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第10話

「な、いまさらなにしに来たんだよ、ババァっ!」  と、ちふゆが怒鳴った。    日焼けした頬を女のひとが引きつらせるより早く、青藍は金髪の頭を軽くはたいた。 「ちー。お母さんに向かってそんな言葉使っちゃダメ」  意識して怖い表情を作ると(これは幼い弟妹達を注意する際によくする表情だ)、ちふゆが叩かれた後頭部にてのひらを置いて、じろりと青藍を睨みつけてきた。  けれど、彼の目元も耳朶(じだ)も真っ赤にそまっていて、久々に母親に会えた喜びが隠し切れていない。そんな顔で唇を尖らせるものだから、可愛くてしょうがなかった。 「お、おまえにはカンケーねぇだろ」  ちっ、と舌打ちを漏らしたちふゆの、その語尾が弱弱しく消えた。  たぶん、青藍の両親が他界していることを思い出したのだろう。  もごもごと口ごもったちふゆに、青藍は思わず笑みを漏らしながら、ちふゆの肩を押して母親と対峙させた。 「なにしてるはこっちのセリフよ、このバカ息子!」  女性がぴしゃりとちふゆを叱りつけた。  その顔立ちはあまりちふゆには似ていない。とすると、ちふゆは父親似なのか。  青藍は女性の隣に立つ年配の男性をチラと窺った。  仕立ての良さそうなスーツを身に纏っている男は、ちふゆの母よりもかなり年上に見えた。  こっちもちふゆに全然似てないな、と思ってから、そういえば母の再婚相手と上手くいっていない、とちふゆが語っていたことを思い出す。  血の繋がりがないのだから、似てなくて当然だった。  ちふゆにしてみればぽっと出の男に大好きな母親を奪われた感覚なのだろうな、と青藍はちふゆの横顔を眺めながら、親子の対面を見守った。 「あんたがお父さんのお金を使いこんでるって聞いて驚いたわよ! なにしてんの!」 「うっせぇ。好きに使えっつったのはそこの男だろっ」 「お父さんに向かってその口の利き方はなにっ!」 「ま、まぁまぁ。千秋さん、落ち着いて。僕なら構わないから」  母子の喧嘩に、男がオロオロと割り込んだ。  その彼をちふゆと女性……千秋が同時に睨み、まったく同時に声を荒げた。 「あなたがそんなだからちふゆがっ」 「テメェに庇われたくなんてねぇんだよっ」  怒鳴るタイミングがあまりにピッタリで、青藍はこらえきれずにふきだしてしまう。  場違いに笑い声を上げた青藍を、ちふゆと千秋がぎょっとしたように振り向いた。  なるほど、この母子、顔は似てないけれど仕草はそっくりだ。 「な、なにがおかしいんだよ」 「ははっ。いや、ちーのその頑張って悪態ついてます、って感じ、久しぶりに見たから。それに、ちーがお母さんとそっくりで……あ~ダメだ、ツボった。苦しい」  腹を抱えて背を丸めた青藍は、笑いの発作が治まるまでそのまましばらく肩を揺らしていたが、ようやく落ち着くと、改めて音羽家の面々を見た。 「笑ってしまってすみませんでした。え~っと、俺、青藍って言います。ちふゆがここに通う原因を作ったのは俺です。ご両親の許可もとらずに、申し訳ありませんでした」  青藍が頭を下げると、ちふゆが焦ったように腕を掴んできた。 「お、おまえが謝ることじゃないって」 「いいから。ほら、ちーもごめんなさいする」  青藍はちふゆの小さな頭に手を置くと、強引にそれを下げさせた。  ちふゆがジタバタと暴れたけれど、ちからで青藍に適うはずもない。渋々といった様子で青藍に従った彼の様子を、母親がポカンと見ていた。  青藍は顔を上げると、その母……千秋へと真剣な眼差しを向ける。 「ところで、ご両親がちふゆを棄てたっていうのは本当ですか?」 「ちょっ、バカっ」  ちふゆが慌てたように青藍の口を塞ごうとしてきた。  その細い体を強引に腕の中に閉じ込めて、青藍は千秋の返事を視線で促した。  千秋が化粧っ気のない目を丸くして、「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げる。 「な、なんの話をしてるの?」 「ちふゆが、朝起きたらお二人が居なくなっていて、邪魔な自分を置いて二人だけでどこかへ行ったのではないか、と泣いてたので」 「なっ、泣いてねぇよクソバカっ」 「ちー。ちょっと黙ってて」 「オレの話だろっ。なんでオレが黙らねぇといけな、」 「ちふゆ」  青藍が低い声で名前を呼ぶと、ちふゆがモゴモゴと黙り込んだ。  青藍はちふゆの体をバックハグの形で拘束したまま、千秋へと問いかけた。 「どうなんですか?」  