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翌日の日曜日、夜十一時すぎ。
木崎は暗い気分でベッドに入り、暗い気分で眠りについた。眠る前に何度もスマートフォンをチェックしたけれど、恋人の里中春奈からはなんの連絡もない。
目を閉じて、眠りにつく。そのときには、昨夜目の前に現れた謎の男のことはみじんも思いださなかった。
午前三時。また、腹の上にあの男が乗っていた。
「こんばんは。デートはどうだった?」
「……してませんよ」
木崎は思わず正直に吐露していた。そして、そんな素直な自分を殴りたくなった。ユリウスは身を乗りだす。
「振られたのか?」
「……そんな気分じゃなくなった、って言われて。急に断られました」
言いながら、木崎は腹が立ったり、悲しくなったりする気持ちをなんとか抑えつけようとしていた。根が良心的な彼は、見知らぬ男に弱みを見せたことに情けなくなるよりも、彼女の悪口を言ってしまった気がして、自分を責めてしまっていた。ユリウスの手が、またぽんぽんと木崎の頭を叩く。
木崎の体がぐにゃっとなった。顔が緩む。
「残念だったね、仁介君。彼女はきっと生理だったんだよ」
「今にはじまったことじゃない。というか、前からその兆候はあったんです。……愛想尽かされかけてて」
「うまくいってないのか?」
「はい」
木崎は素直にうなずいた。なでなでなで、と男の手が頭を撫でる。
「春奈、別に好きな男ができたのかな。もしくは、おれが忙しくてあまり会えないから、飽きられたのかも」
「きみは仕事、なにしてるんだ?」
「検察事務官です」
「どうりで目つきが鋭いはずだ。正義感あるもんな。恋人は、きみの仕事に理解がないのか?」
「そういうわけじゃないんですけど」
そう言う木崎の目は、いつのまにかちょっとうるんでいる。彼はがばっと跳ね起きた。ユリウスがどさっと床に尻もちをつく。
「春奈は、おれが公務員だからその点いいわねって言ってくれますが……でも、なんていうか、ほんとにおれの仕事のことわかってくれてるのかなってかんじで。……ああ、いや、取り消します。わかろうとしてくれてるんだと思う。でも、なんていうかこのところはお互いしっくりこなくて……」
「焦っちゃだめだよ。こっちからあれこれ相手の考えを推測するんじゃなくて、確かめないと」
「そ、そうですよね」
自称淫魔のわけのわからない男が真面目にアドバイスしてくることに、木崎はなんの疑問も持たなかった。ユリウスがベッドのふちに腰を下ろす。
「でも、人のことなんて、完璧にはわからないものだから。自分のことだって、そうだし。少しずつ、自分の気持ちと相手の気持ちを確かめていったらいいんじゃないかな」
「……そうですね。半年前は、ちらっと結婚の話も出てたけど……もう、春奈はそういう気分じゃないのかな……」
「結婚を急いでいるのか?」
「そういうわけじゃありません。お互い納得してからでいいと思う。でも、一度結婚してもいいって思ってたのに、気が変わってたら、やっぱへこむ……」
そう言ってうつむく木崎の頭を、ユリウスはよしよしと撫でる。木崎の表情が緩んだ。
「また、メールしたり電話したり、デートに誘ってみたらいいんじゃないかな」
なでなでなで。
「……そうですね。そうします」
「うん、そうしたらいいよ」
なでなでなで。
「なんだろう。なんか……落ち着く」
「よかった」
にこっと笑って、ユリウスは木崎の頭を軽くぽんぽんと叩いた。そのとき、木崎は思った。たいしてハンサムでもないと思っていた顔が、なぜかとてもかっこよく見える。
「少しは役に立った?」
「はい。楽になりました。ありがとうございます」
「じゃあ、お礼をお願いしてもいいか?」
「お礼?」
「キスしていい?」
木崎の顔が引き攣る。キスって、と口を開いた彼の頭を、ユリウスはまたぽんぽんと叩いた。木崎の目がうるむ。
「……キスくらいなら、いいですけど」
「ありがとう。じゃあ、目を閉じて」
木崎が目を閉じると、唇に柔らかい感触が当たった。
あ。彼の脳裏に、春奈の顔がよぎる。その顔は、途端に広がったなんだかとてもいい匂いに押しやられて、見えなくなった。
キスは優しいものだった。なんと言えばいいのか、大好きな毛布にくるまれるような感覚。安心感。木崎はうっとりして、身を任せる。
そのとき、かすかに開いた口の中に舌がすべりこんできた。
「んむ!? ん……」
あたたかい舌がゆっくりすべりこんできて、木崎の舌を啄む。柔らかく甘く、優しく。慰撫するように木崎の舌をなぞり、そっと吸いつく。
その包みこむようなキスに、木崎の顔はさらに緩む。生まれて初めてキスしたときのように鼓動が高鳴って、しかし緊張はなく、心も肉体もユリウスのほうに吸い寄せられた。木崎の顎に逞しい手が触れる。ユリウスは舌を深く絡めた。
「んく……ん……っ」
木崎の口から息が漏れる。舌はねっとりと絡みつき、彼の呼吸を奪った。すべて自分のものだと言うように、木崎の口の中を支配した。
キスが終わってユリウスが口を離すと、木崎は半ば目を閉じてとろんとしていた。ふだんは凛々しい顔が弛緩している。ユリウスは彼の顎に垂れた唾液をぬぐってやると、微笑んだ。
「ご馳走さま。明日、また来る」
ユリウスは姿を消した。あとには、呆然とした木崎だけがとり残された。
正気に戻るのに三十分はかかった。
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