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思い出したくない過去
1年と半年ほど前、アンリが誕生日を迎えた朝に事件は起こった。その日はあいにくの天気で、カーテンを全開にしていても窓から差し込む光はわずかなものだった。
リュカは流行の服に身を包んであらわれた。上等な服を身につけることは仕立て屋の特権でもあった。彼は初夏の外出着にふさわしい、すその短い明るめの上着を着ていた。
最近新調したばかりだという時計の鎖は彼の羽振りのよさを表している。それでも違和感があるとすれば、彼が肌身はなさず持ち歩いているスーツケースだけだろう。古びた革張りのスーツケースには彼の仕事道具が詰め込まれていた。彼の職業を知らない人間からすれば、育ちのよい立派な紳士に見えたにちがいない。細長い指先は一見繊細に見えるが、皮が厚くなっていて職人の手とわかるのだった。
『仕事が立て込んでてさ、今年はあんまり凝ったもの作れなかったよ』
手渡されたのは手帳サイズの箱だった。箱は包装紙できれいに包まれていたが、よほど急いていたのか少し潰れていた。おまけにラッピングのリボンがよじれている。アンリにとっては年に一度の一大イベントであり、手先の器用な幼なじみ手製のプレゼントを毎年楽しみにしていた。
『気にしないで。仕事が忙しいのは良いことだって父さんも言ってた』
『ははは、おまえの父さんって本当に仕事が好きだよな。変わってる。そこらへんの商人以上に商売上手だし』
高貴な身分に胡座をかかずあくせく働く父を褒めているのだった。
『だからって休みを返上して働くのはやめてほしいけどね! いつか身体を壊すんじゃないかって心配になるよ』
『ん、それは俺に言ってくれてるのか?』
『どっちも。……ねえ、これ、ほどけないよ』
アンリは強固なリボンに悪戦苦闘している。ほどこうとしてもますます絡まるばかりだった。我慢できなくなったアンリは箱をさらに潰して力技でラッピングを暴こうとした。
『おいおい、人の贈りものを雑に扱うなって……ほら』
革張りのスーツケースから裁ちバサミを取り出してアンリに手渡した。
『さすが、準備がいい』
『仕事道具を持ち歩いてるだけ。今日は昼から仕事なんでね』
リボンを裁断する音が小気味よく響いた。ひしゃげた箱を開けると、アンリは小さく感嘆の声をもらした。
『ネクタイだ』
『柄もかたちも流行りを取り入れたよ。アンリの歳には似合わないかと思ったけど、大人っぽく見せるにはちょうどいいかなって』
その当時、アンリは声変わりしたばかりだった。甲高い声には不釣り合いだが、変声期を終えた今では大人向けのネクタイを身に着けていても違和感がない。
『どんな感じだ?』
『ネクタイを替えただけなのにぜんぜん印象が違う気がする』
姿見鏡でなんどもネクタイの見栄えを確認する。リュカが背後に立つのが鏡越しに見えた。
『アンリはいくつになったんだっけ?』
『14歳。友達の歳くらい覚えてよ』
『覚えてるよ、確認しただけだ』
おもむろに背後から腰を抱かれた。尋常ではない、焦りにも似た表情が鏡に映し出される。以前も同じようなことをされたのをアンリは覚えていた。運よく使用人がお茶を持ってくる時間だったため、リュカの不可解な行為は中断された。あのとき以来、彼の不可解な行為について触れたことはなかったし、また彼も何ごともなかったようにアンリに接していた。
彼はアンリの首筋に顔をうずめてしばらくのあいだ動かなかった。時が止まったかと感じられるほどの静寂が数十秒続いた。
『未成年はダメだってさんざん言われたけど……うん、俺としては14歳でも問題ない』
『リュカ、そろそろ離して……』
振り向いたとたん、後頭部を押さえつけられ口をふさがれた。突然のできごとにアンリは理解が追いついていなかった。まさか幼なじみからキスされるなんて。
『アンリ、おまえが大人になるまで待ってられない。もうこれ以上は耐えられないんだよ』
『話がよくわからない――』と言いきる前に、あろうことか床に押し倒された。その拍子にスーツケースが落下し中身がぶちまけられた。
アンリは突然のことにパニックに陥った。なんということだろう。死角から不意打ちをかけるなど卑怯ではないか。まったくもって紳士的な行動とはいえない……などと思考をめぐらせているうちに、シャツのボタンに手をかけられた。アンリは凍りついた。知識と経験の浅い彼はここで初めて親友から性欲を向けられていることに気づいたのだった。
『ちょっと、ねえ、待って!』
『待ってたよ! 俺はずっと待ってたんだ。アンリならきっと俺の気持ちを理解してくれるって』
リュカは馬乗りになるとアンリのシャツのボタンを外しはじめた。興奮しているわりにボタンを外す動作はいたって冷静さを保っていた。衣類を乱暴に扱わない彼なりの気づかいが、この非常事態では虚しく映った。
『アンリの立場もあるし、なかなか踏み込めないのはわかってた。でもさあ、俺の気持ちに気づいてるくせに黙ってたんだろ。ひどい奴だよ。おまえがそのつもりなら俺から動いたほうがいいってね』
いつもの優しいリュカはどこへ行ってしまったのだろう。こんな獣じみた行動をとる男ではなかったはずだ。アンリは恐ろしさのあまり黙って聞いていた。ひとりよがりの主張に恐怖すら覚えたが、しだいに怒りがこみあげてきた。
『おれの立場を考えるならこんなことしないでよ! 卑怯者!』
床に落ちていた裁ちバサミをとっさにつかんだ。威嚇のつもりだった。こうすればリュカもさすがに引いてくれるだろうと思っていた。彼の身体を傷つける気はさらさらなかったのだ。だが彼は威嚇に動じないどころか、凶器が視界に入ってすらいないようだった。
(どうしよう、このまま身を任せるなんて嫌だ!)
優秀な職人の腕を刺すのは憚られたが、いまはそんなことを言っている場合ではない。やむを得ず、渾身のちからでハサミを振りおろした。鈍い音とともに悲痛なうめき声がアンリの耳をつんざく。生温かい体液がハサミを伝ってアンリの手を真っ赤に染めていた。
『ひっ……』
自分がしたことの恐ろしさあまり彼から距離をとった。それを目にした瞬間、全身から血の気が引いた。リュカは片目を押さえてうずくまっていた。あろうことか、ハサミがリュカの眼窩を貫通していた。腕に刺したと思ったハサミはリュカに致命的な一撃を与えたのである。
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