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【2】
大祭までの期間、村人に姿を見せることを禁じられている花嫁は、蛇水神社の敷地内にある離れで生活する。
そこは灰英が住む自宅とは垣根一枚を隔てた距離で、隣接してはいるが周囲には注連縄が張り巡らされた聖域とされている。
食事や身の回りの世話は宮司である灰英がすべて行う。花嫁に関しては第三者の介入が認められていない。それはいずれ、この世界から人知れずいなくなる者であることを意味していた。
花嫁を輩出した家や親族には箝口令が敷かれる。だから村人の間では、この時期になると『今年の花嫁は誰だ?』という話題で持ちきりになるが、弥白の祖父は素知らぬふりを突き通さねばならなかった。しかし、祖父にとって何年も前に村を捨てた孫のことなど、正直どうでも良かった。それよりも息子である弥白の父を貶め、他に男を作って出て行った女の子供であると思うだけで苛立ちが募り、いっそこの手で殺めてやろうかと思ったくらいだった。自身の手を忌々しい孫の殺害に汚すぐらいならば、いっそ村に伝わる蛇神伝説に便乗して花嫁として献上すればいい。そうすることで自分の罪は免れる――と。
ある日、ふらりと神社に現れた弥白の祖父からその話を聞いた灰英は怒りに身を震わせた。
毎回、花嫁の選出に頭を悩ませていたことは認めるが、血の繋がった孫を生贄に捧げるというのは如何なものだろう。
それに、弥白は灰英にとって全く知らない存在ではない。むしろ、出来ることならば自分のものにしたいと思うほど恋い焦がれている。祖父が弥白にどう説明したのかは分からないが、この事実は墓まで持って行こうと決めていた。だが、祖父の代わりに弥白を殺めるのは灰英自身だ。蛇神守として主である蛇神に花嫁を捧げるという行為こそが、間接的ではあるが弥白を殺すも同然の所業なのだ。
自室で身支度を済ませた灰英は、等身大の鏡に映る自身の姿を見つめたまま動きを止めた。
白衣の襟元からちらりとのぞいた灰色の蛇の顔。それを慌てて隠す様に襟元を合わせると、薄い唇をギュッと噛みしめた。
前宮司だった父親でも成し得なかったこと――灰英は生まれた時からその体に霊力を身に付けていた。それ故に、蛇神との交信役として幼い頃からこの神社に務めてきた。そして、眷属としての契りを交わした。
しなやかな筋肉に覆われた肩から背中を経て、腰に巻きつくように彫られた灰色の蛇。灰英が俗世を捨てた証拠だった。
そのことは誰にも話していない。唯一、この霊力と刺青のことを知っているのは水越だけだ。
この恐ろしい蛇の刺青を弥白が見たら、どんな顔をするだろう。きっと恐怖に身を震わせ、自身の元から去っていくに決まっている。
これだけは絶対に彼に知られたくない――。
俯き加減に部屋を出ようとした時、廊下に人の気配を感じてその動きを止めた。
「――そろそろ沐浴の時間じゃないのか?」
低い声に弾かれるように顔をあげると、そこには水越が立っていた。彼は取材中、灰英の自宅に寝泊りしているのだ。
「分かっています。これから……」
「朝昼晩、花嫁が山からの清流で体を清める大切な務めだ。お前がそれを怠ってどうする」
「だからっ! これから行くって言ってるだろっ」
いちいち言葉を挟む彼にイラつきを隠せずに声を荒らげた。
どこにも吐き出すことの出来ない苛立ちが澱のように淀み、心を蝕んでいく。弥白の祖父の言葉、愛する人を生贄として捧げること、そして――蛇神に逆らうことが出来ない自分自身に憤りを感じていた。
