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倭国と呼ばれるまだずっと以前。神と人間が共に共存していた頃――。
周囲を高い山に囲まれた谷合の小さな村の上空にはどんよりとした重苦しい暗雲が広がっていた。
時折、耳を劈くような轟音と地鳴りが山々に反響し、村人たちはその異常な状況を『蛇神の怒り』だと口々に囁き、そして祈った。
長閑な里を見下ろす高台に祀られた二柱の鎮守神。
海のない地でありながら、大雨に見舞われると山は表情を変える。村を横断するように流れる大きな川は狂ったかのように荒れ狂い、氾濫を繰り返しては田畑を壊滅させた。
そして――何より恐ろしいことは、山の木々を轟音と共に押し倒すように大量の雨水と泥が流れ落ちること。
大きな岩を打ち砕き、地鳴りと共に山肌を這う姿はまるで黒い大蛇のようで、人は皆その様を『蛇抜 』と呼んだ。
蛇抜が発生する場所は本流に流れ込む幾筋もの細い沢。木々をなぎ倒し、岸を削り、里へと流れ込む。
清らかな水源に恵まれた村ではあったが、そうなると穏やかな水も一瞬で脅威に変わる。
その水を守り、この地を鎮めるために住みついたのは二匹の蛇神だった。
美しい青年に姿を変えた彼らは、村の民と仲良く、そして穏やかに暮らしていた。
漆黒の髪に野性的な相貌を持つ黒蛇と、美しく清らかで儚く物憂げな白蛇。
二柱は番としてこの地に住まい、仲睦まじく村を災いから守っていた。
そう――月もない漆黒の闇に包まれたあの夜までは。
*****
「いやぁぁぁぁ!」
虫の音と風の音しか聞こえない里に、耳を劈くような悲鳴がこだました。
その声はのちに啜り泣きに変わり、最後にはまるでこの世界から消えてしまったかのように静かになった。
今にも崩れ落ちそうな納屋。藁に塗れて横たわっていたのは、白い絹の着物を淫らに崩した若い男だった。
乱れた裾からのぞく透き通るような白い足は泥で汚れ、足の付け根には血と人の精液と思しき白濁が飛び散っていた。
刃物で切られた傷だろうか、細い首には真横に朱が走り、そこから溢れ出す血で開けたままの胸元は鮮血に染まっていた。
もう息はなく、美しい銀色の髪を土間に散らした彼の目尻から一粒の涙が頬を伝った。
その瞬間、静かな村は様相を変えた。
地を揺らす轟音と共に、上空には暗雲が広がり、それまで穏やかだった川の水位が急激に上昇した。
異変に気付いた民が山の中腹を見上げると、そこには黒い大蛇の影がゆらりと揺らめいた。
「何が起こったんだ……。蛇神様が……信じられん!」
「祟りだ! 蛇神様がお怒りになられたっ!」
「大変なことになった……。おい、蛇神守 を呼べ! 何とか鎮めてもらわんと、この村は全滅だっ」
慌て駆け回る民をよそに、その黒い影は天に頭を掲げ、勢いよく太い体をくねらせると、神社周辺の木々をなぎ倒した。
漆黒の闇に浮かぶ二つの金色の光は、紛れもなく黒蛇の鋭い瞳だった。
「――ハルはどこだ! ハルの血の匂いがする……」
グアッと大きく開いた口は赤く、鋭い牙が闇にはっきりと浮かび上がった。
黒蛇は山を這うように里に下りると、その大きな体で家々をなぎ倒し、最愛の番である白蛇を探し回った。
彼が咆哮をあげると、暗雲から大粒の雨が降り始め、やがて視界が利かなくなるほどの大雨に変わった。
あたりが白く煙り、会話も聞き取れないほどの雨音が村を包み込んだ。
「白い雨だ……。もう逃げるしかない」
恐ろしさに立ちすくんだ民の耳に再び低い地鳴りとバキバキという木々が折れる音が飛び込んできた。
「早くしろっ! 蛇抜が来るぞ!」
渇いた地面を濡らす雨は、どこかキナ臭い匂いを発しながら山肌へと浸み込んでいく。
ずるり……。神社の裏手の山肌が動いたように見えた時、民は息を呑んだ。
「社が……呑まれる」
地面に向かって一直線に落ちた稲妻と共に山が鳴動した。
黒蛇が通った後は瓦礫と化し、そこに大量の水が流れ込み、大きな川となって村を襲った。
朽ちかけた納屋の周りでぐるぐるとトグロを巻く黒蛇の咆哮が再び村にこだました。
「ハルの命が消えた……だと。許さん……。許さんぞっ」
