5 / 25

~第一章~ 第四話「四日目」

 眠れなかった。  ベッドで横になり、天井を見上げていたらいつの間にか朝になっていた。  カーテンの隙間からもれる太陽の光が眩しい。 「……シロ」  俺の名前であって、俺の名前じゃない。  三年前に姿を消したあの人は白柳先輩の兄で、今現在、病院に入院している。  会いたい。  胸の奥が締め付けられるほどに会いたい。  でも俺はあの人がどこに入院しているのか知らない。  三年前から一度も出てこなかった情報だ。  きっと白柳先輩に聞くしかないのだろう。  俺の、情報と引き換えに。  寝不足で重い体を起こし、白狐のお面を被った俺は、あの人の言葉を思い返していた。 『情報屋として生きていきたいなら仕事をするときはこのお面だけは絶対に外すな』  悪い、シロ。  その約束はもう守れそうにない。  溜め息にも似た息を深き吐き出した俺は、勢いよくベッドから飛び降りた。  最近、よく屋上に来ている気がする。  まるで四年前に戻ったみたいだ。  けれど四年前と違うのは、屋上にいる人物があの人じゃないということだ。 「白柳先輩」  あの人の面影を持つ先輩は、フェンス越しの街並みを見つめていた顔をこちらへ向けてくれた。  先輩の真っ白な髪が風に踊らされ、純粋に綺麗だと思った。 「先輩、条件を出していいですか?」 「……その条件にもよるけど、なんだ?」  屋上から出るとびらの前に立ったまま、俺は口を開く。 「先輩のお兄さんの入院先と、そのお兄さんと金久保さんの関係。それが先輩から出して欲しい情報の条件です」  ようやくゆったりとした速度で歩みを進め、先輩の隣に立ち見上げながらそう言葉を続けると、彼は小さく笑った。 「ならシロから出してくれる情報は?」  彼の手が、ゆっくりと俺の顔に伸ばされる。 「……俺の、素顔です」  その瞬間、視界が広くなった。  そしてなぜだか息苦しい。  白柳先輩に抱き締められているんだと、気づくのにそれほど時間はかからなかった。 「黒滝……」 「なん、で俺の名前」 「俺の兄がよくお前の話してくれてたからな」 「それって、元々俺の正体を知ってたってことですか?」  お面を取られたというのに敬語で話してしまうのは、この二年間がそうだったから仕方がないと思う。  俺を抱き締めている彼の腕がわずかに緩まれたかと思うと、顔を覗き込まれため視線を外してしまった。  なんだか、改まって顔をあわせると照れ臭いものがあるな。 「お前を騙すようなことをして悪い。でも二年前、会ったばっかの俺に『お前の正体を知ってる』なんて言われても信用しねえだろ?」 「それは、確かに」 「だから長く一緒にいて信用してもらって、そのあとにキリのいいところで話そうと思ってた」  で、その通りになったってわけか。 「ところで、俺はいつまで抱き締められてればいいんですか?」 「俺はさ、アイツから黒滝の話を聞かされてずっとお前のことが気になってたんだ」  無視か。 「どんな奴がアイツになつくんだろうって、お前のことばっか考えてた」 「……先輩?」 「なあ黒滝、俺はゲイでもないしバイでもねえ。でも俺の中にずっといたのはお前なんだよ」 「ちょっと、せんぱ――」 「お前が好きだ」  白柳先輩の手が俺の頬に添えられ、ゆっくりと顔を近づけてくる。  抵抗したいのに動けないのは、あの人の面影を感じているせいだろうか。 「……黒滝」  唇に、息がかかる。  艶っぽく放たれた声に、背中がゾクゾクする。  先輩の目がゆっくりと閉じられ、釣られるように俺自身も瞼を下ろした。 「それ以上したら白柳でも殴っちゃうよー?」  突然、耳に入った聞き慣れた声。  閉じてしまった目を勢いよく開き、すぐ傍にある白柳先輩の顔から逃れるように後ずさる。  先輩も突然の乱入者に驚いたらしく、抱き締めていた腕の力が緩まれていたため簡単に離れることができた。  