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vier
翌朝目覚めると、当たり前だけど目元が腫れていた。
結局朝日が昇る直前まで眠れなかった。今日の睡眠時間は、正味2時間弱。頭がボーっとする。
だからと言って、限られた時間の練習を無駄にするつもりはない。
冷水でバシャバシャと顔を洗って目を覚ますと、濃いブラックコーヒーとリンゴを胃におさめて部屋を出た。
昨日の今日で木崎さんと顔を合わせられるわけもなく。いつもより早い時間に。
『Guten Morgen 、響也』
『Guten Morgen、エリアス』
早く来すぎた為に自己練習をしていたら、いつの間にか時間になっていたようで、エリアスがドアを開けて爽やかに声をかけてきた。
手を止めて椅子から立ち上がり、軽く会釈をして挨拶を返す。と、いきなりエリアスの表情が陰った。
『…響也、どうしたんだい?何かあった?』
『え?』
長身に見合う大きな手のひらが頬に当てられ、親指が目の下を撫でた。
そこでハッと気づく、目が赤く充血していて瞼が腫れぼったくなっていたことを…。
隠そうとして俯こうとしたけれどそれは許されず、もう片方の手まで頬に当てられた。
両手で顔を包まれて、そして間近で目を覗き込まれる。
余りにも近しい距離に思わずギョッと目を見開いた。
『あ、あの、』
『おこがましいかもしれないが、私は君にとっての師匠と呼ばれるような人間になりたいと思っている』
『…エリアス…』
『音楽に対する真摯さ、一所懸命さ、そして、ひたむきさ。そんな頑張り屋の君を厳しく育て、そして守りたいとも思う。…誓って、こんな事を会ったばかりの生徒に言うのは初めてだよ。でも心からそう思うんだ』
『………』
柔らかく温かな言葉が心に染み込む。
こんな間近で目を見つめられれば、彼が本心で言っているかどうかくらいはわかる。
彼の言葉は、紛れもなく本心だ。真剣な瞳がそれを伝えてくる。
『だから、君がこんな風に辛そうな顔をしていると、なんとかしてあげたいと思ってしまう。でも、秘めておきたい胸の内を強引に聞き出そうとは思わない』
それまで真剣だった眼差しが不意に茶目っ気を含ませて緩んだ。
『ということで、午前のレッスンが終わったら街のカフェで一緒に昼食をどうだい?』
エリアスのスマートな誘いは、俺の心を軽くしようと思っての事だとわかった。
その気遣いが嬉しくて自然と笑みがこぼれる。
『…っはい、ぜひ!』
エリアスのおかげで、そしてエリアスに対する信頼で、午前のレッスンは昨日よりも熱の入ったものとなった。
side:棗彼方
「お昼ご飯~♪あ、ちょっと見て見て皇志!あそこのお店可愛い!」
昼時間が木崎とかぶった棗彼方は、ここぞとばかりに拉致を決行し、そして現在、街に出て新たな店の開拓に精を出していた。
その隣には、無理やり引きずられてきた無表情の親友・木崎皇志の姿がある。
もともと表情豊かではない親友だが、今日のこれは少し違う。苛立ちと困惑と…焦りか?
泰然としている木崎をこんな風に出来る事象や存在は一つしかない。
湊響也だ。
きっと彼と何かあったのだろう。
どうしたものかと木崎を横目に見て歩いていた棗だったが、隣を歩く相手の足がいきなり止まった事により、つられて立ち止まる事になった。
「え、なになに、どうしたのさ。入りたい店見つかった?」
「………」
棗の言葉なんて聞こえていない様子の木崎は、その視線を鋭く細め、とあるカフェテリアを見つめている。
とても入りたい店を見るような目付きではない。それどころか爆破してしまいそうな物騒な目付き。
嫌な予感がした棗がその視線の先であるカフェを眺めると…。
「……あ」
道沿いのオープンスペースの席に着く二人の男性の姿が視界に入った。
一人はスーツが似合うノーブルな美丈夫。
そして向かい合うもう一人の細身の美青年が…、
「…響ちゃん…」
棗の顔が引きつった。
いやいやいや、ヤバイ、これはヤバイ。
浮気じゃないのはわかる。響ちゃんはそういう事をする子じゃない。だけどっ!
隣にいる、響也大好き独占欲全開男が何も思わないわけがない!
チラリと見た横顔は、無表情なのに物凄い苛立ちが伝わってくるものだった。
「こ、皇志、落ち着いて!普通にお昼食べてるだけだよ!いい?よく聞いて?世界には男と女しかいないんだから、響ちゃんが男と一緒にご飯食べる確率なんて二分の一という高確率なんだよ!だからあれは特に意味がある事じゃないから!」
もう滅茶苦茶な理論で説得を試みる。
そんな必死の説得が功を成したのか、思いっきり大きな溜息を吐いた木崎が、何か残念なものでも見るような目付きで棗を見た。
「なにその目」
「うるせぇ」
「はあぁぁっぁぁ?!」
こっちは必死に宥めようとしていたのに、それを“うるせぇ”の一言で片づけられるとは何事!!
今度は、プリプリと怒る棗を木崎が引きずってその場から歩き出すこととなった。
side:棗end
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