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再会 2 第1章〈完〉

 陽が傾きはじめ、店じまいの時間になった。下働きの少年が戸締りを確認し、すべての窓のカーテンを閉める。店主セザールはカウンターで売り上げを確認している。  少年は身支度を整えると「帰ります」と告げて勝手口に向かおうとした。 「雪降ってるから気をつけな」 「はい、積もったら嬉しいなあ」  セザールは苦笑した。雪が積もって嬉しいのは子どもだけだ。客足が遠のく積雪など客商売としては歓迎できない。 「アルノワさん、マリユスのそばにいた男の子はだれ?」少年は小声で店主に話しかける。 「商会のお得意先の息子だよ。どうかしたか?」 「全身いい生地使ってるし、靴も一級品でピカピカだし、手が白くてきれいだった。きっとお金持ちの子なんだろうなって。いいなあ、ぼくも全身流行りの服で街を歩いてみたい」 「働いて稼いだ金で買いな。ああいう手合とは住む世界が違うんだ」 「わかってるけど……クリスマス返上してまで働きたくないよ」  セザールの手が止まった。少年が不満そうにこちらを見ている。 「早くおかえり」 「はーい。じゃあまた明日!」  勝手口が開いて凍るような外気が店内に入ってきた。空気を入れ替えようと思っていたところだが、この寒さではこちらの身がもたない。セザールは売上台帳を書き終えると、ろうそくに火を灯しカウンターのそばのランプを消した。  セザール・アルノワはパリ屈指のリネン商の跡取り息子である。父親が金にものをいわせて上流の寄宿学校に通わせたため、それなりの教養を身につけていた。それでも彼の取り巻く環境がそうさせるのか、商人気質の拝金主義が抜けきれない。  リュカとは同年の23歳。彼がリネン商の下働きとして雇われたときからの付き合いである。セザールは父親の商会で修業に励んできた。ここ数年、リュカが仕立て屋として軌道に乗ってきたこともあり、ちょっとした腕試しをすることになった。新しい店の経営である。商会からリュカを引き抜くことは容易ではなかった。  しかし幸か不幸か、彼は大けがを負って入院してしまったのだ。仕事に復帰する見込みが一向に立たないことに業を煮やした商会はリュカに解雇を言い渡す。セザールはしめたとばかり彼に救いの手を差し伸べた。  クリスマスを返上して働いているのは何もリュカだけではない。店主のセザールも当然ながら昨日は出勤していた。リュカのおかげで店が回せているのは事実だが、接客を「いちゃついている」と言い放った彼には異議を唱えたい。そもそもリュカとは仕事の役割がちがうのだ。  跡継ぎとして厳しく育てられたセザールは、弟マリユスの自由奔放さが羨ましかった。弟は通学生として街の画塾に通い、学士院に入学がかなったにも関わらず数か月で「辞めたい」と言い出したのだ。弟は恵まれていることをまるで理解していない。今はどうにか説き伏せて休学という形で在籍させている。  ろうそくの火が薄ぼんやりと店内を照らす。セザールはろうそくを頼りに階段を登っていった。2階の廊下は静寂に包まれていて、真っ暗な廊下にぽつんと明かりが漏れている部屋があった。ドアノブに手を伸ばそうとすると、何者かに横から腕を掴まれた。セザールが驚いて振り返る。廊下に息を潜めていたのはマリユスだった。 「おい、驚かすなよ」 「いま良いところだから入っちゃだめ」 「良いところってなんだ……?」 「いいから静かに」  聞き耳を立てているマリユスは真剣そのものだ。セザールにしても室内で取り交わされる会話に興味がないわけではなかった。彼は後ろめたさを感じつつ弟の真似をすることにした。  仕立ての作業場に渦中のふたりはいた。壁面の棚にうず高く積まれた布地。隅に整列している何体かのトルソー。大きな作業台が出入り口のすぐそばを陣取っている。作業場の奥には数台の真新しいミシン。机の上や床に端切れひとつ落ちていないところに部屋主の性格がよく表れている。  アンリは防寒コートを着たまま背もたれのない椅子に座っている。まっさらな作業台に置かれたベレー帽をしばらく見つめていた。 「クリスマス祝ってないって本当なの?」  先ほどの『クリスマス返上』が気にかかった。仕事人間の父ですらクリスマスに仕事を入れることはしなかったというのに。 「元からそんなに信心深くもないし。