そこでようやく声の聞こえたほうへ顔を向けてみると、相変わらずのへらへらっとした笑いを浮かべながら屋上を出るとびらに寄りかかっている赤嶺の姿が。  笑っているのに笑っていないように感じるこのデジャヴはなんだろうか。 「ねえ、白柳。クロちゃんに手を出していいとか思ってる? 手を出したらどうなるか……わかってるよね?」 「……赤嶺、お前だって黒滝に手を出してただろ」 「俺は出してないよ。ましてキスなんてしたこともない」  こいつらはいったいなんの話をしているんだ。  とりあえず俺にとっていい話ではないということだけはわかる。 「それはどうだかな。幼馴染みって立場を利用して色々教えたりしたんじゃねえの?」 「それは確かにね、羨ましいっしょ? クロちゃんに初めてエロ本を見せたのは俺だし、オナニーを教えたのも――」  歩み寄ってきた赤嶺の腹を、思わず本気で殴ってしまった。  確かに間違っちゃいない。  だけどそれを人に話すバカがどこにいる。  ……ここにいたな。 「おい、やっぱり手を出してんじゃねえか」 「あたた……でも小学生の頃だったし、セーフセーフ。でも残念だね、白柳はクロちゃんにもうなにも教えてあげられないんだよ」 「お前っ」 「わー! 待て待て! ストップ!」  今にも殴りかかりそうのほどの敵意をむき出しにした白柳先輩に本気で慌ててしまえば、そう声を張り上げてしまう。  なんだなんだ。  赤嶺と金久保の仲がよくないのはわかってはいたけど、この二人もそうなのか。 (ならなんでつるんでるんだ、コイツらは)  内心、深く溜め息をこぼしてから睨むように赤嶺へ顔を向ける。  だが彼はいつも通りの笑顔を浮かべたままだ。 「赤嶺、言ってもいいことと悪いことがあるって知ってるよな?」 「……へえ。なに、クロちゃんもしかして白柳に惚れてるの?」 「誰もそんなこと言ってないだろ」  視界の端で白柳先輩がこちらを見たことがわかるが、気にしないでおこう。 「惚れてる惚れてない関係なしに、オナニーを手伝ったとか普通は言わないだろ」 「オナニーを手伝ったとは言ってないよ?」  訪れた短い沈黙。  赤嶺から視線を外し、青空を見つめながらぼんやりと考える。  確かに、オナニーを教えたとは言っていたけれど手伝ったとは言ってなかったな。 「……白柳先輩、聞かなかったことにしてください」 「それは無理だ」 「でしょうね」  一度、軽く頷いてから再び赤嶺を睨んでは、その視線を先輩へと移す。  すると彼は未だ、俺を見下ろしていた。  そんな先輩に手を差し出しながら『お面』と言ってやると、彼の眉がわずかに揺れる。 「黒滝」 「はい?」 「お前が俺のことをどう思っててもいいけど、俺がお前のこと好きだってのだけは忘れないでくれ」 「……忘れたくても忘れられないですよ」  俺の呟きが耳に入ったらしく、満足げな表情の白柳先輩からようやくお面を返してもらえた。  そのことにわずかに表情を緩めた俺はそのお面を被り、シロとなり先輩へと再び顔を向けた。 ――――  無事、入院先を教えてもらった俺は白狐のお面を被ったまま病院の前に立っている。  ここに、三年前に姿を消したあの人が入院している。  騒がしくなる胸を、気持ちを落ち着けるように深く息を吐き出しては辺りを見渡す。 (さすがに病院でもお面を被ってるわけにはいかないしな)  人が歩いていないことを確認しては被っていたお面を外し、病院内へと足を踏み入れた。  受付であの人の病室の場所を聞いてはそこへ向けてゆっくりと足を運ばせる。  落ち着けたはずの胸がザワザワと騒がしさを取り戻している。  どれだけ深呼吸をしても落ち着くことができない。  もしあの人が俺のことを忘れていたらどうしようとか。  顔なんか見たくなかった、とか言われたらどうしようとか。  らしくもなくそんなことばかりが頭の中を駆け巡る。 「……シロ」  ボツリと、俺の知るあの人の名前を呟いて数秒、意を決して目の前のとびらを開く。  するとそこは真っ白な世界だった。  