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第9話

 水曜日の夜。  いつものように、淫花廓の迎えの車に揺られて青藍のところへ向かう。  赤い欄干の橋(戻り橋と呼ばれているのだと、青藍に教えてもらった)を渡ると、淫花廓の敷地で。  そこに入るとスマホなどの通信機器が圏外になる。  だからちふゆは、最初から携帯は持って来ていない。どうせ使えないので、荷物になるだけだからだ。  そもそもちふゆには、友人、と呼べるような存在など青藍以外に居ないから、電話やメールというものをする機会がほぼない。  最後に充電したのはいつだったか思い出せないほどなので、もしかしたら家でお留守番をしている携帯電話は、とっくに充電が切れているのかもしれなかった。  車はゆうずい邸の前でゆるやかに停車した。  即座に能面を着けた男衆がちふゆのためにドアを開いてくれる。  最初はオドオドとした態度で車から降りていたちふゆだったが、三月(みつき)も経てばさすがに慣れた。  黒衣の男衆に軽く頭を下げて、ちふゆは足を踏み出し、ゆうずい邸の中へと入る。  するとすぐに青藍が、 「ちー!」  と喜色満面と言わんばかりの表情で抱きついてきた。  その様は、尻尾をブンブンと振り回す大型犬そのもので、他の男娼たちからちふゆが『飼い主』と言われているのも頷けた。  けれど、人畜無害を絵に描いたような男の笑顔も、ベッドの上では肉食獣のそれに豹変するのだけれど……。 「離れろって! バカっ、鬱陶しい!」  懐いてくる青藍の肩を押し返して、ちふゆはツンツンとした声を出してしまう。  肩を抱かれた瞬間に、ぞくりと肌が粟立ってしまったからだ。  気持ち悪いのではない。その逆だ。  昨夜ちふゆを悩ませていた体の疼きは、完全には消え去ってくれなくて。  青藍の体温を感じた瞬間に、ちふゆの欲求が強く刺激されたのだった。 「ちー、冷たい」  青藍が、尻尾を下げた犬のような哀れっぽい目で、じとりとちふゆを見てくる。  かと思えば、がらりと表情を変えて、 「ベッドの中ではミャーミャー鳴いて可愛いのに」  と、耳元で甘く囁いてきた。  ちふゆは耳をてのひらで押さえて怒鳴りつけた。 「だ、誰がミャーミャー鳴いてるんだバカっ」 「ちー。声が大きい」 「うるさいっ」 「怒られるってば。ほら、しー」  青藍が笑いながら、小さな子どもにするように、人差し指を唇の前で立てて、「しー」と繰り返した。  もしかして青藍は、ちふゆのことを彼の弟妹と一緒くたに思っているではなかろうか、とちふゆの中に疑念が芽生える。  なにかというと彼は、教育テレビの爽やかな体操のお兄さんのような笑顔で、幼児でも相手にするかのようなやさしい声を、ちふゆに聞かせてくるのだ。  それが嫌じゃないのが困る。  青藍に、こんなふうに構われて、よしよしと撫でられるのが嫌じゃない自分に……ちふゆは一番困惑するのだった。   「おい」  不意に、背後から声を掛けられた。  青藍がピンっ、と背筋を伸ばして、 「紅鳶(べにとび)さんっ」  と叫んだ。  紅鳶。  それは、青藍の憧れのひとで……ゆうずい邸の一番手の名前である。  青藍がいつも、「今日紅鳶さんがさ~」とちふゆに語ってくれるので、青藍経由でちふゆも紅鳶の情報をたくさん得ていた。  曰く、恰好いい。まずなによりも、恰好いい。  そして色気がある。  頭も良くて、機転が利く。  楼主にも一目置かれている存在で、存在感が半端ナイ。  ついでに剣道がものすごく強い。  ゆうずい邸にはトレーニングルームに畳敷きの道場が併設されているらしく、青藍はそこでよく竹刀を振っているとのことだった。だから彼の左手には竹刀ダコができている。  淫花廓(ここ)で青藍より剣道が強い男娼は、紅鳶と漆黒。  漆黒は飄々と相手を(かわ)しながら、いつの間にか一本を取るような技術的な巧さがあるらしく、青藍は五回に一回ぐらいしか勝てないのだという。  けれど紅鳶が相手では、一本すらも取れたためしがないのだと、青藍はぼやいていた。  人間としての格がもうなんかあのひとは違うんだよな~、という最上級の褒め言葉が青藍の口から飛び出すのを、ちふゆは既に幾度も耳にしている。  