仕事してるほうが俺の性には合ってる」  信心深さの程度でいえばアンリも同じくらいだろう。 「仕事はうまくいってる?」 「店の経営はそこそこ。俺自身は……距離感がつかめなくて針で指刺したり、採寸を間違えたり、壁にぶつかったり……」  彼が失敗談を楽しげに語っているのをアンリは見ていられなかった。 「アンリ、笑ってくれ」  リュカの片目はしっかりとアンリを見据えていた。 「もし俺を許してくれるなら、また笑ってほしい」  アンリは首を傾げた。許しを乞うのはこちらの方だというのに。 「どうしておれがリュカを許す許さないって話になるの……? だって、おれの犯した罪のほうが――」 「やめてくれ! おまえの行動は正しかった。正当防衛だったんだ」  リュカは、アンリの座る位置から片目を隠すように横を向いた。生きている方の瞳からは苦悩の色が滲み出ていた。 「そもそもこの傷は……おまえに……卑劣な行為をした報いだ。俺が片目を失くしたのは身から出た錆なんだよ。アンリが罪の意識を背負って生きる必要はない」 『罪の意識を背負って生きる必要はない』――ずっとこの言葉を待っていたのかもしれない。アンリはせきを切ったように泣き出した。 「じゃあ、なんですぐ会いにきてくれなかったの。おれはずっと、ずっときみのことで思い悩んでたのに」  溜まりに溜まった感情が抑えきれない。不用意なことばがリュカを追い詰めるかもしれないという考えはアンリの中になかった。どうしても言いたかったことが口をついて出た。 「それは……目の治療に時間がかかったのもあるし……退院したあとも精神的なショックでしばらくは寝込んでた」  リュカはアンリと向かい合って座った。ふたりを隔てる作業台が異様に大きく感じられた。 「何より――俺と対面したら、アンリがさらに追い詰められるんじゃないかって心配だったんだ。……それに、おまえの父さんに合わせる顔がない。いままで贔屓にしてもらってたのに、恩をあだで返すようなことを……」  彼は恥じるように両手で顔を覆った。これ以上の追及は彼を苦しませるだけだ――アンリはその姿を見て悟った。彼の気持ちを楽にするには包み隠さず話すしかない。 「リュカ、父さんはね……」 『事件』が起こった直後、父のオーギュストは電報で知らせを受け、仕事を中断して帰宅した。リュカはすでに病院へ搬送されていたので、父が凄惨な現場を目の当たりにすることはなかった。それでも絨毯の赤黒い染みが事実を物語っていたし、使用人たちの怯えようから『とんでもない事件』が起きたことを父は確信した。気が動転していたアンリは帰宅した父を見るなり泣き出してしまった。    世間的に『殺人未遂』として新聞に取り上げられてもおかしくはなかった。それが事故として処理されたのは父が奔走したおかげだった。 「そのときは父さんの行動に納得できなかった」 「息子を守りたかったんだろ。俺がおまえの父親なら同じ方法をとるよ」 「おれもそう思う。……父さんは、できることならまたリュカを雇いたいって」 「俺にはもったいない話だ……ははは」  リュカは力なく笑ったあと、深い溜め息をついた。 「自分勝手で独りよがりの俺を? アンリの気持ちを無視して『自分は好かれてるんだ』って勘違いしてた痛い奴だぞ?」 「リュカ、やめてよ」 「ありがたい話だけど、こればっかりは断らせてもらう」 「……やっぱりおれの家には居づらい?」 「そうかもな」  リュカのそっけない返答にアンリはうなだれた。当然といえば当然だった。自分が事件に巻き込まれた邸に出入りはしたくないだろう。邸を訪れるたびに古傷が痛むことは大いにありそうだった。 「アンリ、なにか勘違いしてないか」 「え? どういうこと?」 「おまえのことが諦めきれないから。このままずっと片思いの状態で、おまえと顔を突き合わせるなんて耐えられないんだよ。……未練たらしい奴だと思うか?」  アンリは首を横に振った。 「昔みたいに仲のいい友達に戻りたい」 「難しいな。難しいけど……努力はしてみる」 「知らなかった。リュカがそんなにおれのことを想ってくれてたなんて」 「ああ、そうだよ、まったく! 気づくのが遅すぎるんだよ、おまえは」  リュカは作業台から身を乗り出してアンリの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。 「ちょっと! 小さい子じゃないんだから止めて!」  