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第3話

「ちー」  と、青藍がちふゆを呼ぶ。  毎週水曜日の夜。  ちふゆが受付を終えてゆうずい邸の張見世に足を踏み入れた途端に、尻尾を振った大型犬のような青年が、 「ちー!」  と喜色満面に飛びついてくるのが、もうここでは見慣れた光景になっていた。  最近では青藍よりも早くちふゆに気付いた男娼が、 「ご主人様が来たぞ」  と、肘で青藍を小突いて教えてやるほどであった。  誰がご主人様だ、とちふゆは思う。  けれど、キラキラとした笑顔の青藍が一目散に駆け寄って来る様は、ちふゆの優越感を満たしてくれて。  緩みそうになる頬を、唇を尖らせることで誤魔化して、ちふゆは素っ気ない態度で「おう」と答えた。  そんなちふゆをぎゅっとハグした青藍は、ちふゆの短い金髪に頬ずりをして、ついでのようにちゅっとコメカミにキスを落としてくる。 「っ! テメッ、離れろっ」  ちふゆは慌てて彼の顔を押しのけた。    そのとき。 「犬かよ、おまえは」  くくっと喉奥で笑うバリトンの声が降って来て、ちふゆは青藍の腕を解きながら振り向いた。  そこには、顎髭を生やした男前が眇めた目で青藍を見て苦笑を浮べている。 「漆黒さん」  と、青藍が男をそう呼んだ。  聞き覚えのあるその名に、ちふゆを小首を傾げて男の姿を双眸に映した。  青藍がよく口にする名前は、二つ。  ひとつは、このゆうずい邸の一番手だという『紅鳶(べにとび)』。  紅鳶さんはマジかっけー、が、青藍の口癖だ。  そしてもうひとつの名が、『漆黒』。  漆黒さんもやる気出せば紅鳶さんクラスになれると思うんだよな~、という青藍による漆黒評は、わりと頻繁に耳にしている。  そうか、この男がその『漆黒』か。  ちふゆの視線を受けて、漆黒が小さく肩を竦め、片頬で笑った。なるほど、仕草も顔も男前だ。  その男前が着物の袂をごそごそと探り、そこからタバコを取り出すと、唇へと挟んだ。 「ここで喫うのはさすがにマズイっしょ。怒られますよ」 「予約の客がまだ来ないんだ。大丈夫だろ」 「灰皿、持ってるんですか?」 「相変わらずの口うるささだな。こんなの相手で、満足させてもらってるか?」  言葉の後半は、ちふゆに向けられたものだった。  ちふゆが眉を寄せて、返事をしようと口を開く前に。  ちふゆの肩をぐいと抱き寄せた青藍が、勝手に答えてしまう。 「ちーは俺で満足なんスよ。手ぇ出さないでくださいよ?」 「ははっ」  漆黒が笑った。  目尻にくしゃりとしわの寄る、やさしい笑い方だった。  男の手が伸びてきて。  ちふゆの眉間を、とん、と指先で小突く。 「困り眉がなかなかそそるな。青藍に飽きたら俺を指名してくれ」  腰に響くようなバリトンが、耳元で囁いた。  ふわりとタバコの香りが漂ってきて……頬に血の色をのぼらせたちふゆは、咄嗟に耳を抑えた。 「後輩の客口説くとか、マジ勘弁してほしいっすわー」  青藍が大げさにぼやき、それからちふゆの反対の耳に、 「浮気しないで、ちー」  とおかしな言葉を吹き込んでくる。  ちふゆは真っ赤になって、青藍をじろりと睨んだ。  ふざけんな。  なにが浮気だ。  言い返そうとしたちふゆだったが、普段は表情豊かに瞳をくりくりさせている青藍が、思いの他真剣な顔をしていて……その眼差しに気圧されて、唇をもごもごと動かすので精一杯になってしまう。  するり、と青藍の手がちふゆの指に絡んできた。  ちふゆの手を引いて、青藍が歩き出す。  漆黒は……と思って見てみれば、いつの間にか男は、咥えタバコのままで玄関に到着した車の方へと移動しているところだった。  ちふゆと青藍は受付から伸びる外への回廊へと足を踏み入れる。  そこから、ゆうずい邸を起点として放射線状に奥の敷地へと続く石造りの廊下があった。  カラカラと、青藍の履く下駄が音を立てている。 「漆黒さんはな~。あの声がずるいんだよな~」   ちふゆと手を繋いで歩きながら、青藍がいつもの口調と表情に戻ってそうこぼした。 「ちーも真っ赤になっちゃうしさ~」 「うっせ。なってねぇし」 「なってたよ。妬けるな~俺。妬けちゃうな~」  ぶらぶらと、二人の間で手が揺れる。  ちふゆは眉を寄せて、指同士を絡めている青藍の大きな手に視線を落とした。  なにが妬ける、だ。  バカじゃねぇのコイツ。  胸の中でちふゆは呟く。  オレのこと、で好きじゃないくせに。  ちふゆは薄い唇を噛んだ。  声に出すとおかしな空気になってしまいそうで、青藍に言うつもりはないけれど。  オレのこと、抱く気なんてないくせに、と思ってしまう。  青藍とちふゆはべつに。  周囲が思っているような関係ではないのだ。  だって……ちふゆと青藍が2人で蜂巣(ハチス)(客と男娼が過ごすための離れを、こう呼ぶ)にこもってしていることと言えば、雑談やカードゲームの類で……たまにちふゆが廓の許可を得て持ち込んだ漫画を2人で寝転がって読んだりしているだけで……。  