窓が開かれ、そこから入ってくる風によって白いカーテンが揺れている。  花瓶に綺麗な花が飾られ、その近くのベッドに誰かが横になっている。  震える足を室内へ。  ゆっくりとベッドへ近づいていくと、横になっている人物の顔がようやく見えた。 「シロっ」  一度しか素顔を見たことはないけれど、忘れるはずがない。  三年間、ずっと会いたいと思っていたあの人が目の前にいる。  心臓が今にも張り裂けてしまいそうで、震える手をゆっくりと伸ばしては彼の手にそっと重ねる。  どこか細くなってしまった彼の腕にわずかに眉尻を下げつつ、顔を覗き込む。  三年前に素顔を見たとき真っ黒で短かったその髪は、今は真っ白に染まって肩下まで伸びている。  そしてそんな彼は痩せこけていた。 「いったい、なにがあったっていうんだよ」  どうしてシロは目を覚まさない?  早く起きて、その目の中に俺の姿を映して欲しいのに。  ガタリ、ととびらの揺れる音がした。  重ねていた手を掃除が行き届いている床へ、そのままベッドの下へと体を滑り込ませる。  どうじに、とびらが開かれたため思わず安堵した。 (てか、隠れる意味あったのか?)  内心、そんなことを考えながらもベッドの下で息を殺したまま、開かれたとびらへと顔を向けてみる。  だがこんなところにいて顔が見れるはずもなく、靴だけが見えた。  靴だけを見てわかることは、入ってきた人物が男だということだけだ。 「……総長」  思わず声を上げてしまいそうになった。  それはなぜか。  理由は二つある。  一つ目は、シロが総長と呼ばれたから。  二つ目は、その声の持ち主のせいだ。 (なんで金久保が!)  そういえば先輩に、金久保とシロとの関係を聞くのを忘れていたと内心、深く溜め息をこぼしてから、耳をさらに働かせるため開いていた目を閉じる。  金久保の足音がベッドに近づき、とまる。  そして短い沈黙のあと、息を吸う音が聞こえた。 「あれから三年経った今でも俺はまだ恨まれてる」  静かな空間に金久保の声が響く。 「なにが正解だったのか今でもわからない。でも俺たちはきっと、間違ったことしてないよな?」  シロに話しかけているようにも聞こえる言葉。  しかし実際はただの独り言なのかもしれない。 「……久しぶりに来たのに湿っぽくなったな」  カラリ、と笑って数秒。  椅子の引く音が聞こえたため座ったことがわかる。 「俺たちが助けたソイツは今、お前のチームにいる」 『つっても今は俺のチームだけどな』なんて続けられた言葉に、閉じていた目をゆっくりと開く。 「しかもソイツ、白狐のシロって呼ばれてるんだぜ? みんな、まだお前のこと恐れてるんだよ」  ベッドの下から飛び出したかった。  今、金久保が話している『ソイツ』とはきっと――いや、絶対に俺のことだ。  そんな俺をシロと金久保が助けたって?  話が、全く見えてこない。  そう呆然としている俺の存在に気づいていない金久保はその後、二言三言語り、部屋から出ていった。  俺はというと、ベッドの下に潜ったまま動くことができなかった。 「……シロ」  俺を助けた?  なあ、どういうことだよ。  頼むから、早く起きて教えてくれよ。  制服のポケットに入れていた携帯がずっと小刻みに震えていたことには、気づかないふりをした。 ――――  目の前に金久保がいる。  そして今、俺がいる場所はいつものバーだ。  どうしてこんなところにいるのか、ぼんやりとする頭のまま考えてみる。  病院を出たあと、ポケットに入れていた携帯も取り出さずにふらふらとした足取りでさ迷い歩いていたら、辺りに屍をつくっている金久保を見つけた。  彼は俺の姿に気がつくと屍の山を踏み歩き、俺の頭を掴みそのまま引きずられた。  そして今バーにいる、と簡単な話なわけだ。 「おい」 「……はい?」  返事を返したと言うのに、訪れる短い沈黙。  この男はいったいなにをしたいんだ。  いや、もしかしたら俺自身の態度がいつもと違うのかもしれない。  