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第2話

 むしゃくしゃする。  なにに苛立ちを感じているのか判然としなかったが、とにかくは苛々としてした。  2年前、母親が再婚した。  玉の輿と、ひとは言う。相手は母親よりひと回り年上で……かなりの富豪であった。  父が早逝し、以降は女手ひとつで看護師という激務をこなしながら育ててくれた母親の再婚は、喜ばしいことで……ちふゆだって、祝福していた。  けれど……。  金がある、ということは良いことばかりではない。  いままでなら、襖を一枚開けると母親の姿があったのに……新しい家(というか屋敷)では長い廊下があって……母親の存在が希薄になってしまった。  新しい父とはなんだか変にギクシャクとしてしまって……ちふゆは家で会話をする、ということをいつしかしなくなっていた。    そしてちふゆは、わかりやすく、グレた。  いや、グレようと、した。  まず、高校卒業と同時に髪の毛を金髪にしてみた。頭皮が赤くなってかなりヒリヒリしたが、これにはなんとか成功した。  しかし、次にピアスを開けたとき……穴が膿んで大変なことになったため、すぐにやめた。そこで初めて、ちふゆは己の肌が繊細であることを知った。    不良グループに入ることも考えたが、ちふゆは160センチで上背もなければ腕力もない。喧嘩なんてしたこともなかったし、殴り合いなんて想像するだけで痛すぎて、できる自信もさらさらなかった。    ならば、と思いタバコに手を出したが……思い切り噎せて、最初のふた口でやめた。  アルコールは体質に合わなくて、ゲェゲェ吐くだけで終わった。  ピアスもダメ、酒もダメ、タバコもダメ、喧嘩もダメ……ダメダメ尽くしのちふゆは、取り敢えずニートになった。  進学もバイトもせずにブラブラし始めた息子に、母は激怒したが、そんな母親を無視することが、ちふゆに出来る精いっぱいの反抗なのであった。  ニートのちふゆにあるものと言えば、父が毎日のようにリビングの小箱に置いてゆく、現金だけだ。  ちふゆくん、これで好きなものを買いなさいね。  白い物の混ざった髭をやさしく揺らしながら、父親がそう口にする。  けれどちふゆは、それに目を背け、父とは会話せず、母の言うことには耳を塞いで鬱屈とした生活を送っていたのである。  そんなちふゆがある日起きると、家には父母の姿がなかった。  え?、と驚いて家政婦さんに問い質すと、 「奥様は海外ボランティアに、旦那様は出張に行かれてますよ」  と、なにをいまさら、というような口調で教えてくれた。  ちふゆは茫然と、立ち尽くした。  そう言えば母親はかねてより、無医村で医療ボランティアとして従事したい、ということを言っていた。  これまではちふゆとの生活が優先で果たせていなかったが……いまは、お金があるのだ。  母は夢を叶えに行ったということか……。  それとも。  それとも、ボランティアは口実で、夫婦水入らずで新婚旅行にでも行ったのだろうか。    邪魔なちふゆを置いて……。  だって、同じタイミングで出張とボランティアに出掛けるなんて、どう考えてもおかしい。2人は一緒に出掛けたのだ。もう帰って来ないかもしれない。  その考えに至ったとき。  ちふゆの苛々が頂点に達した。  2人が好きにするなら、ちふゆだって好きにしてやる。  この家の金、すべてを使い切ってやる。  父と母が帰ってきたときには……すっからかんにしておいてやるのだ!    斯くしてちふゆは、ジャージのポケットに札束を詰め、街を徘徊し始めたのであった。  しかし困った。  1日歩いても、金が減らない。  服にも靴にもあまり興味のないちふゆである。  どこへ行っても、欲しいものが見つからなかったのだ。  ずるずるとスニーカーの底を引きずるように歩いている内に、時刻もいつの間にか22時を回っていた。    公園を突っ切って家に帰ろうとしたちふゆの視界に、ふと、ホームレスの姿が飛び込んで来る。  そうだ、と閃いた。  このポケットの金を、ホームレスにくれてやればいいのだ。  ちふゆはズカズカと公園の端に段ボールを敷いて座っている男へと歩み寄り、ポケットから無造作に掴みだした金を地面へとポイと投げ捨てた。 「やる」  ポカン、と口を開けてこちらを見上げてきた小汚い風体のホームレスから目を逸らし、ちふゆは踵を返した。  捨てた札束の分、ポケットが軽くなっている。    よし。  明日からはこうやって金を使おう、とちふゆはこころに決めて数歩歩き……ふと、こちらを見つめてくる背の高い青年の姿に気付いた。  青年は、ぼんやりとした公園の街灯の下に居てさえ、ちょっと目を惹く外見をしている。  背が高く、体つきもがっしりとしていて……黒目がちの犬のような目が、ひた、とちふゆに据えられていた。 「なに見てんだよ、クソが」  そう吐き捨てて、ちふゆは男を睨み上げる。  ちふゆがメンチを切っても青年にはまったく動じた様子がなく、むしろ興味深そうに瞬きをされた。  