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夜。
どうやら今日は木崎さんの方が早かったらしい。部屋に明かりが点いているのが見える。
いつもだったら、夕食の準備をしてくれているだろう木崎さんの部屋に遠慮なく入っていくのに、昨日の今日でどうしたらいいかわからない。
エリアスのおかげで気持ちが落ち着いて冷静に考えると、昨日の自分の態度はちょっと酷かったと気付く。
いくら嫉妬したとはいえ、まともに話も聞かぬまま追い返してしまった。
こちらの女性は、日本とは違う感じで肉食系だ。気に入ったらアプローチするのは当たり前で、だから彼女が木崎さんの腕に抱き付いてしまったのも仕方がないのだろう。
講師という事を考えれば、無下に振り払う事も出来なかったのかもしれない。
もしくは木崎さんの事だから、面倒くさくてどうでもよくてそのままにした可能性もある。
“嫉妬するからやめてほしい”
素直にそう言えばよかったんだ…。それなのに…。
木崎さんの部屋の前に立ってドアも開けられず欝々と考え込んでいると、いきなり目の前のドアが開いた。
え?と驚く間もなく、腕を掴まれて部屋へ引きずり込まれる。
「木崎さ…ッ…」
そのまま強引にリビングの奥にあるベッドルームに連れ込まれる。
急な展開に何がなんだかわからないまま、足元を払われてベッドに突き倒された。
「…ぅッ」
倒れた一瞬閉じてしまった目を開けて慌てて体を起こそうとしたけれど、それよりも早く木崎さんが圧し掛かってくる。
両手首を掴まれてベッドに押し付けられ、真上から見下ろしてくる冷たい瞳に抵抗の意志をねじ伏せられた。
「な…んで…、木崎さん…」
甘さの欠片も感じられない眼差しに息が詰まる。
怒りとか苛立ちとか…、今の木崎さんから感じられるのはそれだけだ。
昨日の俺の態度があまりに酷かったから?
今日の朝、勝手に一人で先に行ってしまったから?
もしかして…、あの美人講師の方が…。
「ンっ…!?」
思考をグルグル巡らせていた矢先、噛み付くような荒々しい口付けに襲われて目を見開いた。
手首は押さえつけられたまま、隙間も出来ないほど強い力で唇を貪られる感覚に、本能が逃げようとしてしまう。
足をばたつかせ、木崎さんの体の下から逃げようとすると、なおさら重く体重をかけて押さえ込んでくる。
口腔内に入り込んだ舌が傍若無人に這い回り、無理やり舌を絡めとられる。
溢れた唾液が口端からこぼれ落ちても、どうすることも出来ない。
「…っ…ぅ…ッん…!」
苦しい。苦しくて苦しくて、泣きたくなる。
呼吸が苦しいのか胸が苦しいのか…。何かを取り込みたくて、何かを吐き出したくなる。
途端にぶわりと目元が熱くなり、とめどなく涙が溢れだした。
「ふ…ッぅ…」
塞がれた唇の隙間から嗚咽が漏れる。その瞬間、ハッと息を飲むような気配と共に、木崎さんが身を起こした。
「……響…也…?」
茫然としたように俺を見下ろす木崎さんの瞳には、さっきまでの冷たさはなく、戸惑いと後悔と苦しさだけが映し出されている。
ようやく俺を見てくれた気がして、余計に涙が止まらなくなる。
ボロボロとこぼれ落ちるそれを、木崎さんの暖かい手が拭ってくれる。その手が微かに震えたかと思えば頬から離れ、そしてギュッと握りしめられたのが見えた。
木崎さんは眉を寄せ、一度短く嘆息した。
「…悪い…」
苦々しい声でそう言って離れていこうとする木崎さんの腕を、咄嗟に掴んで引き留める。今離れたらダメだと思ったから。
「待ってくださいっ」
「……」
「……昨日、いきなりあんな事言って、すみませんでした。…それで、あの…、しっかり話したい…です」
暫く黙っていた木崎さんは、「わかった」そう言って体を起こした。
ベッドの縁に座る木崎さんの横に、起き上がった俺も腰を落ち着ける。
