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再会 1
アンリは凄惨な事件を思い出し自身の片目を押さえた。もちろん無傷の眼窩が痛むはずもないのだが。足取りはどんどん重くなっていく。歩くたびにちらちらと視界に入るエナメル靴が憎らしくなった。履き心地を確かめようと履いてきたのがそもそもの間違いだった。アンリの重苦しい心中は、ピカピカのエナメル靴とはまるでかけ離れていたからだ。3、4歩まえを歩いていたマリユスは不審な顔で振り返った。
「ちょっと休もうか?」
「いや、大丈夫。行こう」
ふたりは繁華街を歩いていた。威勢のいい売り子の声が四方から飛び交う。無数に行き交う馬車の蹄の音が舗装された道路ではよく響いた。大道芸人がパフォーマンスで人垣をつくっていたが、見回りの警察官が警笛を鳴らしたとたん散り散りになった。
アンリはふたたび歩きはじめたが、やはり歩調が合わせられない。マリユスは後ろを振り返らずに言った。
「リュカに会いたいって言い出したのはきみだろ。どうしてそんなに尻込みするんだよ?」
「あのとき以来会ってないんだ……1年以上だよ? リュカがどんな顔してるかわからない……不安なんだ」
「それはきみ自身の目で確かめることだね」
さきほどの懺悔はなんだったのかと思うほど冷たい。これが彼本来の流儀であることを再認識した。
「リュカはおれに会ってくれるかな?」
「会いたくないなんて言うはずがない」
マリユスはきっぱりと言いきった。信念のこもった彼の言い方に勇気づけられたアンリは歩調を速めてマリユスと並んで歩いた。目的地につくまで少し時間がある。
「マリユス、学校を辞めた理由は?」
「ちょっと、辞めてないよ……休学中だって言ったろ」マリユスは溜め息をついて言った。「保守的すぎてつまらないんだよ。こうやって教科書どおりにしか描けない画家が量産されていくんだと思ったら恐ろしくて……」
「ははははは‼︎」
「おい、笑うことないだろ! ひとが真面目に話してるのに」
「そうそう、きみらしい真面目な理由だなあって! 画塾のときから変わってないんだもの。よく芸術評論家の本を読んでは講師に反論をぶつけてたね」
「……アンリは他人に無関心かと思ってたけど、意外と観察してるんだな」
マリユスの怒りはすぐにおさまった。まさかアンリが自分の行動をしっかり観察していた上に読んでいた本まで当てるとは。
「そりゃ同年代でまともに張り合えるのがきみしかいなかったし、講師に口答えするような尖った子は目立つよね」
「悪目立ちしてたのは反省してる。でもアンリはさ、講師の思い描く模範生だっただろ。きみとは違うんだってところを見せたかったんだ」
「模範生のつもりはなかったけど……」
アンリは思い出した。マリユスの視線を常に肌で感じていたことを。
「休学中はなにしてるの? 家にこもってたわけじゃないんだろ?」
「兄の店の手伝いをさせられてる。僕の意思はまるで無視」
マリユスは腕に提げたカゴを指差した。
「まあ家にいたらいたで両親の干渉がうるさいんで気晴らしにはちょうどいいかな。兄の下で働くのはしゃくだけど」
「お兄さんとは仲悪そうだね」
「兄は家業を継ぐ気がないんだよ……下手したら僕が後継者ってことになりかねない」
「ああ、なるほど……」
長男が家業を継ぐという点ではアンリには逃げ場がない。父の代からはじめた美術商を父が継がせたいと思っているかどうかは不明だが。
「本当に自分勝手だよ、僕の家族は! 兄さんなんて家業を継ぐ気がないくせに自分の店を構えてのうのうと生活してるし。店の建設費用はぜんぶ父さんが支払ったってのに……恩知らずにもほどがある! ああ、こんなことならアンリみたいに外国の学校に留学すべきだったな。そしたら両親の干渉を受けずに済む――」
マリユスの愚痴は永遠に続くかと思われたが、ある地点で唐突に足を止めた。
「あ、着いたよ」
人通りの多い繁華街から少し外れた場所にその店はあった。パリの中でも上層の人びとが住む地区である。十字路の角に面した立地を活かしてショーウィンドウをこれでもかと目立たせていた。めいっぱい着飾ったマネキンに魅了され足を止める通行人が後を絶たない。
両開きの扉の上に金文字のプレートが打ち付けられている。おそらく店の名前だろう。店と歩道を隔てるこじんまりとした階段を登る。両端に備え付けられた黒塗りの手すりは強風が吹いたらどこかへ飛んでいきそうなほど細い。
店内に足を踏み入れると、独特な香りがアンリの鼻腔に広がった。防虫剤とそれを打ち消すための香りのせいだった。手入れの行き届いた服が購買意欲をそそるように並べられている。
奥のカウンターに3人の女性客が群がっていた。中心にいる背の高い男性店員にアンリは見覚えがあった。男は身なりが良く、流行りの服を着こなしている。そして婦人のあしらい方を心得ているようだった。