顔を背け、ギュッと握った拳の行き所を探しながら、灰英は水越の脇を通り過ぎようとした。
その時、灰英の二の腕を彼の大きな手が強く掴んだ。
「離せよ……」
「何を苛立っている? お前らしくないぞ」
「俺らしいって……何だよ」
鋭い目で水越を見つめた灰英は、廊下の柱に凭れかかるように背を預けると力なく笑った。
「――自分に腹が立って仕方ないんだよ。貴方には分からないだろうけど」
上目づかいで見た灰英の前に向かい合うように立った水越は、突然彼の両手を頭上に掴みあげると、柱に力任せに押し付けた。
まるで罪人が張り付けにでもされているような自身の姿に、灰英は小さく息を呑んだ。
「何をする……ぅぐっ」
言いかけた灰英の唇を塞ぐように自身の唇を重ねた水越は、厚い舌をねっとりと絡ませながら彼の口内を犯した。歯列をなぞり、逃げようとする舌を誘うように自身の舌を絡め、どちらのものとも分からない唾液を啜り上げた。
「んふっ……ううっ」
堪えていても自然と漏れてしまう吐息に、灰英は押さえつけられている柱に爪を立てた。
水越とのキスはこれが初めてではなかった。今までに何度も――。
しかし、それだけではなかった。幾度となく重ねた体は、すぐに彼の匂いと感触を蘇らせて昂ぶっていく。
感情は何もない。その意に反して体は彼を求めてしまう。
角度を何度も変えながら交わされるキスは、灰英の思考を曖昧なものへと変えていく。
絡まった舌先にわずかな痺れを感じ、まるで媚薬でも飲まされているかのように体がいうことを聞かない。
クチュクチュと卑猥な水音を立てながら糸を引く唾液が、唇の端からつつっと溢れ流れた。
水越の厚い胸板が密着し、灰英は不自然に膨らんだ下肢を彼の腿に押し付けていた。
クチャッ……と音を立てて離れた水越の濡れた唇を虚ろな目で見つめながら、灰英は荒い息を繰り返した。
柱に押さえつけられていた両手が解かれ自由になっても、灰英はその手をおろす事さえも忘れていた。
「――少し落ち着け。お前の気が乱れれば蛇神も穏やかではなくなる。いつでも繋がっていることを忘れるな」
「黒芭……」
「俺に何の感情も抱かないお前が弥白のことで想い悩んでいる姿は正直……見ている方がツライ。俺のモノだと言い切れない苛立ちと弥白に対する嫉妬心。だが……この俺も弥白に惹かれつつあるのは否めない」
「え……」
「気づかないのか? 彼の内に秘められた魔性……。なぜだろうな……初めて会った気がしない」
水越は優しく灰英の唇を啄みながら、音を発することなく呟いた。
だらりと力なく下された灰英の手を握り締め、水越は小さく笑った。
彼に流し込まれた唾液をゆっくりと嚥下しながら、灰英はぼんやりとした視界のまま顔を逸らした。
「――俺の片想いは絶望的だ。しかも、ライバルが貴方だなんて……」
「安心しろ。フラれたら慰めてやる。そしたら素直に俺のモノになればいい」
耳朶を甘噛みしていた水越は意味ありげにそう囁き、灰英の白衣の襟元に指先を引っ掛けて肩を露わにすると、肌に浮かび上がるように彫られた碧眼の蛇にそっと歯を立てた。
「あぁ……っ」
ブルブルと身を震わせながら水越のシャツを掴んだ灰英の口から甘い吐息が漏れた。
「もっと素直になれば可愛いのに……」
水越はその場に両膝を突くと、整えたばかりの灰英の袴の紐を解いた。
スルリと衣擦れの音と共に現れた蜜で濡れそぼった下着を見つめ、ゆっくりと唇を舐めた。
「このままじゃ、お勤めはムリだな……」
下着のウエストに手を掛けた水越はゆっくりと下着をおろすと、弾かれるように飛び出したペニスに目を輝かせた。キスだけでたっぷりと溢れた透明の蜜は鈴口から糸を引き、真っ赤に充血した茎はヒクヒクと震えていた。
