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第4話

 音羽(おとわ)ちふゆ、という人間は、飼い猫のようだと、青藍(せいらん)は思う。  野良猫ではなくて、飼い猫。  金色の短い髪は触れてみると存外やわらかな手触りだし、警戒心の強そうな目は、その実いつも少し不安そうに揺れていて、青藍の差し出した手に他愛なくすり寄ってくるのだった。  ちー、と青藍が呼ぶと、短い眉がぐっと寄せられる。  困り眉がそそる、とはちふゆを見た漆黒の言葉だが、気持ちはわからなくもない。  本人はメンチを切ってるつもりだろうが、眉間にしわを作って上目遣いになるちふゆは、可愛かった。  思わずよしよしと撫でたくなる愛らしさがある。  しかし、青藍の方からスキンシップをはかろうとすると、するり、と細い体は逃げてゆく。  やめろよ、と言って手を振り払ったくせに、そのくせ青藍が怒っていないかどうかをこっそりと窺ってくる様などは、本当に……青藍の語彙力の限界ではあるけれど、可愛いのひと言に尽きた。 「ちー」  青藍はベッドに胡坐をかいて、手元の漫画からちふゆへと視線を移し、腹ばいで寝そべって同じく漫画を読んでいるちふゆへと声をかけた。  ストーリーが佳境を迎えているのか、「ん~」と気のない相槌が返ってくる。  この『淫花廓』という現代の遊郭で暮らす青藍には、漫画、というものは貴重だ。  漫画だけでなく、ちふゆが持って来てくれるトランプやウノなどのカードゲームもここにはない。  漫画の代わりには小難しい新聞や雑誌、トランプの代わりには花札などはあるけれど……ピチピチの二十歳の青藍には、そんなものよりもちふゆが差し入れてくれる娯楽の方がよほど楽しいのであった。  だから、こうしてのんびりダラダラと蜂巣でちふゆと過ごすのは、青藍にとってはなによりも楽しい時間なのだけれど……最近は、漫画を見るよりもちふゆを観察している方が楽しい。 「ちー。その角度、おっぱい見えるよ」  ちふゆの纏う、ゆるっとしたTシャツ(淫花廓(ここ)へTシャツにジャージという普段着で来る客は、多分ちふゆぐらいだろう)の襟ぐりは、うつぶせになっているせいで重力に垂れさがり、大きく開いたそこからは、ささやかな胸の突起が見え隠れしている。  それを青藍が指摘した途端。  ちふゆがガバっと起き上がった。  咄嗟の動作なのか、胸を手でガードして、色白の頬に血の色を上らせ、口をパクパクと開閉させる。 「な、な……お、おまっ、変な言い方すんなよっ!」  真っ赤な顔で、ちふゆが吐き捨てた。  眉がまた困ったように寄せられて……それが可愛くて、青藍は肩を揺らして笑ってしまう。 「ははっ。ちー、真っ赤っ赤」  青藍がちふゆの頬に触れようと指を伸ばしたら、毛を逆立てた猫のように、ちふゆがマットレスの上で飛び上がって、端の方まで後退る。  ちふゆがあんまり頬を赤くするから、青藍は笑いながら首を傾げて尋ねてみた。 「男同士なんだから、そんな恥ずかしがることないっしょ?」 「お、おまえが変な言い方するからだろっ! お、お、おっぱいとかっ」 「あれ? 変? 弟たちにはいつもそう言ってるし、わかんなかった」  嘘だ。  二つ下の弟とは猥談をしたことがあるが、他のまだ幼い弟妹たち相手におっぱいなんて単語を頻繁に使うわけがない。  ちょっと考えればわかりそうなものなのに、ちふゆは青藍の嘘をあっさりと信じ、決まりが悪そうに口をもごもごとさせて……、 「べ、べつに、ぉ、おっぱいぐらい、オレも言うしっ」  と早口でまくしたてた。  青藍は爆笑したくなる衝動をなんとかこらえて、喉奥で笑いを噛み殺した。  