千秋は唖然としたように口を開けていたが、やがて眉を吊り上げて、「ちふゆっ!」と叱る声音で息子の名を呼んだ。 「あんた、私の話聞いてなかったの? 海外ボランティアに行くって何度も話したじゃないのっ。中期の医療ボランティアだから、行ったら三ヶ月は帰って来られないけど大丈夫かって何度も何度も聞いたでしょ?」 「…………」 「あんたその度に、うっせぇわかってる、とか言ってたじゃない。まさか適当に返事してたんじゃないでしょうね?」  千秋が息子に詰め寄ろうとするのを、まぁまぁ、と男……音羽氏が宥める。  その男を指さして、ちふゆが怒鳴った。 「そっ、その男はっ? そいつはボランティアと関係ねぇだろっ」  千秋と音羽氏が同時に顔を見合わせ、千秋は頭を抱えて、音羽氏が苦笑を浮べた。 「僕は海外出張で……数か月は戻らないと、確かきみにも、話したと思うけれど……」 「直春(なおはる)さんの長期出張があるから、だから私もその期間ボランティアに出ることにしたって……あんた、ほんとに全然お母さんたちの話聞いてなかったの?」  ちふゆの困り眉が、ぐっと寄せられて。  ひどく情けない表情の彼が、青藍を振り仰いできた。  青藍は、音羽氏の方へビシっと向けられていたちふゆの指を握り込み、 「ちー。ひとを指ささない」  と、注意をしたあと。  彼のひよこのような髪を、よしよしと撫でて。 「良かったね、ちー」  青藍は、ちふゆへとそう囁いた。  勘違いで、良かったね、と。  ちふゆの顔が、くしゃりと歪んだ。  泣くのを堪えるように、唇を噛んで。  肩を小さく震わせるちふゆが可愛くて。  青藍は腕の中の細い体を、やわらかく抱きしめた。  ちふゆに言ったら絶対に怒るだろうから言わないけれど、青藍はたぶん、そんなオチではないかと最初からわかっていた。  だって、誰が棄てられるのだろうかと、思う。    こんなに純粋で可愛い生き物を、誰が棄てられるのだろうか。  ふと見れば、ちふゆの両親も苦笑いをしていた。  まったくうちの子は……と言わんばかりの表情だ。    音羽氏だって、千秋と同じような目をしているのだから、たぶん彼もちゃんとちふゆのことを可愛いと思ってくれているのだな、と青藍は感じた。 「誤解がとけたところで、本題に入ろうじゃねぇか」  不意に、低く深みのある声が割って入って来た。  楼主だった。  それまで黙って親子のやり取りを見ていた男が、カツン、と煙管(キセル)を灰皿にぶつけて、口から紫煙を吐き出している。  楼主は壁際に控えていた紅鳶(べにとび)へと、ぞんざいな仕草で顎をしゃくった。  紅鳶が軽く眉を上げて、 「音羽さま」  と、面々をまとめてそう呼んだ。 「ご存知の通り、淫花廓(ここ)は高級遊郭です。二十歳そこそこの子ども……音羽ちふゆさまが頻繁に通われるようになり、さすがに捨て置くことができずに、保護者の方のご意向を伺おうと、調査をさせてもらいました。勝手な真似をして、申し訳ありません」  紅鳶が、流れるような仕草でちふゆへと頭を下げた。  そして彼は秀麗な顔を上げると、言葉を繋いだ。 「音羽直春さまは海外出張中、千秋さまはアフリカ方面へ医療ボランティアに遠征中であったため、連絡をつけることが困難でしたが、ようやくちふゆさまのことを報告することができました」  紅鳶が艶のある声で、「ちふゆさま」と呼んだ。  青藍の腕の中の体が、緊張に少し強張った。 「端的に申し上げますが、あなたのご両親は、あなたがここへ通うことを反対されています」 「はぁ?」  ちふゆが言葉の意味を捉え損ねたように、語尾を跳ね上げた。  「あなたは、お父さまである直春さまのお金を使い、そこの男娼を買っていました」  そこの男娼、と青藍のことを一瞥して、紅鳶は淡々とした声音で続けた。 「直春さまは、千秋さまの意向を受けて、もうお金をあなたに渡すことはできない、と仰っています。つまり、あなたはもう淫花廓(ここ)へは通えない。お客さまではない、という訳です」  ちふゆが、声もなく瞠目する。  突然の事態に、青藍も無意識に彼と同じ表情をしていた。   ちふゆが。  淫花廓へ通えなくなる。 「大体、ガキが気軽に通えるような、安っぽいトコじゃねぇんだよ、淫花廓(うち)は。わかったらパパとママと一緒に帰んな、坊主」  楼主が他人事のような顔でそう言って、片頬で薄く笑った。    ちふゆの指が。  縋るように、青藍の着物を掴んでいて……。     その手が彼の動揺を如実に表して、小刻みな震えを見せていた……。

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