「神職につく者がこんなにイヤらしいとは……。俺は嫌いじゃない……」
フッと闇を含んだ笑みを浮かべ、水越はそれを舌先で掬うように舐め上げた。
「んあぁぁ……っ」
大切そうに茎に手を添えて、それを咥えた水越は野性的な目をすっと細めた。
灰英のペニスに絡みつく舌はまるで蛇のようで、そこから湧きあがる快感に背を大きくしならせたまま顎を上向けて熱い息と甘い声をあげ続けた。
(違う……。こんなはずじゃ……ないっ)
快楽で充満する脳内のわずかな隙間に追いやられた理性。そこで、突き付けられた現実をなかったことにしようとする自分。そうすればもっと楽に生きられる……。そう――水越に愛されながら。
でも、幼い頃から育んできた弥白への想いは消えることはなかった。
兄のように慕い、愛らしい笑顔を見せる弥白の姿がちらつく。
水越から与えられる強烈な口淫での悦楽。閉じた瞼の裏でいくつもの光が点滅する。
その合間にサブリミナル効果のように脳に直接焼き付けられる弥白の姿。
(俺はどうすればいい……?)
何度も問うて、逸れた気を快感に引き戻される。
冷たい廊下の床板にきつく丸めた足指が食い込む。
「はぁ……はぁ……っ。く、黒芭……っ」
彼の漆黒の髪に指を埋め、腰をゆらりと揺らした瞬間、体の中に渦巻いていた熱が前触れなく隘路を一気に駆け上がった。
「イク……イクッ! んあぁぁぁっ!」
大量の精液を水越の喉奥に叩きつけた灰英は、小刻みに痙攣を繰り返したままその場に尻をついた。
白衣を乱し、下半身を露わにしたままぐったりと力なく柱に凭れる彼を見下ろしたのは、口内に放たれた白濁を美味そうに嚥下する水越だった。
唇についた残滓を舌先で舐めとると、汗で張り付いた額の髪をそっと指で払い除けてやる。
「――弥白を手に入れたとしても、お前を手放す気はないから安心しろ。今までと変わりなく可愛がってやる」
そう呟いた水越は、捲れた白衣の裾から手を差し入れると、灰英の腰に巻きついた蛇を愛でるかのように撫でた。
きめの細かいさらりとした肌に、ねっとりと絡みつく水越の指先。
そのひんやりと冷たい感触に、灰英は薄れゆく意識の中で抗うことなくすべてを委ねていた。
*****
この村に来て二日目の朝。
弥白は慣れない寝具のせいか、やや寝不足気味な顔で枕もとに用意されていた白い着物に腕を通した。
都内では想像できないような静けさと、凛とした澄んだ空気に包まれたここは全く息苦しさを感じない。
花嫁が滞在するこの離れも、小さくはあるが木造のしっかりとした造りで、微かにヒノキの香りが漂い、自然と気持ちを穏やかにしていった。
何か用事があれば、生け垣を挟んだすぐ隣に灰英がいるという安心感もあった。
まだ新しい香りを放つ畳を踏みしめて、身に付けていた下着に手をかけて一瞬だけ躊躇する。
全裸に薄い着物を一枚羽織るだけという格好に抵抗があったからだ。昨夜も同様に清めの沐浴を行ったのだが、周囲が闇に包まれていたこともあり、自身の姿を灰英に見られなくて済んだ。
男性特有の朝勃ちも治まっていない今、着物の合わせ目を不自然に盛り上げる自分のペニスをぐっと両手で抑え込みながら、天井を仰いで深呼吸を繰り返した。
「なんだか恥ずかしいな……」
ボソリと呟いて障子戸を細く開けると、木々の隙間を縫うように差し込んだ朝日が広い境内を照らしていた。
前面に敷かれた細かい白砂利がその光を反射し、何度か建て替えを行った本殿の白木の柱をより美しく神聖なるものに見せた。