威圧的ではなかったが、ちふゆよりも上背のある男に見下ろされると、少しビビる気持ちが涌いてきてしまう。  ちふゆはそれを誤魔化すように、ぎゅっと眉間にちからを入れて、ポケットをごそりと探った。 「ああ、なんだ。おまえも金が欲しいのかよ。ほらやるよ」  わざと乱暴に言って、掴み取った札束を、青年の足元に投げ捨てた。  ピカピカの革靴と、上等そうなスーツの裾に、ふわりと舞った砂が降りかかった。  ちふゆはフンと鼻を鳴らして、くたびれたスニーカーの足を動かし、青年の脇を通り抜ける。 「ちょ、ちょっと待って」  不意に、背後から腕を掴まれた。  大きなてのひらの感触に驚いて、ちふゆはそれを振り払う。 「触んなっ」    なんだ。もっと寄越せとでも言われるのだろうか。しかしポケットにはもう小銭ぐらいしか入っていない。強請られても困る。  内心で焦ったちふゆは、とにかくダッシュで逃げようと考えた。しかし、再び伸びてきた青年の手に、手首をぎゅっと掴まれて阻まれる。    青年が、ちふゆの手首を掴んだまま、空いている方の左手で地面から札束を拾い上げた。 「このお金……」 「要らねぇからやるっつってんの! 離せって!」 「あのさ、理由もなくこんな大金もらえないよ。これ……100万はあるだろ?」 「知らねぇよ。くそっ! 離せって言ってんだろ」    ちふゆは腕をがむしゃらに振ってるのに、青年の指のちからはまったく緩まない。  不意に彼が、顔全体で笑うような、人懐っこい笑顔を浮かべた。 「ははっ。あんた、ちから弱いんだな~」 「なっ!? く、くそっ」  バカにされた、とカチンと来たちふゆは、青年の脛に向かって蹴りを繰り出した。  バシッ、と蹴った、と思ったが、ちふゆの動きを読んでいたのか青年が足の角度を変えて、蹴りは脛ではなくふくらはぎの辺りにヒットした。   「あ~あ。卸したてのスーツなのに」  白っぽい砂がスーツを汚すのを、青年がそんなふうに嘆いた。  それから、くるり、と黒い瞳を動かしてちふゆを見つめると、にっこりと笑ってくる。 「あのさ」 「な、なんだよ……クリーニング代出せばいいんだろ」 「ははっ。違うって。あのさ、このお金要らないなら、俺のこと、買わない?」  人差し指で、自分のことを指さして。  青年が、そんなことを言った。    ちふゆはポカンと彼を見上げ……、 「はぁ?」  と語尾を跳ね上げた。 「俺、男娼なんだ」  男娼、というみだりがましい単語とはまったく不釣り合いな、健全で昼間の光がよく似合うような明るい表情で、青年が屈託なくそう口にする。 「……はぁ?」 「だから、俺、男娼してんの。この金で俺のこと買ってくれたら、サービスするけど?」 「意味わかんねぇ。なんでオレがおまえのこと買わなきゃならねぇんだよ」 「でも要らない金なんだろ? パーっと使ってみたら?」  小首を傾げてそう問われ、ちふゆのこころは揺れた。  そうだ。使い道がない金なのだから、この青年の言う通り、パーっと散財すればいいのだ。 「色っぽい話を抜きにしてもさ。ただのおしゃべりだけでもいいから、一回来てみれば? な?」  にっこりと、目尻を下げる犬のような笑い方で誘われて……ちふゆはこくりと頷いた。  行くだけ行ってみて、つまらないようなら帰ればいいのだ。 「わかった……行く」 「やった! 売上ゲット!」  赤裸々に歓声をあげて左手でガッツポーズをした青年が、癖のない髪をさらりと揺らして、ちふゆの顔を覗き込んできた。  ちふゆの手首は、彼の右手に掴まれたままである。   「俺、青藍、っての。あんたの名前は?」 「……音羽」 「おとわ……。それって名字? 名前?」  ちふゆは一瞬、ぐっと唇を噛んだ。それから、ぼそりと早口で自身の名前を告げる。 「音羽ちふゆ」  青年の黒い瞳がぱちりと瞬いて。  それからじわりと細まった。 「へ~。かわ、」 「可愛い名前だとか言ったら殺すぞ」  精一杯ドスをきかせた声で吐き捨てると、青年……青藍が明るい声で笑った。    ちふゆは……母の再婚前までは神崎という名字で……そのときでもこの女のような名前で散々揶揄われていたのに、再婚後には名字まで可愛い響きになってしまい、その点でも腹立たしい思いを抱いているのだった。  青藍が、ポン、ポン、とちふゆの頭の上でてのひらを弾ませた。 「いまから来る? それとも、別の日にする?」  その辺に映画でも行くような気安さで、青藍が尋ねてきたから……。  ちふゆは思わず、 「いまからでもいいけど」  と答えていた。 「よし、じゃあちょっと、ちーを連れて行っていいか聞いてくるね」 「おう……って、誰がちーだ! 変な呼び方するな!」    あまりに自然に「ちー」と呼ばれてうっかり聞き流しそうになったちふゆを、青藍があははと笑う。  青藍のこの、人懐っこい笑みに、誑かされたような気分であった。      この日からちふゆは、『淫花廓』と呼ばれる遊郭へと毎週のように通うことになったのである。  青藍に、会うために……。     

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