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「表札が、……ねえ」  ゾワリ、と背筋に冷たいものが流れる。  すぐにインターホンを鳴らしてはみるものの、反応はないし人の気配もない。 「真壁。おい、真壁! いんだろ!!」  何度もしつこく鳴らしてはドン、と扉を叩き、出て来いと声を荒げる。  それでも、シンと静まりかえったまま、反応はない。  どのくらいそうしただろうか。隣の部屋の扉が開き、寝起きらしき姿の男が顔を覗かせた。 「うるさい」と、鋭い声音で叱りつけながら。  すぐさま頭を下げる聖を見つめながら隣人は大きな欠伸をして、腹の辺りを掻いてぼそりと落とした。 「お隣さん、今日はいないんじゃない。夜勤明けで帰ってくるといつも顔合わせるんだけど今日は見かけなかったもん」  ぶるりと背筋を震わせ、聖は男が凭れかかっている扉をこじ開け、乱暴にスニーカーを脱ぎ捨てると散らかった廊下を駆け出した。 「おい!」と制止する声は、今の聖には届いていない。  他人の家に無断で上がり込むなど、そんな非常識を働いたことはただの一度もない。  一直線に進み、リビングを突き進みベランダへと続く窓に手を掛けた今だって、何故こんな事をしているのかと自分でもわからず指先はぶるりと震えている。 「お前何やってんだよ!」 「後で通報でも何でもしていいからちょっとだけ待ってください!」  窓から引き剥がそうと伸びてきた手を振り払い、悲痛な叫びをあげた聖に部屋の主は目を丸くして固まった。  暑さや疲れのせいでない呼吸の乱れ。鼓動はひどく煩いのに、身体の中心がひんやりと冷え切っている。  ――たぶん、この予感は的中する。  理由のない絶対的な確信は噛み締めた唇を裂くに充分だった。咥内に広がる血の味をそのままに窓を開けてベランダに出ると手摺に飛び乗った。  身体を捩らせて隔て版を避けて隣のベランダに降り立ち、視界に飛び込んできた景色に聖は愕然とした。  カーテンは取り払われ、ベランダに続く大きな窓からは室内の様子がくまなく窺えた。  フローリングが広がるそこは、何も無かった。  生活に必要な家具に、雑貨。すべてがなく、がらんとした室内は人が住んでいるとは到底思えない。 「……な、なあ、お隣さん」 「あんだよ」  聖を止めることを諦めた隣人が煙草に火を点けた音がする。  ジジ……と巻紙を焼く音が続き、聖は息を飲んだ。何度かそれを繰り返しても、渇いた唇はうまく言葉を紡ごうとしない。 「真壁ん家、入ったこと、あるか」 「いや、無いけど。でもここから物の貸し借りならしたことある。どうした」 「物、何も、無え」 「はっ? んなバカな」  身を乗り出し、隣から真壁の部屋を見た隣人は小さく「えっ」と漏らした。  ちらりと視線を動かし隣人の様子を窺うと、彼は手にした煙草が短く焼け付く時間をたっぷり使い真壁の部屋を見つめていた。 「引越し、てる……?」 「んなの聞いてねえ」 「いや、だってこれおかしいだろう。この間まで普通に……」 「……」  誰に言うでもなくぶつぶつと呟く隣人を余所に聖はスマホを取り出し、リダイヤルの一番上をタップした。 『おかけになった電話番号は 現在使われておりません』 「おい!?」  すう、っと。全身の体温が下がって立っていられなくなった。

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