巨大な体をぶつけて薙ぎ払った納屋は呆気なく原型を失った。木端微塵になった木材と藁の間に見えたのは、最愛の番――玄白 の白い脚だった。
「ハル……。我の声が聞こえぬか? ハル……っ」
ぬらりと体をくねらせながら長い舌でその脚を舐める。しかし、そこからハルの生気を全く感じ取ることは出来なかった。
同時に舌先に感じた青く苦い精の匂いに、黒蛇の怒りは頂点に達した。
鎮守神である蛇神を犯し、そして――殺した。
「許すまじ……。愚かな人間どもっ」
今まで村の民と接していた穏やかな様相は、もうそこにはなかった。
本来の姿を晒し、怒りに狂った彼はさらに雨を呼んだ。どす黒い雲に覆われた村は白い雨に包まれ、そして山から流れ出した幾筋もの蛇抜に襲われ、長閑で平和な光景は一瞬で地獄絵図へと変わった。
逃げ惑う民を執拗に追う黒蛇は、長い体をくねらせてすべてを呑み込んだ。
「すべて消えるがいい……。神殺しの罪を未来永劫、背負っていくがいいっ」
あたりを一瞬真昼のように輝かせた雷光に浮かび上がったのは、世にも恐ろしい邪神の素顔だった。
*****
「――それから三日三晩、白い雨は降り続いたんじゃよ。多くの民が犠牲になったが、黒蛇の力を何とか鎮め、封印することが出来たのは、彼らの眷属として社を守ってきた蛇神守 のおかげじゃ。だがな……彼らはその時、黒蛇とある約束をした。最愛の番を失った悲しみと虚無を埋めるために花嫁を捧げることをな。それから三年に一度、蛇神の花嫁として選ばれた者を献上するようになった」
人もまばらなバスの車内にしゃがれた老婆の声が響いていた。その話を興味深げに聞き入っているのは、観光客と思しき数人の若者だった。
この村には鉄道が走っていない。外部からのアクセスと言えば隣接する町の駅から出る乗合バスを利用するしかない。普段は閑散とした車内ではあるが、ここ数日に限ってやけに観光客の姿が目立つ。
「――へぇ。それで、その花嫁さんは蛇神様と結婚するの?」
村の昔語りを聞いていた一人が、老婆に問うた。
彼女はゆっくりと首を振りながら、乱れた髪を皺だらけの手で押さえて言った。
「花嫁といえば聞こえはいいが、実のところは生贄じゃ。祭りで献上された花嫁は、今まで誰一人としてあの社から戻っては来ておらん。番を殺されたんだ……。その悲しみと苦しみは計り知れぬ。人間への報復とでも言おうか……」
「じゃあ、食べられちゃってる……とか?」
「さあな。そこまではわしとて知らん。それ故か……奇祭として全国に知られ、多くのマスコミやら観光客やらが押し寄せる。ひと一人がいなくなっても、この村では誰も探す者はない。まして身内も騒ぎもせん。むしろ蛇神様の腹の足しになったと喜んでおる。それで村の平和が守られるのならば、花嫁の命なぞ安いもんだ」
ふふっと自嘲した老婆は、若者たちの顔をゆっくりと見回した。
「あんたらも、蛇神様を怒らせるようなことは絶対にしちゃあいけないよ。特に、祭りの間は社に近づくことは許されないからね。その禁を破った者は今までに何人もいるが、ロクな死に方をしちゃいない。真っ当に生きて天寿を全うしたけりゃ、大人しく見守ることだ」
老婆の話が嘘や作り話でないことは、彼女の重々しい口調から推測出来た。現に、それを聞いていた若者たちは固唾を呑んだまま動くことを忘れていた。この時の彼らは、国内でも珍しいと言われる奇祭『蛇神祭』に興味本位だけで訪れたことを後悔し始めていた。
「そ、そんなの迷信でしょ? お婆ちゃん、実は村役場の回し者だったりして! こんな話聞いたらさ、誰でも興味持つって!」
沈みだした空気を払拭しようと、から元気とすぐに分かる作り込んだ明るい声で言った女性を老婆はギロリと睨んだ。皺だけではあるが、その瞳には強い光が浮かんでいた。
「――じゃあ、その目で確かめてみるがいいよ。あんたはロクな死に方をしない。ただ……この村ではやめとくれ。面倒な事を起こされるのは好きじゃない」
掠れた声で彼女を威喝した老婆は、そのまま黙り込んでしまった。
左右に揺れるバスの車内。その揺れが大きくなり始めた時、前方の席でそのやり取りを聞くともなく聞いていた青年――戸倉 弥白 は窓の外に広がる田園風景を見ながら小さなため息をついた。
