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第1話
バサリ、と札束が投げ捨てられるのを、青藍《せいらん》は唖然と目にした。
彼の視線の先には、金髪で細身の青年が立っている。
肩に引っ掛けたジャケットがずれており、そこから骨ばった華奢な上腕が見えていた。
公園の薄暗がりの中、片手をジャージのポケットへと突っ込んで。
下からこちらを睨み上げてくるその目は、ネコのようであった。
そもそも、なぜ青藍が夜の公園などに居るのかというと、ここが実家の近くで……この公園を抜けた先に迎えの車が来る手筈になっているからだ。
青藍は、『淫花廓 』の男娼だ。と言っても、一般の人間には首を傾げられるだろう。
淫花廓とは、知る人ぞ知る、超が付くほどの高級娼館で、現代の遊郭、と呼ばれる場所なのである。
なぜ、青藍が男娼なんて仕事を生業にしているのかというと、手っ取り早く稼げるから、のひと言に尽きた。
青藍は7人兄弟の長男だ。
両親は2年前に交通事故で他界している。
家業であった下町の工場の経営は芳しくなく、家は貧しかったが家族仲は良かった。
青藍は幼い弟妹の世話を、二つ年下の次男とともによく見たし、笑顔の絶えない家だったと思う。
しかし、不況の煽りで売り上げが伸びずに、父母は追加融資を願い出るために出掛け……その道中で事故を起こしたのだった。日頃の無理が祟った上での、居眠り運転だ。ハンドルを握っていた父を責める気には、到底なれなかった。
青藍は齢18にして、事故の被害者への損害賠償と、弟妹たちの今後の学費や生活費を稼がなくてはならなくなったわけである。
高校を中退した未成年が、普通に働いて稼げる額ではない。
青藍が途方に暮れていると、不幸話を聞きつけた闇金業者が金貸しの話の途中で、冗談半分で口にしたのがこの淫花廓の話題であった。
闇金業者も、まさか本当に青藍が淫花廓に雇われるとは思っていなかったのだろう。
青藍自身、己のなにが良かったのかは不明であったが、簡単な面接の後、晴れて淫花廓で働くことが決まったのである。
青藍は、ゆうずい邸、という名の建物で、働くこととなった。
ゆうずい、とはすなわち雄蕊 を意味する。
ゆうずい邸の男娼の仕事は、ここを訪れるお客さまを満足させること。
客は男娼に抱かれるために、法外な金を支払ってゆうずい邸へとやってくる。
男娼は金と引き換えに、相手がどんな人間であろうと客が求めるままにその体を抱くのであった。
そう……客の老若男女を、問わずに。
淫花廓の男娼となった時点で、基本的に敷地外へ出ることは禁止される。
電話やメールなど、外部と通信できる機器もなく、手紙のやりとりは楼主の検閲が入る。これだけ聞くとまるで刑務所のようだが、衣食住には不自由はなく、仕事だって(最初は、抱く対象に男性も含まれると知って尻込みしたが……)、慣れてくれば楽しめた。
唯一の不満と言えば、思うように弟妹に会えないことだが、そこは楼主も鬼ではない。
ゆうずい邸の男娼は、客の求めに応じ、社交界の催し物やパーティーに同伴することがあるのだ。
青藍には、その外出先が実家の近くであれば、家に寄ってもいい、と特別な許可が与えられているのであった。
男娼を敷地の外へ出す、ということに関して、もちろん料金は上乗せになるし、客は煩雑な手続きを取らなければならない。
男娼側はと言えば、淫花廓に雇われることが決まった時点で、逃亡防止用のマイクロチップが首の後ろに埋め込まれ、外出当日は、そうとわからぬよう見張りを付けられているようであった。
男娼を同伴させた客に恥をかかせないよう、ゆうずい邸の男娼たちには社交界でのマナーや、どんな会話にでもついていけるだけの知識が求められる。
青藍も恥ずかしくないだけの立ち居振る舞いは叩きこまれたが、政治や経済の話題はまだちんぷんかんぷんで、その無知が逆にマダムたちには受けた。
曰く、「困り顔が可愛いわ」。
しかし、わかりませんや知りませんがまかり通るのは、若いうちだけだ。