夏も終わりに近いとはいえ、日中はまだ暑く汗ばむ陽気だ。でも、朝の外気に晒された板張りの廊下は冷たく、足を踏みだして小さく息を呑む。間もなく灰英も来る頃だろうと、玄関で草履に履き替えて外に出た。冴え冴えとした空気を肺一杯に吸い込んで、弥白は誰もいない境内を見回した。
朱色の大きな鳥居、苔生した長い階段。入り口の両脇に配されているのは狛犬ではなく、向かい合うようにして大きな口を開けてトグロを巻く一対の蛇。幼い頃はこの蛇が動き出すのではないかと、目を瞑って通り過ぎたものだ。そんな時は必ず灰英が手を引いてくれた。
遊び場として慣れ親しんだこの境内も、いざ死を目前にしてみると、また違った光景になる。
明後日には、蛇神の花嫁となってこの世からいなくなる。
自分一人がいなくなったところで、世界は何も変わらない。ただ……最期に、灰英にだけは想いを伝えたい。
そんなことが許されるかどうかは分からないが、弥白はそう心に決めていた。
慣れない草履で白砂利に足を取られながらゆっくり本殿の方へと向かった。
山から流れ出る清水の滝は、本殿の裏手を少し上がった場所にある。そこは木々に囲まれた岩場になっており、昔の地層の名残か、大きな花こう岩が積み重なっている。鬱蒼とした中で突如として現れる白い岩肌が、まるで違う世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こす。
十メートルほどの高さから流れ落ちる滝は細い。滝壺も大人の膝上ぐらいの水位ではあるが、長雨や台風のあとは水量も水嵩も増える。
太陽の光の角度によって、その水は青や緑に変わる。普段は観光客の見学コースになっているこの場所も、今は弥白と灰英しか足を踏み入れることは出来ない。この滝の下にはあの蛇神を封じている洞窟があると言われているからだ。
本殿を横目に、きれいに整備された小道をゆっくりと上がっていく。滝の入口に設けられた石の鳥居にかけられた注連縄を見上げた時、背後で砂利を踏む音が聞こえ、勢いよく振り返った。
「――久しぶりだな。弥白」
朝の神聖な空気を乱すようなしゃがれ声に、弥白は大きく目を見開いたまま動きを止めた。
慌てて着物の胸元をかき合わせ、その声の主を睨みつけた。
「どうして……ここにっ」
まるで弥白が離れから出てくるのを待ち構えていたかのようなタイミングで姿を現したのは、灰英の従弟で蛇神守の一族である水神 正幸 だった。
灰英の父親と正幸の父親は兄弟であるが、昔から折り合いが悪く、同じ村に住んでいながら顔を合わせることがなかった。正幸の父親は地位と権力、そして金に固執する傾向があり、村長選挙に出馬した時などはあらゆる方面に金をばら撒いて票を集めたという経緯がある。それだけではない。先祖代々続いた蛇神守の地位を利用して、土地の買収やリゾート開発企業と勝手に提携し、この村をリゾート地として売り出そうと画策していた。それを知った灰英の父親は、そんな弟に蛇水神社を任せてはおけないと、自分亡きあとの後継として息子である灰英を指名したのだ。その直後、灰英の両親は事故死した。
宮司の後継者を灰英にしたことで、激怒した彼が灰英の両親を事故に見せかけて殺したのではないか……と、まことしやかに囁かれたが、それも時間の流れと共に消えてなくなった。
正幸もまた父親の血を純粋に受け継ぎ、学生時代から素行が悪く、裏口入学で入った高校も中退している。
弥白とは幼馴染ではあるが、事あるごとにいじめられていた。正幸の機嫌次第でいじめの内容は違ったが、酷い時には古い納屋に閉じ込められたこともあった。
