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【1】
村の鎮守である蛇水神社はその名の通り、蛇神を祀った歴史ある神社だ。
緩やかな坂道を山の方へと登っていくと、大きな鳥居と鬱蒼とした木々に囲まれた場所にたどり着く。
そこはいつも、村内の長閑な雰囲気とはまるで違う凛とした冷えた空気に包まれており、感受性が強い者が訪れると皆口々に「何かがいる」と身を震わす。
しかし、最近では強力なパワースポットとして紹介され、国内外の若者が数多く訪れる人気の観光地となっていた。
石造りの大きな鳥居を横目に、敷地内の砂利道を林の方へと登っていくと、そこには細い沢の上を跨ぐように巨大な岩が鎮座し、幾重にも巻かれた細い注連縄 に付けられた紙垂 が、川から上がる湿った風にわずかに揺れていた。
弥白は手にしていたスーツケースを大きな杉の木の根元に置くと、ゆっくりとした足取りでその岩に近づいた。
岩の奥にはぽっかりと口を開ける洞窟があり、その入り口は木製の観音扉が取り付けられ、大きな南京錠が掛けられていた。
古くから村に伝わる言い伝えでは、最愛の番を犯され殺された黒蛇が怒り狂い、三日三晩降らせた雨によって山のいたるところで蛇抜が発生し、大勢の村人が巻き込まれて死んだ。その黒蛇の怒りを鎮めたのが、蛇神の眷属としてこの神社を守ってきた蛇神守だ。神通力と呼ばれる力で暴れ狂う黒蛇を抑え込み、この沢におびき寄せたところを巨大な岩で圧し潰し、その力と怒りを鎮めたという。
一般人が足を踏み入れることを許されない洞窟の奥には、この神社の御神体である蛇神が眠っている。
その力は強大で、計り知れない破壊力と脅威を持っている。
もし、この現代に蛇神が蘇ったら……。被害はその当時の比ではないだろう。
先程、バスの中で語っていた老婆の話を思い出し、弥白は小さく吐息した。
「所詮、迷信……。でも、今はそれを信じてここに来てる」
何も知らない他人が聞いたら腹を抱えて笑うだろう。現実ではあり得ない迷信に、自分の命を捧げるというのだから。
弥白は岩のすぐ側にある手水舎 で足を止め、山奥から湧き出る清水を柄杓で掬い、ここに来るまでに穢れた手と口を静かに漱いだ。正式な作法を知っているわけではないが、幼い頃からの習慣は今でも体に染みついているようだ。
真夏でも長くは浸けていられないほど冷たい水によって、始終俯き加減だった背筋が少しだけ正されたような気がした。
この村に生まれ、幼い頃からここを遊び場にしていた弥白。目の前にそびえる大きな岩に向かい、何を話すでもなく、ただじっと見つめているだけで心が穏やかになった。
家に帰れば両親がいがみ合う声。それは夜更けまで止むことはなかった。
離れに暮らしていた祖父母は、見て見ぬふりを決め込んでいた。若者が減り、過疎化が進んだこの村での暮らしは、都会育ちの母親にとって苦痛でしかなかった。
ただ――弥白がいると言うだけの理由以外、何の目的も喜びも見出すことが出来なかった彼女は、半ば夜逃げ同然に弥白の手を掴んで上京した。それを追いかけるようにして父親も上京し、また村と何一つ変わらない殺伐とした生活が始まった。田舎とは違い、安いアパートでの生活は弥白にとって、より苦渋を味わうものとなった。
近所からの苦情、電車や車がひっきりなしに行きかい、学校生活でも人の顔色ばかりを窺っていた。
そして、弥白が小学生の時に母親は、すべてを捨てて他の男の元へと行った。
たとえどれだけ父親に蔑まれても手を離さなかった母親が、初めて弥白を突き放した瞬間だった。その時のショックはかなりのもので、小学生にして早くも自分の存在価値を見失った。