青藍自身、男娼なんて仕事を始めたときには漆黒辺りに、「おまえみたいなお坊ちゃんに務まるか?」と揶揄されたし、お客様には「良い子」とか言われるが……。  ちふゆを見ていると、こんなに純粋培養で大丈夫だろうか、と心配になってくる。  髪の色こそどこのヤンキーだと言いたくなる金髪だけれど、まったくスレたところのないちふゆは、言動のすべてがいちいち可愛くて、青藍はついちふゆに構いたくなってしまう。 「ちー。そんな端っこに行ったら落ちるよ」  青藍は漫画を横に置き、四つん這いの姿勢になった。  ギシ、と僅かにベッドが軋む。  そのまま膝をすべらせてちふゆの傍に行こうとしたら、ちふゆがますます後方へとお尻をずらした。 「お、おまえのせいだろうがっ。こっち来んなって……う、うわぁっ」  じわじわと下がり続けたちふゆが、ついにマットレスの端に行きつき、バランスを崩して後ろへ倒れそうになる。  青藍は慌てて彼の細い腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。  けっこう強く引いたから、ドン、とちふゆのおでこが胸にぶつかってくる。  青藍はちふゆの体を抱き寄せたまま、ドサリとベッドに倒れた。  金色の毛先が顎をふわふわと掠めてきてくすぐったい。  くくっ、と青藍は笑いを漏らした。 「ほら、危なかった」 「……だから、おまえのせいだろうが」  青藍の腕の中で身じろぎをしたちふゆが、唇を尖らせて睨み上げてきた。  この距離でそんな表情をされると……なんだかキスをせがまれているようで……。  青藍が思わず真顔になると、ちふゆの背が緊張を孕んだのが伝わってきた。 「な、なんだよ……」  ちふゆが腕を体の間にねじ込んで、青藍の胸を押し返そうとしてくる。  青藍は、ちふゆの背に回した手にちからを込めて、離れようとするちふゆを阻止した。 「ちー……」 「ちょ、おいっ」 「あのさ」 「ち、近いっ! バカっ。離れろって!」  じたばたと暴れ出したちふゆを逃がすまいと、閉じ込めて。  青藍は、横向きだった体をごろりと転がして、体勢を変えた。  ちふゆの小柄な体躯を仰向けにし、上から圧し掛かる体勢だ。  右手で、ちふゆの両手の手首をまとめて握り込み、左手は彼の顔の横につく。青藍の体重を支える左のてのひらが、マットレスに軽く沈んだ。 「な、なんだよ……マジな顔やめろって」  ちふゆが必死に目元にちからを込めているが、怯えを孕んだ眼差しなんて、怖くもなんともない。  困り眉が可愛くて、むしろもっと困らせてやりたいような衝動を、青藍は覚えた。 「ちー、さっきの」 「な、なにっ」 「漆黒さんに囁かれて、真っ赤になってたとき」 「な、なってねぇよっクソバカっ!」 「なってたよ」  語調を強めて青藍が断言すると、ちふゆがぐっと唇を噛みしめた。  眉がますます寄せられて……ちふゆが忙しない瞬きを繰り返す。  青藍の癖のない黒髪が、視界にはらりと降りかかる。  それが邪魔で掻き上げたかったけれど、いま手を離したらちふゆが逃げてしまいそうで、青藍はゆるく首を振ることで髪を振り払った。 「ちー。もしかして、漆黒さんみたいなのが好み?」 「……はぁ?」 「俺よりも、漆黒さんがいい?」 「い、意味フメーなこと言うなよっ。ちょ、バカっ、いい加減どけって」 「ちー」 「そ、その呼び方も……っ」 「ちふゆ」  青藍は、漆黒を意識した低く甘い声で、ちふゆの名を囁いた。  ちーという呼び方を嫌がったくせに、ちふゆは、いざそう呼ばれると首筋まで真っ赤になって。  泣き出す直前のように、眉を歪めて……青藍から、ふいと顔を背けた。  