「アルノワさん、今週末の夜会にはいらしてくださるんでしょう?」白帽子の女性が男性店員に話しかけている。
「行きたいのはやまやまなんですが……僕がいないあいだにお嬢さんがほかの男に獲られないか不安だな」
「大丈夫、わたしはアルノワさんひとすじですもの!」
「あら、あなた先週は別の男性に同じこと言ってなかった?」赤いドレスの女性がこれ見よがしに水を差した。
「ちょっと、根も葉もないこと言わないで!」
「そういえばアルノワさん、このあいだの観劇でこちらをお忘れじゃないかしら?」
3人の中でもっとも背丈の低い、金髪の女性が白い布を差し出した。
「ああ、なくしたと思ってたハンカチだ! 見つけてくださったんですか、ありがとう」
「観劇ですって? まさかふたりきり?」
「そんなの聞いてない。抜けがけして彼を独り占めしようっていうの?」
ふたりの女性は金髪女性に鋭い視線を向けた。
「お嬢さん方、店内ではお静かに。今度は4人でお茶でもしましょう」
機転の利いた彼の提案に黄色い声が飛び交った。彼女らはそれでもなおカウンターから動かず、男性店員を解放しようとしない。余裕の表情だった店員に焦りの色が出はじめた。
「セザール、来たよ」
マリユスは見計らったように店員に声をかけた。店員は天の助けとばかりに返事を返した。
「マリユス! 遅いじゃないか、どこで油を売ってたんだ」
「知り合いに偶然出会ってつい話し込んでた」
「――それじゃ、お嬢さん方。仕事を覚えたての新人にまだ教えることが残っているので今日はこのへんで失礼します」
女性客たちは突如あらわれた少年ふたりを横目にしつつ渋々解散した。セザールと呼ばれた店員は女性客が退店したのを確認するとにこやかに歩み寄ってきた。
「いやあ、タイミングよく帰ってきてくれて助かったよ。リップサービスもそろそネタが尽きる頃合いでさ……ん、その子は?」
「アンリ・デュ・ゲールだよ、兄さんも何回か会ったことあるだろ」
「アンリ? あっ……」
セザールはハッとしてアンリに向き直った。
「いつぞやは俺の弟がきみに失礼なことを……」
「いえ、そんな。マリユスはちゃんと謝ってくれましたし」
「本当に? それならよかった。しかし、アンリに会ったのは何年ぶりかな? ずいぶん成長してて分からなかったよ」
セザールの人当たりのよさは接客にうってつけだった。良くも悪くも。
「今日はうちの商品をお求めで? この上着新作なんだけどどうかな? いいエナメル靴履いてるね。言わなくてもわかる、特注品だろ? うちの上着と合わせたらぜったい似合うと思うよ」
「え、その――」
話の切り替えの早さにアンリは面くらった。たしかに上着のデザインは悪くない。それに自身のエナメル靴を褒められて悪い気はしなかった。
「アンリ、さっきのリップサービスを見ただろ。店員に言われるままに買ってたら財布が空っぽになっちゃうよ」マリユスが横から忠告した。
「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよ。俺はいつもお客さまの予算に合わせて提案してるんだ。搾り取るようなことはしてない」
「どうだか……」
「あの、今日は買い物に来たんじゃないんです」
兄弟げんかが始まりそうな雰囲気だったのでアンリは慌てて制止した。そろそろ本題に入らなければ。
「リュカがここにいるって聞いたんですが」
「え、リュカ? リュカなら上の作業場にいるけど……」
「少しだけ、彼に話したいことがあって」
「……わかった、呼んでくる」
リュカの名前を出したとたんセザールの声の調子が変わった。考え込むようなしぐさをしたあと、彼はしずかに階段を上がり2階へと消えていった。
「下手くそな演技! 言いたいことがあるなら言えばいいのに」
セザールがいなくなったのを見計らってマリユスが本音を漏らす。
「やっぱり……歓迎されてないよね。会わせたくないんだ、きっと」
「半々だな、会わせたくないなら今ごろ追い出されてるよ。あいつもお得先のデュ・ゲール家と縁を切るわけにはいかないからさ……」
上の階から苛立ちをあらわにした声が聞こえてきた。
「俺は忙しいってのに……接客はおまえの仕事だろ」
「下に降りてくればわかる」
セザールとともに青年がぶつぶつと文句を言いながら降りてくる。聞き覚えのある声だった。
「こっちはクリスマス返上して働いてんだよ。俺たち仕立て屋が汗水流して働いてる下で、おまえときたら女といちゃつく暇はあるんだからな――」
ウェーブのかかった黒髪が階段を降りるたびに揺れる。青年の片目が一点をとらえた。
「あ――アンリ?」
「人違いです」アンリはとっさに帽子で顔を隠した。
「……なに言ってんだ、おまえ」
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