考えてみれば金久保に話しかけられるまで無言を貫き通していた気がする。  落ち着け。  そして、ポーカーフェイスを保て。 「どうしました? あ、もしかして黒滝さんの情報ですか?」 「……ああ、そうだ」  怪訝な表情を浮かべる金久保の様子には気づかない振りを。  そして話せる限りの俺の情報を提供しようと、口を開く。 「黒滝さんは幼馴染みの赤嶺さんと同い年の二年生。一人っ子で、両親は不運の事故でもういない」 「もういない?」 「ええ。俺の入手した情報だとそうなってます。で、好きなものがバナナ系の食べ物や飲み物で、嫌いなものが苦いものと冬、だそうです」 「ちょっと、聞いてもいいか」  あとはどの情報を提供しようか、などと考えながら言葉を続けていると、金久保がそう口を開いたため今度はこちらが口を閉ざす。 「お前、なんかあったのか?」  予想外の言葉に、目の前の男に気づかれないほど小さく目を開く。 「……黒滝さんの話をしていたのにどうして俺の話になるんですか?」 「お前が変だからに決まってるだろ」  ポーカーフェイスを保てていたと思っていたのに、保てていなかったのか。  全く、シロの影響力はすごい。  わずかな表情の変化も見られないように俯き、自嘲にも似た笑みを浮かべて数秒。  短く息を吐き出してから顔を上げては、未だ怪訝な表情を浮かべている金久保を見る。 「先払いの報酬はお返しします。なので、その代わりに情報をください」 「情報、だと?」 「はい。金久保さんと白柳先輩の兄との関係について」  シロとしての微笑みを浮かべながらそう言葉を放つと、目の前の男は息を呑んだ。  なにを思ったのかはわからない。  わかるのは、俺が無茶なことを言っているということだ。 「……白柳から聞いたのか?」 「先輩の兄が白狐のシロだったというのは聞きました」 「お前、もしかして――」 「金久保さんが病室に来たとき、実は俺もいたんです」  ここまで話してしまえばもう隠す必要もないと、病室にいた事実を伝えると金久保は深く息を吐き出しながら項垂れた。  こんな姿の彼を見るのは初めてかもしれない。  そんなことを考え、訪れる短い沈黙を待つと目の前の彼はゆっくりと顔を持ち上げた。 「……全部聞いたのか?」 「シロと金久保さんが俺を助けたっていうのは聞きました」  深い溜め息が再び辺りに響いた。  次いで、金久保は天井を仰ぎ見る。 「俺はなにから守られたのかもわからないんです。それにシロは今あの状態」 「……俺はアイツと――総長と約束をした。あのことは絶対に誰にも話さないってな」 「そう、ですか」 「ただ一人を抜かして」  俯きかけた動きが、続いた言葉によってとめられる。 「お前が聞いてきたら話してやってくれって、総長はそう言っていた」  下ろしていた視線を持ち上げ金久保を視界へ入れると、彼は鋭い目を俺に向けていた。  憎しみが見え隠れしている深い黒色をしたその瞳に、俺はただ息を呑むことしかできなかった。  そんな俺に気づいているのかどうなのか、スッと視線を外したかと思うとゆっくりと口を開いた。 「もう気づいているとは思うが、俺の前の総長が白柳の兄で白狐のシロだった」  俺の知らないシロが、金久保の口から語られていく。 「お前と出会ったときにはすでにもう総長は他の族から狙われていた。族の総長ってだけでも恨まれるのに、アイツは情報屋だったからな」 「情報屋は、嫌われる」 「そういうことだ。お前は知らないだろうが全盛期の白狐のシロはすごかった。いったい何人、退学にするんだよって俺でも思ったくらいだしな」  確かにそれは知らなかった。  そうなると入学式のときの噂はあながち間違ってはいなかった、ということになる。 「そうやって人の恨みをたくさん買ったやつに大切なやつができたらどうなると思う?」 「……まさか」 「古典的だが、それをネタに脅された」  体全体に冷たいものが走り抜けた。  