「――ただいま。やっと帰って来られたよ」
太古の昔から村を見続けて、すっかり苔生した岩肌にそっと触れながら弥白はそう語りかけた。
黒蛇を圧し潰したとされる岩は『蛇石』と呼ばれ、この村のパワースポットになっている。
耳を澄ませば、木々のざわめきと、川のせせらぎしか聞こえなはずのこの場所に懐かしい声が響いた。
それは、弥白が自殺を試みるたびに耳元で聞こえていた低く、優しい声音――。
鼓膜の奥で、直接彼に語りかけるその声は、弥白の胸をじんわりと温め、すべてを解き放つように感じた。
「もう……苦しいのはイヤだ。ここで……終わらせる」
弥白の言葉を遮るかのように一陣の風が吹き抜けた。柔らかい栗色の髪をふわりと揺らし、その冷たさにハッと顔を上げた。
「――本当に帰ってきたのか?」
ざらりと砂利を擦る音と同時に、弥白の視界に入ったのは懐かしい顔だった。
「灰英 ……」
白衣に鮮やかな紫色の袴を合わせ、足元は白足袋と雪駄という出で立ちで真っ直ぐに弥白を見つめていたのは、
二十七歳の若さでここ蛇水神社の宮司を努める水神 灰英 だった。
彼はこの村に古くから住まう『蛇神守』の一族であり、前宮司だった父親からこの神社を引き継いだ。灰英の両親は信心深く、この村と神社の為に最善を尽くしてきた。しかし、飲酒運転のドライバーが起こした多重事故に巻き込まれ、あっけなくこの世を去ってしまった。
幼い頃は弥白を実の息子のように可愛がっていた彼の父親。そして、弟のように接していた灰英。
弥白にとって彼の存在はなくてはならない物であり、人には言えない秘めた想いを抱いた相手でもあった。
相手は自分と同じ男であり、いずれは妻を娶ってこの神社を存続させていかねばならない。そんな彼に幼い頃から淡い恋心を抱いてきた弥白はその想いを封印したまま上京した。
忘れよう……。そう思うたびに彼の優しげな顔が脳裏をかすめ、穏やかな声が鼓膜を震わせた。
その相手が今、目の前にいる。
「ただいま……」
ここにいる理由を一番理解している彼への後ろめたさに、自然と声は掠れ、視線は宙を彷徨った。
「――どうして断らなかった。そんなに、お前を苦しめた戸倉の家が大事なのか?」
幼い頃の記憶ではいつも笑っていたはずの彼の表情は硬く、声も幾分怒気を孕んでいるように思えた。
やや鋭さを見せる黒い瞳に射抜かれ、弥白は動くことも声を出す事も出来なくなっていた。
「あの爺さんから話が来た時、俺は震えが止まらなかった。そこに、お前の意志はあるのか? ってな……。お前の知らないところで話が進んでいたとしたら、俺は断固としてその申し出を拒否した。それなのに……」
言葉を切った灰英は、一歩足を踏みだして弥白に近づくと一度だけ瞬きをした。
「――お前は会社を辞め、住んでいたマンションも解約した。そして……ここに来た」
しばしの沈黙の後。弥白は思い切ったように顔をあげた。
そして、張り付いた喉を無理やりこじ開けるように声を発し、自分よりも背の高い灰英を見上げて言った。
「三年に一度の大祭には、この村の若者の誰かは蛇神様に捧げられる。それは回避出来ない決まり事。たとえ帰って来なくても誰も何も言わない。それなのに、なぜ俺に説教するんだよ。俺自身が決めたことだから……爺ちゃんは関係ない」
「弥白……」
「前に話したことあったよな? 小さい頃から強烈な虚無感に苛まれて、自分が生きている意味が分からなかった。何をしても満たされない日々……。俺の中にある心は空っぽの器だ。それを満たすものが何なのか分からない人生を……終わりにしたい」
言い終えた直後、急に距離を縮めてきた灰英。弥白はその力強い腕の中に抱き寄せられ、白衣の合わせに頬を押し付けるような格好になった。