青藍の憧れでもある、ゆうずい邸ナンバーワンの紅鳶 などは、その研鑽の結果、どこに連れて行っても恥ずかしくないどころかむしろ自慢になる、と評されるほどに博識で、青藍からすれば小難しく意味不明な会話も、スマートにこなすのだった。
さて、そうしたわけで、青藍は今日、とある政治家のパーティーに某資産家の奥方のお供として参加してきたわけである。
ゆうずい邸では普段和装をしているため、スーツに袖を通すのは久しぶりであった。
衣装代は稼ぎから引かれるため、青藍はその辺の量販店の吊るしのスーツでいいと主張したのだが、楼主に、
「淫花廓の男娼にそんなみっともねぇ恰好させられるか。ちゃんとオーダーで作れ」
と一蹴され、数十万円もする分不相応なものを仕立てられたのだ。
手触りも着心地も最高のそれは、本日のお客様にも好評だったのだが、数十万円もあれば弟妹に色々買ってやれたのに、と思うと痛い出費だ。
今度は私があなたに似合うスーツをプレゼントしてあげるわね、と赤い口紅のマダムはそう言っていたけれど……その言葉はもっと早く欲しかった、と内心で思った青藍である。
昼間の立食パーティーを終え、その後はマダムと高級ホテルで休憩をして……実家に寄れたのが19時を回った頃。マダムに買ってもらったホテルメイドの焼き菓子を手土産に久しぶりに顔を見せた青藍に、3歳の末っ子を始め5歳、7歳の弟妹が狂喜乱舞し、家はちょっとした騒ぎになった。
興奮する弟妹を寝かしつけ、帰途についたのが22時。日付が変わるまでには淫花廓へと戻らなければならない。
予め指定されていた迎えの車が来る場所へと、少し急ぎ足で向かった青藍が、公園を突っ切ろうとしたとき。
ふと、視界の隅に引っ掛かる光景があった。
夜目にもキラキラとした金髪の青年が、公園の端で段ボールの上に胡坐をかいていたホームレスの男の前に仁王立ちし、そちらを睥睨していたのである。
小汚い風体の初老のホームレスが、なにごとかとおどおどとした目を青年へと向けていた。
警戒するホームレスの目線の先で、青年の手がごそりとジャケットのポケットに潜り込んだ。
まさか、ナイフでも出すつもりだろうか。
この辺でホームレス狩りなどの物騒な事件があったとは聞いていないが……青藍は慌てて、彼らの方へと走り寄る。
青年の手が、無造作に、ポケットから出された。
ホームレスは完全にびびって、目をぎゅっと閉じている。
やめろっ、と青藍が叫ぼうとした、その時。
街灯に照らされた青年の手元が見えた。
え?
札束?
青藍がぎょっとして思わず足を止めるのと、金髪の青年が右手の札束をホームレスの前に投げ捨てたのは同時であった。
バサリ。
僅かな風を起こして、砂を飛び散らせたそれを……ホームレスが怖々と開いた片目で捉え……それから慌てて膝立ちになると、札束と青年を交互に見つめた。
「やる」
ぼそり、と青年が呟いて。
くるりと踵を返した。
薄汚れたスニーカーが、ざりっと地面を踏んで。
数歩歩いたところでふと彼が足を止めた。
「なに見てんだよ、クソが」
不機嫌な言葉とともに、青年がぎろりと青藍を睨みつけてきた。
年の頃は青藍と同じ二十歳か……その前後だろう。
ネコのような目と、短い眉が少しアンバランスで、どこか困り顔にも見え、一生懸命威嚇してきている様子も虚勢が丸出しでまったく迫力がない。
そう言えば髪もキンキンの金髪だが、剥き出しの耳などのどこにもピアスは見当たらなかった。
なんだろう……この、頑張って不良してます感は……。
青藍は気付けば、青年の顔をまじまじと観察してしまっていた。
それが癇に障ったのか、青年の眉がますます内側に寄って……眉間に深い縦皺を刻んだまま、彼が乱暴な口調で吐き捨てた。
「ああ、なんだ。おまえも金が欲しいのかよ。ほらやるよ」
バサリ。
二つ目の札束が、青年のポケットから掴みだされ、青藍の足元へと投げられた。
青藍は唖然と、紙の帯で留められた厚さ数センチの紙幣の束を見たのだった……。
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