アンリは迷惑そうに乱れた頭髪を手ぐしで直す。 「俺からすればアンリなんてまだまだ子供――いや、まあ、身長は多少伸びたか」 「あれから1年以上経ったからね。背くらべしてみる?」 「ふふん、1年そこらじゃ俺の背丈は越えられないだろ」 「どうかな」  自信ありげにリュカのそばに歩み寄り、彼の死角に入った。死角から急に現れたアンリにぎょっとして、リュカは思わず身を引いた。 「びっくりした?」 「目がない方に立つなよ……。片目だと距離感がつかめないんだ……」  文句をぶつぶつ言いながらリュカは立ち上がった。しかしくるりと向きを変え、壁ぎわの道具置き場に向かう。リュカがなにやら細長いものを掴んだ。彼が持ってきたのは裁縫用のものさしだった。  ふたりが向かい合うと目線がほぼ同じ位置にあった。背中あわせになり、お互いの体温を共有しあう。ふたりの頭上にぴったりとものさしが乗せられる。結果として、ものさしは床に対して平行だった。 「俺がいない間にここまで成長してたとはな……。くやしいけど、アンリはもっと伸びると思う」 「やった、来年が楽しみになってきた!」 「この、調子に乗るなよ」  アンリの頭をものさしで軽く叩いた。たかが身長、されど身長。アンリの子供っぽい煽りは彼の闘争心に火をつけた。 「さっきの身長測定は無効! 次はセザールを呼んで正確に測ってもらう」  リュカは同僚を呼びに出入り口へと向かおうとした。 「あ、待って待って……」  アンリにはどうしてもやり遂げたいことがあった。前髪で隠されたリュカの瞳を暴くこと。彼が拒むのは分かりきっていた。扉へ一直線に向かう彼は背後のアンリに気づいていない。死角であることを確認したアンリは、一瞬の隙をついて彼の前髪を払った。 「あ――」  そこに瞳は存在しなかった。膨らみを失ったまぶたが隠されているだけだった。そうだ、二度と元には戻らない。アンリは突きつけられた現実をすなおに受け入れた。大切なのはいまの自分になにができるかだ。彼の落ち窪んだまぶたに、そっと触れるように口づけした。 「はっ? い、いま、何した⁉」 「ただのおまじない」 「冗談言うな、俺をまた勘違いさせる気かよ」 「ちがうよ」  口づけはアンリなりの償いだった。もちろん口づけ程度で帳消しになる問題ではない。いまのアンリにできるのはこれが精一杯だった。リュカがそれに気づくのは当分先になるだろう。 「ところでさ――廊下にいるふたり、そろそろ入ってきなよ」  アンリは勢いよく扉を開け放った。状況を飲み込めない兄弟たちは唖然としている。リュカは眉間にシワを寄せて同僚とその弟の行為を非難した。 「まさかおまえら、盗み聞きしてたのか?」 「いや、俺はマリユスが『ここで静かにしてろ』って言うから従っただけで……盗み聞きっていっても全部聞き取れたわけじゃない……」  同僚のしどろもどろの言い訳にリュカはあきれている。 「弟に責任転嫁するなよ。情けない」 「ねえリュカ、顔赤いよ? どうしたの?」  マリユスは不審そうにリュカの顔を覗いた。 「えっ? か、風邪引いたんだよ。今日は冷え込みがすごかったしな」 「怪しいな……中でなにかあったんじゃないの」  アンリとリュカを交互にじろじろと見る。マリユスの表情からは嫉妬心が滲み出ていた。アンリはまたひとつ秘密の感情を知ってしまったようだ。  リュカはウソが下手だ。ここは自分が手助けしなくては。 「じつは4人でクリスマスをやり直そうって話をしてたんだよね」 「は?」  アンリを除いた3人の声が同時に重なった。 「ほら、リュカとセザールはクリスマスを返上して働いてたって言ってたでしょ。やっぱりクリスマスは祝ったほうがいいんじゃないかって」 『聞いてないぞ』という顔でリュカが当惑している。しかし、彼は友人のためにどうにか話を合わせた。 「……ああ、セザールのおごりでな」 「なんでそうなるんだ」 「盗み聞きした罪はこれで許してやるから」  セザールは納得いかないと思いつつ、観念したように財布を差し出した。それを見たマリユスはくつくつと笑った。  リュカの『どうだ、俺のアドリブは?』と言わんばかりの生き生きした顔。アンリはにっこりとほほえみ返した。 「さあ、1日遅れのクリスマス・パーティをしよう!」  第1章〈完〉

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