ふわりと鼻孔をくすぐったのは彼の汗と爽やかな緑の香り。
「それ以上、バカなことを言ったら許さない。今からでも間に合う。花嫁を辞退しろ」
「祀りを司る宮司が言う事じゃないよね? 大祭は四日後だよ?」
「俺が……何とかする。だから、お前は……。自分を貶める様な真似をするな」
柔らかな髪を指でぐしゃぐしゃにしながら苦しげに囁いた灰英の言葉に、胸の奥に秘めていた想いが再び揺れ始めるを感じて、弥白は眉を顰めたままそっと唇を噛んだ。
(苦しい……。胸が痛い……)
空っぽであるはずの心が、何かを求めてざわついている。それが何であるか――弥白は気づいていた。
それなのに、もう一方で彼を拒む力も動き始めていた。欲しいのに、手を出してはいけない。
自分の本能が別のモノを求めている。灰英よりも荒々しく、そして愛おしい存在。
弥白は時々、夢の中で得体の知れない『モノ』に体を委ねていた。漆黒の闇の中で一人、全裸で快楽に溺れる自分。その腰を掴みよせ、長大な楔で後孔を突き上げては、強烈な快感を与え続ける相手の顔は見えない。
しかし、弥白は見えない相手に向かいその手を伸ばしていた。
触れたい……。愛しい……。
その瞬間だけ、空っぽであるはずの心に真っ赤な炎が灯り、経験したことのないような想いに身を焦がす。
夢の中の男が灰英であればいいと願ったことは数知れない。でも、そう思った夜は決まって自分の犯した過ちに胸を痛め、刃物を手首に押し当てていた。
手首から溢れる真っ赤な血をじっと見つめ、そして涙する夜――。頭の奥で響く低い声に、そっと瞼を持ち上げると、そこには闇しかなかった。
「――弥白。お前は俺が守る……。絶対に蛇神様には渡さない……」
蛇神守として、この神社の宮司を努める者が安易に口にしていいことではない。これでは蛇神に対する冒涜だ。
「そんなこと言ったらバチが当たるよ?――灰英。そういうところ、ホントに変わらない」
いつも一緒にいた彼は、弥白の身に何かあると決まってこう言っていた。そのせいで、いじめられっ子に返り討ちに遭ったり、弥白の代わりに都合よくパシリにされていた時もあった。
しかし、彼は嫌な顔一つせずに身を挺して弥白を守り続けた。
それほど大事にされていながら、彼からは『弟』としか見られていなかったことが、弥白にとって寂しくもあり辛くもあった。
「いざとなったら……」
「なったら?――蛇神様を振り切って、一緒に駆け落ちでもする?」
「茶化すな……」
弥白の首筋に埋めていた顔をあげて少し照れたように顔を背けた時、参道の方から砂利を踏む音が聞こえて、灰英は慌てて背中に回していた腕を解いた。
「――お取込み中のところ、だったか?」
突如、自然の静寂を破るように響いた声は低く、それでいてどこか甘さを含んでいた。
その声に弾かれるように顔を上げた弥白は、灰英の肩越しにその声の主を見つめた。
細身のブラックジーンズにレザージャケット、首からは見るからに高価な一眼レフのカメラを携えた長身の男がそこにいた。
色白で端正な顔立ちではあるが、どこか遊び慣れているようにも見える。それを物語っていたのは左耳に光る小さなリングピアスと、すっと細められた奥二重の瞳。薄い唇を片方だけくいっと持ち上げて笑う彼の姿に、弥白は小さく息を呑んだ。
「――誰?」
灰英の袖を反射的に掴んでいたのは、彼と目が合った瞬間に心臓が小さく跳ねたからだ。
抱き合っていた現場を見られて驚いた……というわけではない。それよりもなぜか後ろめたさのようなものを感じた。
「大祭の前後、一般参拝者はここには入れないはずだよね?」
