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 木崎仁介(きさきじんすけ)は力いっぱい自分の頬を、ばしばしと平手打ちにした。痛い。夢ではない。そこで幽霊だと思わなかったのは、ひとえに現実的な性格に由来する。  午前三時。腹の上に、見知らぬ男が馬乗りになっていた。  木崎と男はたっぷり一分ほど見つめあった。木崎の目は、彼の動揺とは正反対に男のことを観察していた。艶のある黒髪。ところどころ、白髪がまじっている。若干離れた目。骨格際立つ顔立ち。そんなにハンサムではないが、なぜかあらがえない魅力がある。魂が吸い寄せられてしまうような。  豆電球の下で、男の目がきらきら輝いている。がっしりした体つきで、糊のきいた白いワイシャツにベストを身につけ、黒いタイを結び、下はスーツのズボンとおぼしい。なかなか紳士的な格好だ。さまになっている。  ……と、いうことをひと目で見てとった木崎は、「さて」と自分に言い聞かせた。  彼が相手を酔っぱらいだとか強盗だとかは考えず、夢かあるいは自分が発狂したのかと考えたのは、男の頭についているモノが原因だった。  男は頭に山羊の角を生やしていたのだ。映画で見た、中世の悪魔の絵についているアレだ。ちなみに、背後からはなにやらうねうね動く黒く長いものが伸びていて、空中で揺れている。どうやら尻尾らしい。  ……やっぱり夢か? でも、そのわりには重い。それとも、格好は妙だけど強盗。  だったら殴るとか刺すとか猿轡をするとか、しそうなものだけど。だが、男はじっと木崎を見つめているだけだ。その目がぴかぴかと輝いている。  男はふいに笑った。妙に人懐っこい笑顔だ。 「木崎、仁介君?」  男は低く落ち着いた、「いい声」で尋ねた。木崎はどきっとする。本名を知られることもある仕事をしているとはいえ、見知らぬ男に呼ばれて気持ちいいものではない。男をじろりと睨みつけ、「なんだ?」と高圧的に出てみた。ふしぎと、今になっても恐怖は感じなかった。 「初めまして」男は呑気に言った。 「ぼくはユリウス。よろしくね」 「え……はあ。誰ですか?」 「ユリウス」 「いやそうじゃなく……何者ですか? というか、なんでうちにいておれの腹の上に乗ってるんですか?」  一応、不審者とはいえ年上なので敬語である。ユリウスと名乗った男は、見た目だいたい四十代半ばといったかんじだった。木崎は二十六歳だ。上下関係が厳しい運動部(弓道部)で青春時代を過ごした木崎は、年上となると条件反射で敬語になる。ユリウスはにこにこしていた。 「仁介君は真面目で礼儀正しいねえ」  いきなり下の名前を君づけ。それに、木崎はちょっとイラっとする。相変わらず恐怖心は湧いてこない。癪だったので、男を振り落としてやろうと体をよじるが、男はびくともしなかった。石のように跨り、木崎を見下ろしている。 「あの、仁介君って呼んでいい?」 「やめてくださいなれなれしい」 「ごめん。でも、親しみもってることをアピールしたいから」 「親しみって、一方的に持たれるだけだとすごくうっとうしいんですよ?」 「たしかに」  そう言って、ユリウスはずいと体を前に出した。木崎はびっくりして、喉まで掛かっている布団を上に引っぱった。ユリウスの目がきらりと光る。穏やかで紳士的な、いわゆる「いい人」の顔のまま、こう言った。 「仁介君って、すごくハンサムだよね」 「え?」  木崎は目をしばたいた。多少は自負していることではあるが、夜中に腹の上に馬乗りになっている見知らぬ男に言われると、その言葉は別の意味を帯びてくる。 「すごくすごくハンサム。男らしい眉毛に爽やかな短い髪、凛々しい。顔も彫りが深くて端正で、すごくいい男だね」 「待って……待ってくれ。え、あんたおれを襲おうとしてる? 性的な意味で」 「淫魔だからね」男はさらっと言った。 「きみの精液をもらいに来たよ」  木崎とユリウスは見つめあった。男の顔に浮かんでいるのは、優しく落ち着いた微笑だ。腹立たしいほど紳士的で、淫靡な色は微塵もない。 「……淫魔って、男を襲って精液を奪う悪魔? でもあなた、男じゃないですか」 「世界にはゲイも、レズビアンもいるんだよ。きみの精液が欲しいっていう男の淫魔がいてもいいじゃないか」 「じょ、冗談じゃないですよ! おれ、男をそういう目で見たことないし! やっぱ、夢!? なのかこれは?」 「夢じゃないよ」  ユリウスはそう言って、木崎の頭をがっしりした男らしい手でぽんぽんとたたいた。すると、木崎の固くなっていた体がみるみるうちに緩む。気持ちいい、と思う。そう思ったことに気がついても、木崎の顔は緩んだままだ。  ユリウスの手が、適度な重みでなでなでと頭を撫でる。 「きみは初めてなんだろう? 優しくするからね」  とろんとしていた木崎の顔が引き締まった。ばしっとユリウスの手を払い、きつい目で睨む。 「その気はないって、言ってるでしょう? それとも強姦する気ですか?」 「しないよ、そんなこと。嫌がる相手をむりやりねじ伏せるのは趣味じゃないんだ」  そう言って腹から降りたので、木崎はほっとした。ユリウスが頭のそばにやってくる。木崎は不機嫌に言った。 「邪魔しないでください。出ていってくれ。おれ、明日早いんです」 「仕事?」 「いいえ。……デートで」  そう言った瞬間、胸につきんと痛みが走った。しかし、無視する。その痛みを受け入れてしまったら、この男につけこまれる、と思ったのだ。「いいねえ」とユリウスは野次馬のようだ。 「彼女?」 「当然でしょう」 「うまくいくことを祈っているよ。明日、また来る」  そう言って、男は跡形もなく消えた。  木崎は目をごしごし擦り、頬を平手打ちにする。夢を見ていたのか。正気に戻ったのか。わからなかった。ただあたりになんともいえない、いい匂いが漂っていた。

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