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「何とかお願いします!」
善美を尽くしたような雅趣溢れる室内に威勢のいい声が響き渡る。
周辺にいた客たちが何事かと振り向き、訝しげな顔でこちらを見ていた。
大理石の磨かれた受付台に額を擦りつけているのは風間時彦 という男だ。
白磁の壺や豊麗な弁天像などお高い骨董品の数々が悠然と並べられた高級旅館のようなこの場所に、頭 を垂れる風間は異質なものを放っていた。
髪はくしゃくしゃ、後頭部には盛大な寝癖がついている。
何年も着ているかのようなスーツはくたびれきっていてパンツのクリースもあやふやなラインになっていた。
そのよれたスーツの袖口から覗くワイシャツのカフス部分には赤や緑の染みがべったりと染み付いていて、お世辞にも清潔とは言えない格好だ。
「風間様、落ち着いてください」
大理石の受付台のむこう側で、黒装束に身を包んだ男が風間に平静を促してくる。
翁面を付けた男の表情は推し量る事ができないが、声色を聞くところ風間を門前払いにしようとは思っていないようだ。
しかし、風間はまるで駆け込み寺にやって来たかのように焦燥に駆られており男衆の話が全く耳に入っていない様子だった。
紅い欄干を辿り、ゆるやかな橋を越えた先にあるここは超がつくほどの高級廓『淫花廓 』である。
ここに一歩でも足を踏み入れれば、そこはもう俗世ではなく、独特のルールと治外法権がまかり通る場所だ。
社会的地位や財力のある限られた人間のみしか足を踏み入れることができない特別な場所。
そんな限られた客にも厳しい規約 が設けられていて、いくら上客といえども違約は御法度とされているのだ。
そんな超高級廓『淫花廓』に、しがない美術教師である風間が足を踏み入れる事になったのには理由があった。
風間時彦、45歳独身。
市内の高校で教員職に就いている。
小さい頃から絵が好きだった風間の夢は絵描きになる事だった。
高校卒業後、専門学校に通い始めた風間は、やれ合コンだ、やれ彼女だと騒ぐ周囲から孤立し、絵に没頭する日々を送っていた。
才能がない事は自覚があったが、描き続けていればいつか努力は報われる、そう信じて絵を描き続けていた。
しかし、いくら自分で満足いくものが描けたと思ってみても周りには認められず、結果夢は断念。
それならば少しでも美術に携わる仕事を、と思い教員免許を取得。
公立学校の採用試験にも合格して、晴れて美術教員として働く事になったのだ。
仕事は順調だったし、やり甲斐も感じていた。
しかしある日ふと、気がついたのだ。
自分がいつの間にか結婚適齢期というものを大幅に越えてしまっていた事に。
周りをみると友人や同期はみな所帯を持ち、何だかんだと言いながらも幸せな家庭を築いている。
風間は焦った。
このまま生涯独身のまま、寂しい人生をおくらなければならないのだろうか。
目に浮かぶのは、白髪頭の老いた自分が拠りどころなく一人寂しく悄然と暮らす姿だった。
年齢のせいか、はたまた風間自身の冴えない性格のせいか、それともむさ苦しい容姿のせいか、登録しまくった婚活パーティーなどは尽く失敗。
そんな中、同じ教職に就く女性とたまたま付き合える事になった。
彼女の事は本気だったし、自分なりに大事にしてきたつもりだった。
このまま彼女と結婚して皆のように幸せな家庭を築く、そうなるものだと思っていた。
しかし別れは唐突に訪れた。
彼女はなんの前触れもなく、風間に決別を言い渡してきたのだ。
人生最後だと思っていた彼女には振られ、なぜかそれが校内で噂になり生徒からもからかわれる始末。
自分はどこまでもついてない。
つくづく薄幸な奴だと思った。
生きる気力をなくし抜け殻のようになっていたある日、たまたま教育委員会のお偉いさん方と食事をする機会があった。
落胆する風間を憐れに思ったのか、そのお偉いさんが通いつめているという淫花廓を紹介してくれるという話になったのだ。
淫花廓に初めて訪れる客は紹介状を手に入れる必要がある。
すでに淫花廓の会員である人間を介し、紹介状を手にして初めて客として扱われるのだ。
それほど淫花廓という場所は敷居が高く、一般人の平凡で冴えない風間にとっては雲の上のような世界だ。
この機会を逃せば一生縁のないような話に、首を横に振る事はできなかった。
しかし、一つ気がかりな事があった。
それは風間自身が全くのノンケだという事だ。
『淫花廓』最大の特徴は、働いているすべての人間が男性である、ということだ。
話に聞くところによると、淫花廓には雌の役割をする抱かれる側の男娼、雄の役割をする抱く側の男娼が存在するらしい。
果たして自分のようなノンケがそんな場所へ行っても大丈夫なのだろうか。
不安を口にした風間にお偉いさんの男はあっけらかんとして笑った。
「なぁに、心配する事はないさ。あそこで働く男娼たちはそこいらの風俗嬢より知識も品格も経験値も高い。身体の関係は抜きにしてモテる男の処世術でも聞いてみたらいいさ」
「……はぁ」
「あぁ、でももしかしたら君もハマるかもしれないなぁ。あそこは粒揃いばかりだから。まぁ抱くにしろ、抱かれるにしろ、男はいいぞ風間君」
爽やかな笑顔で慫慂してくる男に風間は「…はぁ」と苦笑いを浮かべたのだった。
「お願いします、誰でもいいんです。あのこれしか用意できなくて申し訳ないんですけど…」
風間は握りしめてくしゃくしゃになった万札を十枚、受付台に広げた。
「これで買える子誰でもいいので。えっとほんとに…話を聞いてくれるだけでいいんです。その…変な事は一切しませんので」
受付台に額を擦り付けていた風間がようやく顔を上げた。
ずり下がった眼鏡がアンバランスに傾き鼻梁に引っ掛かっている。
風間の滑稽な様にも、男衆は顔色一つ変えなかった。
(といっても面のせいで表情は全くわからないのだが)
正直、風間はこの高級廓の相場を甘く見ていた。
予想を凌ぐ花代がかかるとは思っていたのだが、実際はその予想を遥かに凌いでいた。
札束だ。
分厚い札束があちらからこちら、こちらからあちらへと、まるで居酒屋で運ばれる料理のように移動していく。
まさか男娼一人を買うのに札束がいるとは思ってもみなかった風間は唖然とした。
一般人である風間にとって、それは常識破りであり、とてつもない光景だった。
しかしここまで来てはどうやっても後へは引けない。
この機会を逃したら、もう二度とこんな敷居の高い高級廓の門をくぐる事はできないかもしれないのだ。
少ない給料をかき集めて作ったこの資金で何とか男娼を買い、自分のどこがいけないのかを聞いてみたかった。
いや、むしろ悩みを聞いてくれるだけでいい。
すると、受付の男衆にもう一人別の男衆が近づいてきた。
そして、そっと何かを囁くと恭しく下がっていく。
「風間様、本日は大変好運でいらっしゃいます。たった今当店でも指折りの人気男娼の予約がキャンセルになりました。もしよろしければ、そちらの男娼をお勧め致しますがいかがでしょうか」
「指折りの人気男娼って高いんじゃ…」
口を開こうとする風間に男衆が重ねて続ける。
「勿論、お代はこちらだけで結構です。どんなサービスが追加されてもこれ以上はご請求致しませんのでご安心ください」
男衆の言葉に半信半疑ながらも風間はその申し出を受ける事にしたのだった。
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