思い出したくもない記憶が一気に蘇り、弥白は奥歯を噛みしめたまま後ずさりした。
「今年の花嫁は弥白だって噂を聞いて来てみたんだが……。本当だったみたいだな」
「誰がそんな噂を……。花嫁のことは誰にも知らされていないはずじゃっ」
「俺を誰だと思っている? 水神家の一族だぞ? そんな情報、簡単に耳に入ってくる」
ここの宮司である灰英が安易に情報を流すとは思えない。弥白が花嫁になることを知っているのは祖父と、灰英の大学の先輩だという水越黒芭というフリーライターしかいない。
疑うわけではないが、昨日初めて会ったばかりで、彼がどんな人物なのかよく分かっていない。
正幸は弥白との距離をじりじりと詰め、上から下まで舐めまわす様に見つめている。
「へぇ……。随分な色気だな。東京でいろいろ仕込まれてきたか?」
弥白が薄い着物一枚だけしか身に付けていないと気づいた正幸は、舌なめずりをするように下卑た笑みを浮かべた。
「男のくせにガキの頃から妙な色気を振りまいてたよな?」
「来るな……。ここは蛇神様の神聖な場所だぞっ」
「その蛇神を鎮めたのは水神家の先祖だ。蛇神守に逆らうことなんか出来ないんだよ」
「何を……っ」
正幸の鋭い目が弥白を絡め取った。蘇ってくる幼い頃の恐怖に足がすくみ、緊張で喉が急激に渇き始め声も出ない。まるで蛇のような目で見つめられるだけで全身が震えはじめる。
「く……来るなっ」
掠れた声で言ってはみるが、正幸はまるで聞こえないかのように弥白との距離を詰め、ついには乱暴に腕を掴まれて腕の中に抱き込まれてしまった。
「離せ……っ。触るな!」
彼の手が乱暴に体のラインに沿って上下に這い回る。その手の感触に背筋に冷たいものが流れ、全身に鳥肌が立った。
「やめろ……。離せって言ってる、だろっ」
「お前が俺に指図するのか? また、あの時みたいに暗い納屋に閉じ込めてやろうか? いい歳して、ションベン漏らしながら泣き喚いて……。ククッ……「灰英、助けてぇ~!」ってか」
思い出したくもない過去を持ち出して笑う彼に、弥白は悔しさと恐ろしさで涙を滲ませた。
あの時から暗く狭い場所がトラウマになってしまった。何より幼心に傷をつけたのは、好きな灰英に粗相したところを見られたことだった。
あれほどの羞恥は今までにない。彼はもう忘れているかもしれないが、弥白の心の中に根強く住みついて離れない忌まわしい過去。
「――なぁ、蛇神に嫁ぐ前に一発やらせろや」
薄い生地越しに露わになった臀部を鷲掴みにして、酒臭い息を耳に吹きかける。
弥白は吐き気を催して小さくえずきながらも、正幸の体を押し退けようと腕を伸ばした。
「無駄なことはやめとけ。お前みたいな弱虫に俺を突き飛ばす力なんてないんだから。気持ちよくさせてやるよ……。具合が良かったら俺のペットにしてやってもいいぜ?」
「やだ……。お前なんか……に、誰が……」
「往生際が悪いな。それとも――お前が大好きな灰英の前で犯されたいか?」
大祭の前に体を穢されたとなれば、きっと蛇神の祟りは免れない。昔語りのように山が狂い水が荒れ、この村は壊滅する。その原因が処女と偽って花嫁として献上された弥白だと知られれば、宮司である灰英が責められる。
蛇神に捧げる大切な供物の管理は、蛇神守である彼の責任でもあるからだ。
正幸はきっと、父親の力を使って自身が犯した罪を揉み消すだろう。それに加え、灰英が花嫁を寝取ったと言い出しかねない。そうなれば灰英はこの村にはいられなくなる。
「いや……っ。灰英は……関係ないっ」
「男であるお前が男に犯されるところなんて滅多に見れるもんじゃないぜ? 灰英もそれ見て、シコッてたら最高だよなっ」