「…俺、こっちに来てから木崎さんが女の人にモテるのを目の当たりにして、たぶんちょっと焦ってたんだと思います。だから、木崎さんがあんな美人な講師に抱き付かれて好きにさせていたのを見て、……思いっきり嫉妬しました…。すみません、昨日は話も聞かずに本当に態度悪かったですよね」
もし呆れた目で見られたらどうしよう…なんて思うと、木崎さんと目を合わせていられなくて項垂れる。
そして落ちる沈黙。
やっぱりうんざりさせてしまったのだろうか。そんな風に思ったとき。
木崎さんが、溜息を吐くと同時に自分の髪の毛をぐしゃりと乱雑にかき乱したのがわかった。
「いや、あれは俺が悪かった。ジョアンナの距離の近さは最初からなんだよ。だからいちいち反応すんのが面倒臭くなって勝手にさせてた。お前からしたら面白くないよな」
無言で頭をブンブンと左右に振った。普通に聞けば、嫉妬する程の事じゃない。
それなのに俺は…。
情けなくて顔を上げられないでいると、どこか躊躇うような様子の木崎さんが、言いづらそうにぼそっと呟いた。
「…今日の昼、お前…街の方に出てただろ」
「…え?」
思わぬ言葉に、咄嗟に顔を上げて木崎さんを見た。
物凄く面白くなさそうでいて、そしてどこか居心地悪そうな様子に、目を瞬かせる。
そして気付く。
あまり懐くなと言われていたエリアスと二人でご飯を食べに行ったところを、木崎さんが見たのだと…。
「あれはっ、朝から俺が落ち込んでたのを見て、エリアスが気分転換に外に連れ出してくれただけで、深い意味はないです!」
「……」
慌てる俺を見た木崎さんが、突然フッと笑った。
「昨日の喧嘩の翌日にそれを見て、……頭のネジが吹き飛んだ。お前が浮気するとは思ってねぇけど、ムカつくし苛つくし、…で、お前を抱き潰してやろうと思った。……ほんと悪かった」
木崎さんがいきなりこんな事をした理由がわかって、なんだかホッとした自分がいる。
嫌われたわけじゃないんだ…って、嫉妬だったんだ…って。木崎さんの気持ちが離れてしまった訳じゃない事がわかって、安心した。
さっき泣いてしまった目元を手で擦って涙の名残を拭っていると、その腕を優しく掴まれた。少しだけ引き寄せられて近づいた木崎さんが、表情を緩ませて俺の目を覗き込む。
「響也」
「はい」
「誤解が起きないように、ルールを決めるぞ」
「ルール?」
「彼方 みたいな俺達が信頼している奴以外とは、二人きりで出かけない。安易に触れさせない」
なんだかんだ言いつつ、木崎さんは棗先輩の事を信頼してるんだなーってわかって、物凄く嬉しくなる。
無意識に笑ってしまっていたのか、拳で軽く頭を小突かれた。
「返事」
「はい。そのルール、しっかり守ります。木崎さんに誤解されたくないし、嫌な思いもさせたくないから」
そう言ったら、木崎さんが嬉しそうに笑みを浮かべた。それはとても暖かく優しいもので、なんだかこっちの顔が熱くなってしまう。
「ルールとは別に…、響也、俺が誰かと浮気する事は絶対ねぇから、そこは信じろ」
「……っ」
また泣きそうになってしまった。
この人は本当に狡い。いつだって俺が欲しい言葉をくれる。
唇をキュッと噛みしめて泣きそうになるのを堪えた後、俺も木崎さんの瞳を見つめてハッキリ言い切った。
「俺も、木崎さん以外なんて考えられません。木崎さん以外に恋愛感情なんて持てないです。だから、信じて下さい。絶対に浮気なんてしません」
途端に髪をぐしゃりと撫でまわされ、その手が後頭部に回り、木崎さんの顔が近づいて…。
想いのこもる甘い口付けが降り注いだ。
~Das Ende.Danke schon.~
;--;--;--;--;--
終わりです。
ここまでお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました!
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