シロと出会っての一年間、俺は自分自身が脅しのネタにされていたなんて気づきもしなかった。  そしてシロが姿を消してからの三年間も、俺は全く気づかなかった。 「そしてアイツは決めた」  顔はシロとしてのポーカーフェイスを保っているも、体の震えはとまらない。 「表面上、自分がいなくなったことにすれば問題は収まるんじゃないかってな」 「……表面上、ですか?」 「ああ。裏切り者には制裁を、ってやつだ」  まさかここでその話が出てくるとは思わなかった。  そういえば白柳先輩は話していた。  昔、チーム内に裏切り者がいて制裁という名の暴力を受けた、と。  まさか、まさか!  その暴力を受けた人物って! 「実際、なにも裏切ってなんかいなかった。でも少しも疑いが残らないようにチーム内のみんなを騙し、裏切り者として総長は暴力を受けた」  そう、全てはお前を守るためだけにな。 「し、ろ。シロ、シロっ」 「これで俺がお前を嫌ってる理由がわかっただろ? アイツは制裁を受けた日から一度も目を覚ましていない。あれもこれも、全部お前のせいなんだよ」  俺のせい。  俺がシロに付きまとったりしなければ、あの人は病院で何年も眠ることにはならなかった。 「お、れが。俺が、悪い。俺のせいで、俺のせいでシロが」  どうしてあのとき泣きそうな顔をしていたんだとか。  どうしていきなり俺の前から姿を消したんだとか。  俺は本当に馬鹿じゃないのか! 「シロ、シロっ……しろ」 「ここか!?」  バーから繋がっているとびらが勢いよく開かれた。  自己嫌悪に陥っていた俺は顔を上げる余裕もなく、向かいに座っている金久保の視線を感じながら頭を抱えていた。  なにやら怒鳴る声が聞こえるが誰の声なのか、正常な判断ができない。 「シロ、大丈夫か? なあ、シロっ」  シロは、大丈夫じゃない。  俺のせいで今も目を覚ましていないんだから。 「俺の、せいで、シロが」 「っ、金久保ッ! 一体シロになにを話した!」 「元白狐のシロ、お前の兄についてだ」 「だからってこれは異常だろ!」 「そりゃそうだ。お前ですら知らない話だしな」  怒鳴り声が、頭に響く。  もう俺はシロになんかなれない。  もうポーカーフェイスを保つことができない。  もう、心が粉々だ。 『なあ、シロはなんで俺と一緒にいてくれるんだ? 情報屋の仕事だって捗らないし、邪魔だろ?』 『邪魔だと思ったことは一度もないが……なに、邪魔だって言って欲しいのか?』 『いや、それはない。邪魔じゃないって思ってくれてるなら、よかった』 『……お前こそ、俺と一緒にいて退屈じゃないのか?』 『退屈だって思ったことは一度もないけど、退屈だって言って欲しいのか?』 『お前な……』 『ははっ、ごめんごめん。でも本当、退屈だって思ったことはないんだ。シロと一緒にいるのが、好きだ』 『俺も、お前といるのが好きだ』 「し、ろ……」  腕を天井へ伸ばした体勢で目が覚めた。  いつの間に眠っていたのか、痛む頭を押さえながらゆっくりと体を起こすと、まだバーの奥の部屋にいたことがわかる。  そして視界が広いことに気がつき自分の顔に触れてみると、なぜかお面を被っていない。  辺りを見渡してみるが人の姿はなく、テーブルの上にポツンと白狐のお面が置かれていた。  ほっと安堵の息をもらしながらそれを手に取っては、静かに見つめる。  俺はもうこのお面を被ってポーカーフェイスでいられる自信がない。  そもそも、俺にはこのお面を被る資格がない。 「……俺のせい、だったんだな」  金久保が俺を嫌うのも、無理はない。  白柳先輩が俺に対して普通に接してくれているのは、きっとシロが脅されていたことを知らないからだ。  シロは金久保にだけ本当のことを話し、兄弟でもある先輩をも騙した。  その理由は俺にはわからないけれど、きっとなにかしら意味があるんだろう。 「駄目だな。なにもやる気が起きない」 「シロ、起きたのか?」  