漆黒のことを考えてこんなに頬を赤く染めているのだろうか。  それとも、青藍を意識しているのか……。  男娼なんて仕事をしているせいで、青藍は相手の経験値がなんとなくわかってしまう。色ごとに慣れているかどうか。快楽を求めるタイプか。それとも、こころを求めるタイプなのか。  ちふゆは間違いなく、未経験だ。  そして、割り切った付き合いなどできるタイプではない。  だから青藍は、ちふゆを抱かなかった。  俺のこと買わない? と誘っておきながら、ちふゆの無垢さに手が出せなかったのだ。  なんというか……ちふゆを見ていると、弟妹たちを思い出す。  彼らに共通するのは、不自由さだ。  弟たちは、両親に甘えたい年頃なのに、その両親はもはや天国の住人で。  借金のために青藍は家を離れ、淫花廓の世話で定期的に家政婦が入ってはいるが、家を切り盛りしているのは高校を卒業したばかりの次兄で。  幼い弟妹は兄たちの頑張りを肌で感じているのか、ワガママなどほとんど言わずに、甘えることにすら少しの遠慮を見せて、日々暮らしているのだった。  ちふゆだって、同じだ。  悪ぶって金髪なんかにして……ホームレスに向かって札束を投げ捨てるような大胆さを持っているくせに、小動物のように臆病で。  さっさと母親に電話でもして、いまどこにいるのか、自分を置いて行ったのかと聞けばいいのにそれすらもできず。  鬱憤を晴らすために父親の金を浪費している。  愛されたいと思ってるくせに、愛されているかどうかを知るのが怖くて。  試すようにほんの少しのワガママを言ってみたり。青藍が怒らないかどうかを試してみたり。  素直になれない不自由さが、そっくりな彼ら。  そんな弟妹を青藍は愛してるし……。  遊郭、なんて場所に、当たり前のように日常の風を運んで来てくれるちふゆのことも、青藍は特別に思っていた。  だからちふゆが、青藍の存在に慣れて……同じように、青藍を特別に思ってくれればいいな、と。  そのときまでは、ふつうの友達のように傍に居られればいいなと、思っていたのだけれど……。  今日、漆黒とちふゆが会話をしているのを見て、頭を殴られたような気分になった。  ここがどういう場所か、を。  思い知らされた。  そうだ。  ここは、一般の社会ではなく、遊郭だ。  青藍は、ちふゆが指名をしてくれるから、彼とこうしてベッドで並んで漫画やトランプを楽しめているだけで……。  ちふゆがもしも。  もしも、他の男娼に魅かれたら。  漆黒や、紅鳶に魅かれて、彼らを指名してしまったら。  青藍は大人しくちふゆの隣を、明け渡さなくてはならないのだった。  そのことを忘れていた自分がどうかしている。  傲慢だった、とそう自覚した。  ちふゆのことを盗られないように、他の男娼たちに仲睦まじいところをアピールしていたが、男娼たちが青藍に遠慮をしてくれたからといって、当のちふゆが、青藍以外の男娼に魅かれてしまえばなんの意味もない。  青藍がちふゆの隣に居続けたいならば。  もっと、自分に縛り付けておかなければならないのだ。   「ちふゆ。キスしていい?」  青藍は、低い声音のままで、そう問いかけた。  ちふゆの目が真ん丸に見開かれて……。  短い眉が、ぐぐっと寄せられた。  青藍はゆっくりと顔を近付けた。  彼の両手首を掴んでいた指をほどいても、ちふゆの手は胸の上から動かなかった。  ちふゆの、きめ細かなベビースキン。  その、ぽっぽと熱を持った頬を、ひと撫でして。  青藍はちふゆと、唇を合わせたのだった……。  

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