弥白の声には、まるで灰英を責めるかのような力が込められていた。しかし、弥白が知る灰英は同性を相手にするようなセクシャリティはない。学生時代につき合っていた女性を何度か目にしたことがあった。それ故に、弥白は自身の想いを口に出すことなく抑え込んできたのだ。
大祭を前にした蛇水神社は聖域とされ、出入りを許されているのは氏子総代と花嫁だけで部外者は一切立ち入ることは出来ない。観光客はもちろんだが、地元の新聞社の取材も断るほどの徹底ぶりだ。
しかし、どう見ても氏子総代には見えない男を前に、弥白の中で不安が広がっていった。
(まさか、灰英の……)
その答えを早く聞きたくて、弥白は灰英を見上げた。
「――彼は」
「初めまして。俺は水越 黒芭 。フリーのライターやってる」
一瞬だけ眉根をきゅっと寄せた灰英が口を開きかけたのを遮るようにして、水越と名乗った青年はゆっくりと近づいてきた。
「フリーの記者?」
「君は……確か。――戸倉弥白くんだね?」
「どうして俺の名を……」
困惑する弥白を庇うように振り返った灰英は、水越と向かい合うと、少し俯いたまま大きなため息をついた。
「――紹介するよ。彼は俺の大学時代の先輩。この村の伝説と、奇祭と呼ばれる『蛇神祭』に取り憑かれた変わり者なんだ。まだ親父が生きていた頃から、この大祭の取材をしてる。彼のことは死んだ親父たちも理解してくれていたし、部外者以外立ち入りが禁止されたこの場所にいることも特別に許可を出している」
「特別って……」
「出ていく若者が増え、高齢者が大半を占めるようになった錆びれた村の古い言い伝え。そして、今やAIだ何だと未来を見据えた時代に逆行するするかのように行われる神に生贄を捧げる儀式。それが『奇祭』として世に広がったのは彼のおかげでもあるんだ。それがきっかけで観光客は増えたし、村にも活気が戻ってきた」
「だからって、昔からの風習を捻じ曲げていいことにはならないんじゃ……」
灰英の背中に縋るように食い下がった弥白に、水越は笑いながら言った。
「今どきにしては珍しい。君の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかったよ。――時代は流れている。それを止められるものは誰もいない。逆らえば、いずれ反発も起きるだろう。それならば、その流れに乗ってしまえばいい。正直、『生贄』なんて聞いて、その本質を知る者なんてほんの一握りだ。この村を訪れる若者だってタダの興味本位でしかない。本当に蛇神に捧げられた花嫁が神隠しのように失踪するのか……。そして、なぜ……その花嫁を探そうとする者がいないのか。現代におけるミステリーとして記事にするには最高だろう」
水越の言い分は決して間違ってはいない。弥白だって、何も知らない普通のサラリーマンであれば、そういった逸話に心をときめかせていただろう。
しかし、今の弥白には『何も知らない』は通用しない。すべてを知っているからこそ、この場所にいるのだから。
「――今年の花嫁は上物だな。蛇神様もきっと喜ぶだろう」
「黒芭っ!」
ニヤリと笑った水越を制したのは灰英だった。その瞬間、ざわりと鎮守の森が揺れた。
巻き込んだ風が洞窟に入り込み、低い呻き声のような音を発する。入り口に掲げられた注連縄に絡むかのように紙垂が煽られた。
「――たとえ先輩でも、これ以上弥白への冒涜は許さない。彼は神聖な花嫁だ。それに……いろんな想いを抱えている」
「へぇ……。今回はやけに花嫁の肩を持つなぁ。今まではどんな感情も見せなかったクセに。ただ淡々と宮司として祭りを遂行してたお前が……」
揶揄うように身を屈めて覗き込んだ水越を押しのけるようにして、灰英は再び弥白に向き直った。
「弥白。お前は先に俺の家の方に行っててくれ。荷物はそのままでいい。俺が部屋まで運ぶから。――ここまで来るのに疲れただろう? 離れで少し休んだ方がいい」