深く息を吐き出しながら再びソファへ沈むと、聞き覚えのある声がとびらの向こうから聞こえたため、お面も被らずそちらへ顔を向ける。  どうじにとびらは開かれ、そこから白柳先輩が姿を見せた。  俺と目が合うと彼はわずかに表情を緩めながら後ろ手でとびらを閉じ、近づいてくる。 「黒滝、体調はどうだ?」 「大丈夫です。でもなんか、すみません」 「お前が謝るようなことじゃねえだろ」  そう言葉を続けながら俺が頭を載せている肘置きのほうへしゃがみ込んできたかと思うと、先輩の大きな手がクシャリと俺の頭を撫でた。  その心地よさにわずかに目を伏せる。 「金久保は、今どこに?」 「さあな。俺がここに来たらアイツは出ていった。またどっかフラついてんだろ」  頭に手を載せたまま、小さな溜め息をこぼしながら放たれた言葉に伏せていた目を持ち上げ逆さに映る先輩の顔を視界に入れる。  眉間に皺を寄せ、なにかを考えているようだ。  しかしこう、間近で見ると今まで気づかなかったことが不思議なくらいシロに似ている。  性格や声は似ていない。  けれど顔の形や切れ長の瞳、この薄い唇だってあの人にそっくりだ。 「……黒滝?」 「あ、……すいません」  無意識に先輩の顔に触れていた。  シロのことが恋しいのだろうか。  謝罪の言葉と共に先輩に触れていた手をゆっくりと離すと、なぜだか逆に頭に触れていた彼の手が俺の手首を掴んだ。  腕を振ればほどけるほど弱い力。  それでも俺は振り離そうとは思わなかった。 「そんなにアイツに似てるか?」  切なげに細められる瞳。  そんな動きですらあの人と重なって。  否定しなければいけないと頭ではわかっているのに、唇を動かしても音が出てこない。  しばらくすると痺れを切らしたのか、俺の手首を掴んだままだった手が離れ、流れるように俺の両目を塞いだ。  視界が真っ暗でなにも見えない。  でも暗闇の中、あの人の姿が浮かんでくるようだった。 「……シロ――っ」  名前を呟いた瞬間、なにかやわらかいものが俺の唇を塞いだ。  視界を塞がれているためその様子を見ることはできないが、なにをされているのかは大体わかる。  重ねるだけの、啄むだけの優しいものに抵抗する気すら起きなかったのは、切なかったからだろうか。 『金久保からなにを聞いたのかは聞かねえ。でももし黒滝が話してもいいって思えるときが来たら、話してくれよ?』  白柳先輩は俺のせいでシロが入院していることを知らない。  もし知ったら先輩はきっと金久保のように俺を嫌い、離れていくことだろう。  バーを出て数分。  すでに外は暗くなっており、街灯を頼りに夜道を歩いてた。  被っていたら白狐のお面を外しながら自分が住んでいるアパートの階段をのぼり、ポケットから鍵を取り出しつつ顔を上げるととびらの前に誰かが立っていることに気がついた。 「クロちゃん」 「……赤嶺か?」  辺りが暗いから誰がいるのかわからないが、こんな呼び方をする奴は一人しかいない。  俺の幼馴染み、そして親友でもある赤嶺だ。 「おかえり」 「お前、なんでこんなところに」 「クロちゃんに話したいことがあったから」  どこか真剣味を帯びた声に、疲れたからもう寝る、なんて断ることができなかった。  一度だけ頷き、鍵を外しては室内へと赤嶺を招き入れる。  散らかっているわけではないが殺風景な部屋に置かれているモノクロのベッドへ腰を落ち着かせては、その上に転がっていたクッションを赤嶺へ放る。  見事それをキャッチした彼はそれを座布団代わりに、俺の向かいのテーブル越しの床へと座った。 「で? そんなに大事な話なのか?」 「んー、そうだね。クロちゃん、もう色々と知り始めたし、話したほうがいいかなって思って、……俺の役目を」  部屋に入る前に外したお面に傷をつけないよう、そっとベッドへ置くととうじに放たれた赤嶺の言葉に、そちらへ視線だけを向けるがその表情に思わず息を呑んだ。  いつものヘラヘラっとして笑いはどこへやら、真剣な表情で俺を見つめていた。 「俺はあの人に頼まれたんだ。