ちふゆと青藍の間には、体の関係など、まったくないのだった。  つまり、ものすごく健全な付き合いをしている、というわけだ。  俺を買ってよ、と最初に青藍に誘われて、この淫花廓を訪れた日。  青藍はちふゆを抱かなかった。  二人でベッドに座り、他愛のない話をして過ごしただけだった。  ちふゆは始め、主に聞き役に回ったが、青藍が話す幼い弟たちの話は楽しかった。  ちふゆは一人っ子で……兄とか弟という存在には縁がなかったから……。  いとしげに目を細めて弟妹のことを語る青藍を、少し羨ましく思った。  ……いや、羨ましかったのは、青藍の弟妹たちの方かもしれない。  ちふゆだって、こんなふうに……自分のことを想ってくれる家族が欲しかった。  ちふゆのことをいとしげに話してくれる家族が、欲しかった。  そう思ったら、ほとり、と涙が落ちて。  急に泣き出したちふゆに、青藍が驚いて目を丸くして……それから、ちふゆをぎゅっと抱きしめてくれて。  ちふゆは青藍の腕の中で、積もりに積もった愚痴を、吐き出した。  母が再婚したこと。  再婚相手の父とはうまくいっていないこと。  ……母と父に、捨てられてしまったかもしれないこと。  青藍はひとつひとつに相槌を打ち、ちふゆの短い髪を撫でながら、耳を傾けてくれた。  ちふゆと青藍は、ひと晩じゅう色んな話をして過ごし……そのことでちふゆのこころは、憑き物が落ちたかのように軽くなったのだ。  家に帰ってからも、青藍のことが頭から離れずに……ちふゆは翌週も淫花廓を訪れた。  ちふゆの再訪を、青藍は歓迎してくれた。  前と同じ部屋でいい? と聞かれて頷くと、ちふゆの手を引いて蜂巣へと連れていってくれた。  けれどベッドの上でしたことと言えばまた雑談で……。  三度目の来訪の際にはちふゆも保険を掛けた。  トランプを持って行ったのである。  ちふゆは初めて淫花廓を訪れた時から青藍を伴っていたので、簡単な説明しか受けていなかったのだけれど……淫花廓には厳然としたルールが存在していて。外部からの差し入れはしかるべき手続きを取らなければならないのだということを、ちふゆはそのとき、初めて知った。  けれど受付の能面姿の男(男衆、というらしい)は、トランプを箱から出して一枚一枚を確認した後、 「特別ですよ」  と言ってそれをちふゆに返してくれた。 「男娼への差し入れは、事前に申請をしてください。食品などはこちらのカタログからどうぞ。これ以外のものについては、検品後でないと男娼に渡すことはできませんのでお気をつけください」    淡々と告げられ、ちふゆはドギマギと頷いた。  淫花廓、という場所の特殊性を、強く認識した瞬間であった。  そんな経緯でちふゆが青藍の前に差し出したトランプは、大いに盛り上がった。 「トランプなんてチョー久しぶり」  そう言って、青藍が顔全体で笑う。明るい笑顔だった。  二人でベッドの上で顔を突き合わせてカードを広げた。  ちふゆと青藍の、体の距離は近いのに……青藍はやはりちふゆを抱こうとはしなかった。  その日からちふゆは、淫花廓へ来るときは漫画やカードゲームなどの娯楽を持参することにした。  通信機能のあるゲーム機はダメだったようで、許可が下りなかった。  青藍と居る時間は楽しい。  楽しいから、あっという間に過ぎてしまう。  ひと晩を蜂巣で過ごして、翌朝青藍に伴われてゆうずい邸へと戻る。  フロントには朝帰りの客の姿がちらほらあって……その客を見送っている男娼たちは皆、客へと甘い言葉を囁いていた。  毎週ここへ来るような上客と肉体関係にない、ということは男娼にとって恥ずかしいことなのか、青藍は、人目のある場所ではちふゆの肩に手を回し、仲睦まじさをアピールするかのように、こめかみや頬へキスを落としてきた。  ちふゆは最初、近すぎる距離にどぎまぎしたり、青藍の唇の感触に真っ赤になったりしていたが、いまでは苛立つ気持ちの方が強い。  なぜなら青藍がちふゆに、そんなふうに触れてくるのは、ひと目のある場所に限定されていたからである。  蜂巣に入って二人きりになった途端、青藍の体はするりとちふゆから離れてしまう。  ちふゆはその度に、なにかモヤモヤしたような思いが胸の奥に積み重なって、青藍を(なじ)りたくなるのだった。  けれど、なぜちふゆを抱かないのか、なんて。  青藍に訊けるはずもない。  だって、ちふゆにもよくわかっている。  目つきの悪い、痩せた野良猫のみたいに可愛げがなくて、色ごとに疎い(……はっきり言ってちふゆは童貞だ)ちふゆなんかの相手を、人気男娼である青藍が好んでするわけがなかった。  だからちふゆは今日も、その問いを青藍にぶつけることなく。  ベッドの上に、カードゲームと漫画を広げて置いたのだった。    

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