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prelude

微かにもれ聴こえるピアノの音。 それは優雅に…、そして時折戸惑いがちに…さまざまな音を紡いでいく。 ここ、私立奏華(そうか)学院は、中高一貫教育で知られる学校の中でも珍しく全寮制の男子校という事もあって、近年特に注目を浴びている学院だ。 そして、それとは別に注目を浴びている最大の要因は、普通科以外にあるもう一つの科、音楽科の存在。 学院自体の考え方も、どちらかと言うと普通科より音楽科を重視した行事の進め方をしている為、はっきり言って普通科の影は薄い。 ベージュの鉄筋コンクリートで造られた近代的な外観の普通科校舎とは一線を画し、中庭を挟んで反対側に立っている音楽科の校舎は、緑の蔦が這う赤レンガの建物に濃緑の瓦で造られた三角屋根を乗せている、年代味を帯びた荘厳な建物。 この学院で生活する教師や生徒の間では、普通科の校舎は“一般棟”、音楽科の校舎は“音楽棟”と呼ばれている。 同じ敷地内にあっても、漂う空気が明らかに違う両者。 実際に、音楽科と普通科の生徒達の間にも微妙な溝が出来ているのが現状だった。 §・・§・・§・・§ 爽やかな風が緑の薫りを運ぶ五月の午後。 音楽棟内部にあるいくつもの個人練習室の中で、ひときわ目立っている部屋があった。 その部屋自体に特に目立つ要素があるわけではない。他の個人練習室と全く変わりない部屋だ。 それなのに何故目立っているかというと、そこから漏れ聞こえる音を聞き取ろうと、扉を中心とした廊下に鈴なりに生徒が群がっているからだった。 まるで甘い砂糖に引き寄せられる蟻のように、砂漠のオアシスにある水を求める旅人のように。 どの生徒も皆、防音となっている練習室から微かに漏れ聞こえてくる音を、一音たりとも聞き漏らすまいと息を殺して耳をそばだてている。 生徒達の顔に浮かぶのは、尊敬と憧れの眼差し、そして恋する者特有の甘い表情。 一部、嫉妬をちらつかせる苛立たしげな眼差しを持つ者もいるが、それすらもすぐに甘い表情へ変わる。 そんなお花畑的な空気溢れる廊下とは裏腹に、室内にいる人物達は厳しい表情を浮かべていた。 と言っても、厳しい表情を浮かべているのは一人だけで、もう一人の人物はチェシャ猫のようなニヤニヤ笑いを浮かべている。 ニヤニヤ笑いを浮かべているのは、ピアノ科の首席であり音楽科の生徒会長でもある、高等部二年の木崎皇志(きざきこうし)。 本人は生粋の日本人にも関わらず、その顔は幾分か彫りが深く、ハーフに間違えられるような端正な顔立ち。 それだけでもじゅうぶん人目を引くと言うのに、182㎝の長身と、手入れを怠っていない事がわかるサラサラのプラチナブロンド、更には髪の隙間からチラリと見えるピジョンブラッドのピアスが、もはや間違えようもなく木崎皇志という人間を強烈にアピールしていた。 そして厳しい表情を浮かべているのは、ピアノ科で4番目の実力を持つ音楽科高等部一年の湊響也(みなときょうや)。 木崎とは対照的に、漆を塗ったように艶やかな漆黒ストレートの髪は純和風の雰囲気を醸し出し、173㎝という極々平均的な身長と細身の体型から、見る相手にどことなく静謐な印象を抱かせる。 ただし、その性格は静謐さとは程遠いものだったが…。 「木崎さん。俺にはこれ以上の解釈は出来ないんですけど」 「甘いんだよお前は。この部分をよく考えろ。そんな暗い解釈の仕方じゃ情熱的な恋もすぐに冷めるだろうが」 「恋の解釈は人それぞれです。俺にはこの題材が明るいモノだとはとても思えない」 「…ったく…、頑固だなーお前は…」 溜息を吐く木崎に、どうせ頑固者ですよ、と肩を竦めてみせた。 そもそも、ナンパ師の異名を持つ木崎さんと堅物だと評判らしい俺とでは、恋愛に関する曲の解釈は全くの正反対になるだろう。 いくら話し合っても平行線のままだ。 これ以上話しても俺が意見を変えないだろうと諦めたらしく、ピアノに向かった木崎さんは鍵盤に指を乗せながら挑戦的な言葉を言い放ってきた。 「今から弾く音をよく聴けよ。…俺の意見が正しいって事を思い知らせてやる」 そう言って弾き始めた木崎さんのピアノは、最初の一音から全てが衝撃的で…。 絶対に自分の解釈の方が合っていると信じていた俺の考えが、真っ向から覆された。 …この曲は、こんなに情熱的で恋の楽しさを謳うモノだったのか…。 室内に溢れかえる音が、次々と心に突き刺さってくる。 この人のピアノは、何気なく聴く音じゃない。否が応でも聴かせられる…、そういうピアノだ。

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