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いちごミルクの印
誰が言い始めたのだろうか。高校二年の伊豆原真人(いずはらまさと)は、気付いた時には周囲から王子と呼ばれていた。
容姿が整っていて、勉強が出来て、運動が出来れば、それで良いのだろうか。望んだわけではないのに、どこに行っても付いてくる人の視線。彼は、そんな日常に嫌気がさしていた。
「王子、バスケ頑張ってね」
「ありがとう」
一日の授業が全て終わり、教室を出たところで伊豆原は別のクラスの女子に捕まった。それが二人、三人と増えて行く。
女子も男子も先生も、皆、どうして自分に媚を売ろうとするのか。何か得することでもあるのだろうか。伊豆原が、そう思った時だった。
「ラゼフの手下よ!我が力で去りたまえ!」
突然、廊下の突き当たりで一人の男子が、壁に向かって大声を上げた。
「また、安達、何も無いところに向かって変なこと言ってるよ」
「中二病拗らせてるらしいじゃん?」
「存在するはずのないオカルト部って、ほんと?」
そんな声が至る所から聞こえてきたが、安達は気にすることなく、伊豆原の方に向かって廊下を歩いてくる。すれ違い様に伊豆原は安達を見た。
医療用の白い眼帯で隠した右目、半袖のシャツから覗く右腕の白い包帯、その腕に持つ小豆色の数珠。その姿は、確かに普通の人間から見ると異様だった。
だが、伊豆原には違った。今までは皆と同じ様に、異様な人間だと思って伊豆原も安達を避けていた。だが、今日の伊豆原には彼が一人だけ特別に見えた。誰にも染まらない、自分を持った安達が輝いて見えた。
「ちょっとごめん」
「え、王子?どこ行くの?」
暫く、安達の後ろ姿を見ていたが、気付けば廊下の角に消えた彼の後を追っていた。取り巻きの女子なんて放ったらかしで、バスケ部なんて放ったらかしで。
身長一メートル八十近い伊豆原からは、約十センチの差がある安達のことは直ぐに見つけられるはずだった。皆より、頭一個分ほど視界が上に出ているからだ。
だが、下校する者、部活に向かう者、それらに混ざり安達は伊豆原の視界から上手く逃げた。否、安達本人は逃げたと思っていないだろうが、伊豆原はそう思っていた。
伊豆原は何故か、安達のことを諦め切れなかった。今日、話がしたい、もう一度会いたい、もう下校してしまっただろうか、と思いながら三階の渡り廊下に差し掛かり、彼は自販機の隣のベンチに座る安達を見つけた。
「安達」
次に言う言葉など何も考えていない頭で伊豆原は安達に声を掛けた。安達は手に隣の自販機で買ったいちごミルクの紙パックを持ち、何やらぶつぶつと唱えて黒い油性ペンで何かを描いている。
「俺の名前はハル・ウィッシュ・ノイズだ。誰だ?お前」
「じゃあ、ハル。俺のこと、知らないの?」
何を描いているのか、と気になった伊豆原は隣に腰を下ろす。何やらパックに星を重ねたような印を描いていた。チラッと安達の視線が伊豆原の方に向き、また印に戻る。
「知らない、誰?」
「伊豆原真人。ハル、三組でしょ?俺、隣のクラス、四組なんだけど」
「へぇ」
誰でも何でも、どうでも良いみたいな返事が返ってきた。何故、自分はこの人間に惹かれてしまったのか。伊豆原は、その答えに気付いてしまった。これだ、この自分以外、どうでも良いという安達の精神だ。
「その印、なに?」
まだ話していたい。そう思った伊豆原は話題をいちごミルクに移した。
「俺は一日一回、これを飲まないと死んでしまうんだよ」
「いちごミルクを?」
「そう、この印の入ったいちごミルクをな」
猫っ毛の癖のある黒髪がフワリと揺れ、いちごミルクを伊豆原の顔面に突き付けてきた。どきりとしたのは伊豆原の方だったが、視線が合致し、先に目を逸らしたのは安達の方だった。
そんな時、一人の人間が二人に近付いてきた。
「安達!こんな所に居たか!お前、また、そんな眼帯と包帯して……、来週はプールの授業サボらず参加しろよ?」
体育教師の一人、川畑(かわばた)だった。
「階段から落ちたんだよ。あと、結膜炎だから無理」
「安達!それと伊豆原、お前、バスケ部はどうした?」
「俺の名前はハル──」
「今から行きます。すみません、失礼します」
伊豆原は安達の手を引いて、その場から逃げ出した。爽やかな笑みを浮かべ、静かに答えておけば、伊豆原に対して教師は皆何も言わなかった。今だって、そうだった。
「おい」
「ああ、ごめん、手」
靴箱の並んだ玄関まで来て、やっと伊豆原は安達の手を離した。
「お前……」
周囲をチラチラと見てから、安達がジッと伊豆原の顔を見つめる。その表情は眉間に皺が寄り、怒っているようにも見えた。
「え、そんなに怒ってる?」
「違う。まあ、いいか……」
「何?」
「なんでもない。じゃあな」
靴を外履きに履き替え、安達は帰ろうとした。
「待ってよ、ハル」
「なに?」
「好きなんだけど、付き合ってくれないか?」
「……なにに?」
これを逃したら、もう安達と話す機会はないかもしれない、そう思ったら、伊豆原は衝動的に告白の言葉を口にしてしまっていた。自分は何を言っているのだろうか、と伊豆原は思ったが、安達も理解していなかった。
「ハルのことが好きなんだけど、俺と付き合ってくれないか?」
下校の時間が落ち着き、人の居なくなった下駄箱置き場で伊豆原は慌てて言い直した。
「お前、男が好きなの?」
安達は怪訝そうな顔より、不思議そうな顔をした。
「いや、分からない。ただ、なんかハルに惹かれてるっていうか……、ごめん、俺にもよく分からなくて」
どちらからも好かれるし、どちらだから、とかいう考えは伊豆原には無かった。
「ふーん。友達から、とかじゃないの?」
「友達って、手繋げなくない?」
「付き合ったら繋げんの?繋げたら満足?付き合って、何すんの?」
伊豆原は安達の質問に心の中で頭を抱えた。この気持ちは一体、何なのか。恋心なのか、本物なのか。結局、伊豆原は答えられなかった。
「まあ、いいや。付き合ってやるよ」
「本当に?」
連絡先を教えてくれ、と珍しくはしゃいだように伊豆原は言った。ただ、「直ぐに間違いだって気付くと思うけど……」と、ボソリと呟いた安達の言葉は伊豆原に届いて居なかった。
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