「灰英は?」
「俺は彼と話がある。お前を面倒な事に巻きこみたくない。だから……今は素直に言うことを聞いてくれないか」
灰英と水越。一体何を話すというのだろう。
大学時代の先輩後輩。でも、灰英には彼を先輩として敬うような気配はどこにも見受けられない。
名前は呼び捨て。それに、弥白を庇っただけとは思えないほどキツイ物言いも気になった。
(二人はどういう関係なのだろう……)
知りたい。でも、知ってしまったらきっと後悔する。
弥白は、唇を一度だけ噛んで小さく頷いた。
ちらりと水越の方を見やってから、弥白はゆっくりと灰英のそばを離れた。そして、参道を戻って境内へと上がる大きな鳥居を目指して歩き出した。
「――ごめん。すぐに行くから」
「分かった……」
足を止めることなく振り返った弥白の背中にかけた灰英の声は、いつもの優しい兄の声だった。
ほっとする反面、弥白の指先は微かに震えていた。それを彼に悟られまいとギュッと握り込んだ。
水越とすれ違った瞬間、弥白の体に電流のようなものが走った。強く閉じた瞼の裏でフラッシュバックするシーンは今まで何度も夢で見たものだった。
幾本もの手に体を押さえつけられ、自身に圧し掛かる黒い影。
その恐怖に声も出せずに、ただ快楽に身を堕としていく自分……。でも、それは愛しい者ではない。
弥白の見る夢は二つ存在する。一つは自身が心を許している相手に与えられる極上の快楽。そしてもう一つは得体の知れない複数の黒い影に無情に犯される――見えたのは後者の方だった。
激しく高鳴る心臓に拳を押し当てて、弥白は歩く速度を早めた。
早くここから離れたい。その一心で、纏わりつく湿った風を振り切るようにその場をあとにした。
*****
まるで追い払うかのように弥白の背中を見送った灰英は、ため息と共にすぐそばにいる水越を見つめた。
「勝手な真似をしないでください……」
弥白の前では強気でいた灰英だったが、やはり自分よりも年上で先輩である水越と二人きりになった今は普段通りの自分に戻ろうと努めた。
何度か深呼吸を繰り返し、頭に上った血を体中に分散させる。それを知ってか水越も、乱れた少し長めの前髪を無造作にかきあげて、目の前にそびえる蛇石を見上げて言った。
「――花嫁としてここに来る者は皆、家族や親戚、時には仲間にも裏切られて、身売り同然でその身を捧げる。誰にも必要とされない孤独を抱きながらな……。だが、彼は少し事情が違うみたいだ。それに――」
ゆっくりと灰英の方に顔を向けた水越は眩しそうに目を細めた。
その視線に気付いた灰英は、それまで彼に向けていた目を不自然に逸らした。
「お前――まさか、蛇神を欺こうとしているんじゃないよな?」
「まさかっ。俺は蛇神守だぞ? 欺くなんて……バカなこと言わないでください」
水越はふーんと微かに鼻を鳴らすと、ジーンズのポケットに浅く片手を入れたまま、動揺を隠せずにいる灰英の顔を覗き込んだ。
木々の間から漏れる細い光の筋が水越の髪を照らす。漆黒と形容してもおかしくない髪束が一筋、形のいい額に滑り落ちた。
「俺はいつも通りにやらせてもらうからな。お前が彼の事をどう思っているのかは知らないが、ペースを崩すようなことだけは勘弁してくれ。それに、今回の花嫁は今までと違う……。ジャーナリストとしての俺の勘。なんだかゾクゾクさせる何かを持ってる」
「黒芭……」
「――この小さな村を災害から守れるのは蛇神しかいない。その蛇神の力を抑え込んだから蛇神守が一番だと勘違いするなよ。最愛の番を死に追いやった人間を許し、今まで献上された花嫁で満足しているとは到底思えない……。飢えた黒蛇を満たせる存在――それを探し、供物として捧げるのがお前の仕事だ」
