体を這う。 「なに、してんだよっ……」 「消毒に決まってるだろ」 「ただ舐めてるだけ、じゃないのかよ」 「まあな」 「そこは否定しろよ……」 「お前こそ、前みたいに抵抗しないのか?」  背中を這っていたものがようやく離れてくれたことに安堵する。  そして次いで背中に感じた感覚に、目を丸くしたあとわずかに口元を緩めて笑ってしまう。 「抵抗しようかと思ったけど、ちゃんと絆創膏貼ってくれたんだから俺はなにも言えない」 『ありがとうな』と言葉を続けながら背後にいる金久保に顔を向けた瞬間だった。  金久保の顔のアップが目の前に。  そして唇に感じるやわらかなもの。  それがなにかと判断するよりも先に、俺の上半身は座ったままのソファへと、どさり、という音を立てながら倒される。  倒される際に閉じてしまった目をゆっくりと開くと、金久保が俺に覆い被さっていた。  まるで獣のような、先ほど倉庫で向けられたような鋭い視線に息を呑み、わずかに目を泳がせる。 「……金久保」 「もっと消毒してやるよ」  金久保の顔が徐々に青木葉に蹴り上げられた部分に近付き、赤い舌がそこを舐める。  抵抗しようにもいつの間にか両手首を一括りにまとめられ、ソファに縫い付けられているせいで突き飛ばすことができない。 「っ……か、ねくぼ。もう、いいだろっ」  そこを舐められるむず痒さと羞恥から、少しだけ顔が熱くなりながらもそう声を絞り出す。  だが返答はなく、舐められている場所がそこからさらに斜め上に上がっていることに気がつけば、さすがに慌てる。 「か、ねくぼ! 金久保ッ!」 「なあ、シロをどっかで見なかっ――」  突然とびらが開かれ、聞き覚えのある声が部屋に響き渡った。  今、バーからの帰り道を俺の手首を掴んでいる白柳先輩と歩いている。  沈黙がとても痛い。  話しかけようとは思っても、先ほどのバーでの出来事を思い出すと溜め息しか出なかった。 ――――  とびらの開かれたほうへ顔を向けると、目を大きく見開いている白柳先輩と目があった。  だが彼のそんな表情も一瞬だけで、すぐにいつもの無表情へと戻る。 「金久保、二つ聞きたいことがある」  後ろ手でとびらを閉じ、そこに寄りかかりながら腕を組んだ先輩の姿に、金久保は大きな舌打ちをこぼしながらもようやく俺から離れてくれた。  そのことに安堵しながら、自分自身も体を起こしソファの下に落ちていたシャツを着る。 「……まず一つ目。なんでソイツは怪我してんだ?」  棘のある話し方。  俺はこんな話し方をする先輩を知らない。 「他のチームに襲われてたからだ」 「なるほどな。それじゃもう一つ」  そこまで深く聞くつもりはないのか、あっさりと次の質問に移ったことに安心する。  だが、白柳先輩の足が金久保へと近付いているのはなぜだ。 「今ソイツになにしようとしてた?」 「なにって、こんな脱がせてやることって言ったら一つしかないだろ」  楽しそうに口元をゆがめながら金久保の手が俺の腰に触れた瞬間、骨と骨のぶつかり合う鈍い音が響いた。  金久保は頬を押さえ、笑みを浮かべたまま。  先輩は顔をしかめ、拳を握りしめたまま。  その瞬間を見ていなくても、白柳先輩が金久保の頬を殴ったということがわかる。  未だ握られたままの先輩の拳が解かれたかと思うと、俺の手首を掴み引っ張る。  そしてそのままとびらに向かって歩き出したため、慌ててテーブルの上に置いたままの白狐のお面を取った。 「お前はいつからシロの正体に気づいてた?」  背後から聞こえた言葉に振り向こうとしたが、先輩によって遮られてしまう。 「……四年前からだ」 「は?」  驚いたのは声を上げた金久保だけじゃなく、俺もだ。  そんな驚いている俺たちをよそに、彼は俺を連れて部屋を出た。  そして今に至るというわけだ。 (四年前ってことは俺がシロと出会った頃だよな)  計算をすれば大体はわかることだが、改めて数字にされると昔から俺の話を聞かされていたのかと、少しだけ照れ臭さを感じてしまう。 「あの、いつまで手首掴んでるんですか?」  そう尋ねた瞬間、俺よりも歩幅が半歩長く、若干前を歩いていた先輩の足の動きがとまる。  だが手首を掴んだまま、彼は俺を見下ろした。 「明日のお前の用事は?」  突然の問いに俺は目を丸くする。  明日といえば日曜で学校は休みだ。  とは言ってもここ最近、授業を受けた記憶はないけれど。 「まだ金久保の情報を収集するつもりですけど」  そう返すと、彼の眉間に深く皺が寄せられる。  なにか言ってはいけないことでも言っただろうか。 「なにか、情報は手に入ったか」 「……先輩、俺は情報屋です。申し訳ないですけどそれには答えられないです」  一瞬、俺の手首を掴んだままの先輩の手に力が込められたような気がした。  断言できないのは、すぐに彼の手が離れてしまったから。  ほんのり赤く手の痕が残ってしまった手首をなんとなしに親指の腹で撫でる。 「だよな……悪い」  短く、溜め息のようなものにも感じられる息を吐き出され、手首に触れたままゆっくりと顔を持ち上げる。  すると彼の手がクシャリ、と俺の頭を撫でた。 「明日、金久保の情報を集めるのはやめとけ」 「……なんでですか?」 「なんでもだ。絶対に、俺たちにも近付くな」  そんな拒絶の言葉を聞いたのは初めてだった。  一体、明日はなにがあるというのだろうか。  そう聞きたく唇がわずかに揺れたが、先輩の真剣な表情に音を発することができなかった。

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