クロちゃんを守るようにってね」 「あの、人?」 「傷つかないように、誰にも触らせないようにって。まあ総長にキスされたの見たときはかなり焦ったけどねぇ」  俺の呟きが華麗にスルーされたが気にしないでおこう。  あと白柳先輩にもキスされたことは言わないでおいたほうがよさそうだ。 「クロちゃん、四年前っていったらなにを思い出す?」 「四年前っていったらそりゃ、シロと出会ったときのことに決まってる」  四年前、赤嶺が限定のイチゴミルクを買いに行っているあいだに起こった出来事だ。  今思うとあのとき赤嶺が戻ってきたのはシロが屋上を出ていってすぐだったような。 「あの日、俺もあの人に出会ったんだよねぇ」  さっきから赤嶺が言っている『あの人』とは誰のことだ?  いや、本当は誰なのかわかっている。  わかっているのに頭がそれを認めようとしない。  だって。  どうして。  あんなにも近くにいたのになにもわかってなかったなんて、そんなこと信じたくなかった。 「あの日、屋上に出たときクロちゃんが倒れてた。だからクロちゃんをこんなふうにしたのはさっきすれ違った奴なんだって、次の日に問い詰めた」 「それで、どうしたんだ?」 「もちろん違うってことはすぐにわかった。でも、だからこそ、クロちゃんを助けてくれた恩人だからこそ、俺はあの人のチームに入った」  ここ数日、どうして赤嶺が不良のチームに入っているのか気になっていたが、そういう理由だったのか。  というか、また俺が原因なのか。 「俺がチームに入ってあの人から与えられた役目、それがクロちゃんを守ることだった」  金久保の話と赤嶺の話で、あの人がどれだけ俺を大事にしてくれていたのかがわかった気がする。 「まああの人に言われなくてもクロちゃんのことはずっと守っていくつもりだったけどねー」  そこでようやくいつものヘラヘラっとした笑いを浮かべる赤嶺に釣られるように口元に笑みを浮かべるが、すぐに目を伏せ小さく口を開く。 「なんで今まで教えてくれなかったんだよ」 「だってクロちゃん、守られることを嫌ってるっしょ?」 「それは、確かにそうだけど」 「守られるのを嫌うどころか、守られてるってわかったらその人から離れちゃうもんねぇ」  だって、嫌じゃないか。  守ってもらって借りをつくることも。  守ってもらってその人が怪我をすることも。  守り疲れてその人が離れていくことも。  守ってもらっていいことなんて、大事にされてるってことがわかるくらいだ。 「クロちゃんって、バカだよねー」 「……は?」 「ほんっと、バカ。おバカさん。でもそんなとこも愛しいよ」 「お、まえ、俺が真剣に――」 「守られるだけが嫌ならクロちゃんも守ってやればいいんだよ」 「俺が、守る?」 「そう。その人に借りも怪我も、離れさせたくないならクロちゃんが守ってあげればいい。そうすればほら、全部が解決」  俺が誰かを守るなんて、そんなこと考えたこともなかった。  シロのことだって、俺があの人から離れればずっと眠ることもなかったんだと、そう考えていた。  けれどもし俺にシロを守りたいって気持ちがあったとしたら?  そうしたら俺はきっと――いや、絶対にチームの制裁なんて与えさせなかった。  俺も守るからって、脅してきた奴らに立ち向かったはずだ。 「……俺のバカ」  深く、溜め息混じりに息を吐き出しながら天井を仰ぎ見る。  先ほど赤嶺にも言われた言葉をポツリと呟くと、彼が小さく笑ったことがわかるが笑われても仕方のないことだからなにも言えない。  数秒の間、天井を見上げては再び顔を赤嶺へと戻す。 「赤嶺、俺もお前を守るよ」  白柳先輩だって守るし、シロが意識を戻したらシロだって守りたい。  そう言葉を続けると、赤嶺は一瞬だけ目を丸くしたあとヘラヘラといつもの笑みを浮かべてくれた。  そんな彼に釣られるよう、俺はようやく作り物ではないちゃんとした笑顔を浮かべることができた。

ともだちにシェアしよう!