長身を起こしながら苔生した蛇石を掌で撫でると、水越は傾き始めた太陽を見上げて言った。
「――それには、お前の感情は必要ない。幼い頃から弟同然……いや、それ以上の想いがあったとしても、だ」
彼の言葉にハッと息を呑んだ灰英は唇を噛みしめたまま俯いた。
口に出してはいけない。もし、この想いを弥白に知られてしまったらと思うだけで全身が震えた。
蛇神守として受け継いできた血。それを裏切って彼と共にこの村を逃げ出したい。
しかし、それは叶わぬ夢――。
「お前が惚れるのも無理はないな。男でありながらあの色気はそうそう出せるモノじゃない。もしかして……もう他の男と寝たことがあるんじゃないか?」
「あり得ない! そんなことは……ないっ」
「随分な自信だな。その裏付けはあるのか?」
「そんなもの……あるわけないだろ。俺はただ……弥白を信じてる」
水越の誘導にまんまと引っかかってしまった後悔と、彼の言う通り弥白には別に好意を寄せる相手がいるのではという不安が一気に押し寄せ、灰英の心を押し潰した。
蛇神の花嫁はその年によって年齢こそ違えど、男女ともに未通の処女でなければならない。ただし、男性に限っては後孔での交わりがなければ良しとされている。
本来は生まれてから一度も性交のない男女を好み、自身の糧とする。その血肉は蛇神の封じられた力を増幅させ、この地に宿り、守る。
弥白もこの村の出身者であれば、そのくらいは知っていて当然だ。だから、童貞ではないにしろ他の男に抱かれた体で花嫁になろうとは言い出さないだろう。
「彼なら蛇神様も満足する事だろう。娶ってすぐに腹の中に収めようとは思うまい」
「え……?」
「――本当の花嫁になるかもしれないな」
水越の言葉に大きく目を見開いた灰英は息をすることを忘れていた。
(弥白が蛇神になる……)
そうなれば二度と灰英と逢い交わることはない。黒蛇の番として永遠に神の世界で生きる。
「黒芭……」
「それを見極める時間はまだある。蛇神だって、そう焦って食らいつくことはないだろう」
ふっと唇を曲げて笑った彼の胸倉を灰英は無意識に掴みあげていた。
「おいおい。俺、何か気に障るようなこと言ったか?」
「それ以上、何も言わないでください。あと――弥白を刺激するようなことも」
「取材はする。彼からの話を聞かなけりゃ、仕事にならない」
やんわりと灰英の手を掴んでおろした水越は乱れた襟元を素早く整えると、彼の耳元にそっと唇を寄せた。
「――邪魔だけはするなよ」
低く、鋭さを含んだその声に、灰英は背中に冷水をかけられたかのように身を強張らせた。
彼が纏う香水の香りが漂い、灰英の思考を鈍らせていく。息苦しさと胸の圧迫感を感じて、必死に酸素を取り込もうと肩で息を繰り返した。
「はぁ……はぁ……っ」
苦しそうに体を折り曲げた灰英を横目に、水越は彼の脇をすり抜けた。
わずかに肩越しに向けられた野性的な瞳に、灰英の体は限界を迎えたかのように頽れた。
砂利に膝をつき、未だに収まらない動悸に苦しみながら、上目遣いで水越を見上げた。
「先に戻るぞ……。ここは蛇神様の聖域 だ。眷属であるお前のすべては筒抜けてる。少しは自重しろ」
そう短く言い捨てて足早に去っていく彼の背中を恨めし気に見つめていた灰英は、掌で砂利を思い切り掴むとその背中に向かって投げつけていた。
届くはずのない小石がパラパラと音を立てて地面に飛び散った。
「くそ……っ」
そして――どこからともなく訪れた静寂が、灰英の不安な心をまた大きく揺さぶるのだった。
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