一瞬にして記憶の引き出しから紅鳶情報を取り出しながら、ちふゆは声の方向を振り向いた。  そこには……肩までの長髪を緩く結わえた、襦袢姿の男が無造作に立っていた。  気怠げな姿勢でただ単にそこに居るだけなのに、なるほど、圧倒されるほどのオーラがある。  これが噂の紅鳶か、とちふゆはポカンと男を見上げた。 「わ~っ、すいません、うるさかったですか?」  青藍がそう謝罪しながら、慌てたようにちふゆの肩を掴んで、ぐいと自分の背後に押し込んで来る。  ちふゆは少し、ムッとした。  確かに大きな声を出したのはちふゆだが、こんなふうに、紅鳶の目に触れさせるのも恥ずかしいほどの振る舞いはしていないはずだ。  唇を尖らせて、文句を言ってやろうとしたちふゆだが、ハタと気付いてしまう。  そう言えばちふゆは……Tシャツにジャージなんていう格好でいつもここに通っているけれど、他のひとはきれいに着飾っているではないか。  青藍がなにも言わなかったので、ちふゆはこれまで気にしたこともなかったが……もしかしてちふゆは、青藍に恥をかかせていたのだろうか。  こんなのが自分の客だとナンバーワンの男に知られるのが恥ずかしいから、青藍はちふゆを隠そうとしているのだろうか……。  ちふゆは眉を寄せて、込み上げてくる情けなさをぐっと堪えた。  そんなちふゆを余所に、紅鳶がちふゆの肩を掴んでいる青藍の手を見て、フッと唇をほころばせる。  表情一つで華やかさが増すところなど、さすがのひと言だ。 「そう警戒するな」  唇の端で笑った男が、青藍へとそう言った。  青い着物の肩を竦めた青藍が、苦笑いを漏らす。 「や~、漆黒さんが一回ちょっかいかけてきたんで。学習した上での自衛っス」 「あいつはひとが悪いからな」  ふ、と小さく吐息した紅鳶の、切れ長の瞳が青藍の肩越しにちふゆへと向けられた。 「音羽(おとわ)さま」  きれいな形の唇がゆっくりと動く。  くっきりとした発音で告げられた名が、まったく自分の名字に聞こえなくて、ちふゆはつい背後を振り向いてしまった。  けれどちふゆの後ろには他に誰も居なくて……。  もしや自分が呼ばれたのか、と遅まきながら理解したちふゆは、落ち着きのない瞬きをパチパチと繰り返す。 「ちー?」  青藍が半身を捻ってちふゆを窺い……また紅鳶に視線を戻した。 「もしかして、ちふゆになにか用事ですか?」  紅鳶とちふゆを交互に見ながら、青藍がちふゆの代わりに尋ねてくれる。  紅鳶が短く首肯した。 「音羽さまに、会いたいという方がお越しです。一緒に来てくれますか」  くれますか、という語尾は問いの形ではあったが、有無を言わせぬ迫力があり、ちふゆは反射的に頷いてしまった。  そうしてから、はて、誰が会いに来たのだろうかと首を傾げる。 「え~っ、と……じゃあ俺は蜂巣(ハチス)で待っとけばいいですか?」 「いや。おまえも音羽さまに同行しろ」 「俺も? なんだろ。叱られるんスか?」  紅鳶の言葉に、青藍は俄かに焦ったような顔をしたけれど、ちふゆは内心ホッとしていた。  淫花廓で青藍と別行動などしたことがなかったから、ひとりで来いと言われなくて良かったと安堵する。  こちらです、と紅鳶直々に先導され、ちふゆは青藍と並んで廊下を歩いた。  連れて来られたのは応接室だった。  紅鳶がノックをして、返事を待たずに扉を押し開く。    室内には、三人の姿があって……ちふゆは唖然と立ち尽くした。  ローテーブルを挟んで配されたソファに、こちら向きで座っている男が、鋭い双眸にちふゆを映して、唇から紫煙を吐き出した。  男の手には、時代劇でしか見たことがないような煙管(キセル)があって、どことなく甘いような独特の香りが立ち込めている。  枯れたススキのような色合いの着流しに懐手した男が、「来たか」と低く渋い声を発した。  その言葉に、扉に背を向ける形で座っていた二人の男女が、弾かれたように振り向いた。 「ちふゆっ! このバカ息子っ!」  怒りの形相で第一声からちふゆを叱り飛ばしたのは……ちふゆの、母親で。  ちふゆはただただ茫然と、よく日焼けをした母の顔を見つめたのだった……。    

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