色白でほっそりとした面立ちに明るい栗色の髪が今どきの若者らしい。身長は一七〇センチと、男性としてはそう低いわけではないが華奢に見えてしまうのは着痩せするせいだろう。
物憂げに窓に向けた視線。長いまつ毛とハッキリとした二重、そしてどこか女性らしい雰囲気を持つ彼もまた、この村を訪れる理由があった。
決して興味本位での観光ではない。しかし、彼にとっての『蛇神祭』は全てを終わらせる最後の手段だった。
思い起こせば、生まれてから二十四歳になるまでロクなことがなかった。この村の出身だった父親は酒乱で、母や自身にも平気で暴力を奮う男だった。それでも弥白に苦労をかけまいと笑顔を絶やすことのなかった母親の限界は、彼が小学生の時に訪れた。
両親の離婚。そして母親は愛した息子を捨てて、他の男と再婚した。
父親に引き取られた弥白は、高校進学と同時に家を出た。それからは奨学金で大学まで進み、就職までなんとかこぎつけた。だが、現実はそう順風満帆に運ぶことはなった。
就職先は今でいうブラック企業だったのだ。長時間の拘束、残業。理不尽な理由でのパワハラ。そして休日もなく働き続けた弥白はついに体調を崩した。しかし、それを知っていてもなお、出社を強要し圧力をかける会社に、弥白の精神が悲鳴を上げた。
何度も死のうと思った。物心ついた時から自身を支配し続けた失望と虚無感は、時間が経っても払拭されることはなく確実に蓄積されていったのだ。
手首や首筋に刃物を当てたこともあった。ビルの屋上に立ち、眼下に見えるアスファルトの地面をじっと見つめたこともあった。
それでも自分で命を絶つことは出来なかった。そんな時決まって頭の中に響く声があった。
低く、それでいて慈しみを秘めた温かい声――その声に救われ、彼は今を生きていた。
この村へ来る直前、自身を苦しめてきた会社に退職届けを提出し、住んでいたマンションも引き払った。
預金は全ておろし、身辺の整理は出来る限りやった。今、自身が持っているのは隣の座席に置かれたスーツケース一つだけ。
ここに来た理由――それは、蛇神への生贄の花嫁となって、自らの命を終わらせること。
年々、過疎化が進む村には若者がいない。それもそのはずだ。三年に一度、祭りの度に一人、また一人と消えていくのだから。それを恐れ、村を出る若者は後を絶たず、今では蛇神守の一族と数名の男女しかいない。
この村に住む祖父から連絡を貰った時、やはり自分は不要な人間だったのだと改めて悟った。
祭りの内容を知らないわけではない。花嫁として献上された者は二度と戻っては来られない。
それを知っていて、孫を推薦する祖父も祖父だ。
彼にどんな思惑があるかは分からなかったが、弥白はその時、自分の死に場所をこの村にしようと決めた。
花嫁になることは恐れていない。ただ……出来るだけ苦しむことなく逝きたい。
「次の停車は蛇水 神社前。お降りの方は……」
車内アナウンスが終わる前に、素早く降車ボタンを押す。
赤いランプが点灯した車内。バスの後方に座っていた老婆がすっと顔を上げた。
バスが徐々にスピードを落とし停留所に止まると、弥白はゆっくりと立ち上った。
大きなスーツケースを手に降車口へと向かう途中、その老婆と目が合った。
「――あんた」
言いかけた老婆は大きく目を見開いたまま弥白を見上げた。
すっと目をそらしてステップを下りかけた時、弥白の背中を追いかけた老婆の声に足を止めた。
「――命はたった一つしかない。それを誰の為に生かすか……よく考えることだね」
肩越しに振り返り、すぐにステップを下りる。
湿った風が吹き抜け、山の木々を大きく揺らした。高層ビルに囲まれた都内では感じることのない自然の息吹と、水の匂い。幼い頃に慣れ親しんだ空気が、静かに彼を迎えてくれた。
それを肺いっぱいに吸い込んで、弥白は神社へと続く緩い坂道を一歩、また一歩と進み始めた。
死への一歩――そう思っていた弥白の新たな運命が動き始めた瞬間だった。
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