正幸の手が無躾に着物の合わせを割って忍び込む。冷たい手が腿の内側をするりと撫でた瞬間、弥白は全身の血の気が引くのを感じて、目の前が真っ暗になった。
心臓を鷲掴みされたような息苦しさに訳も分からずに喘ぐ。開いているはずの瞳には周りの景色は映っていない。弥白の勝ち気な栗色の瞳に映っていたのは、幾度となく見てきた夢の光景。
乱暴に着物を乱され、喉元に唇を押し当てられる。力強く吸われるとチリリとした痛みが走り、それと同時にとてつもない虚無感と背徳感に襲われ、体がガクガクと震え始めた。
「いや……だ。我に……触れる……な」
自分でも信じられないような低い声が喉の奥から絞り出されるように発せられた。頭では早く逃げなければと思うのに、体はそれに反して闇雲に這い回る手の感触に打ち震えている。
快楽を誘い、快楽に酔う……。
弥白の中に住まう、もう一人の弥白――心と体がバラバラになる。その瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
「――正幸っ! 花嫁から離れろ!」
怒声ともとれる鋭い声が朝の境内に響き渡った。その声に、沈みかけていた弥白の意識がハッキリと戻った。
赤く染まった視界がパッと鮮やかな緑を取り込んで、ふらりと体が揺れる。
「は、灰英……」
勢いよく砂利を蹴りながら二人の元に近づいたのは灰英だった。普段は穏やかなその表情を修羅のように昂ぶらせ、正幸の手首を思い切り掴んで弥白の体から引き剥がすと、その場にねじ伏せるように地面に叩きつけた。
「――ってぇ! 何すんだよっ」
「それはこちらのセリフだ。なぜ、お前がここにいる?」
どこまでも冷たい視線で正幸を見下ろした灰英は、その場に力なくうずくまった弥白に気付くと足早に彼に近づいて抱き寄せた。
涙で濡れた長い睫毛、未だに小刻みに震える体。どれほどの恐怖を味わったのかと思い胸が苦しくなった。
「弥白が帰って来たって言うから……。久しぶりに幼馴染の顔を見に来ちゃいけないのかよ!」
「今のは顔を見に来た……という雰囲気ではなかった。お前、何を考えている? 蛇神様に献上する花嫁に安易に触れるなど、絶対に許されることではないぞ!」
「俺だって水神の血族だぞ! 宮司になったからってデカい口叩くなよっ」
「――お前を血族だと思ったことは一度もない! 親父も死ぬ前に、お前たちとは絶縁したはずだ!」
「そんなこと知らねえよ! 言っとくけど、この神社が今までやってこれたのは親父のおかげだってこと忘れたわけじゃないだろうな? 献金が集まるのは親父の口利きがあるからこそだってこと。成り上がり宮司のお前がスポンサーである俺に向かって文句言える立場じゃねぇんだよ」
「――別に頼んでいない」
「なにっ!」
ムキになって体を起した正幸に、灰英は鋭い声で一喝した。
「帰れっ! 二度とここには来るな」
「なんだと?」
「大切な清めの時間だ。花嫁の気を乱すことは蛇神様の気をも乱す。そんなことは、この俺が許さん……」
それまで太陽の眩い光を湛えていた空に雲が流れ、境内を吹き抜ける風も冷たくなった。
うす雲は次第に厚さを増し、蛇水神社の上を覆い尽くした。
どこからともなく聞こえ始めた地鳴りに、正幸は舌打ちをした。
「――蛇神様に気付かれたようだ。さっさと身を引け……命が惜しければな」
「ハッ! 迷信だの伝説だのに振り回されやがって! この村の奴らはバカばっかりだな!」
不穏な空気に気圧されたのか、正幸は空を見上げながら吐き捨てるように言うと、砂利を蹴散らしながら逃げるようにして去っていった。
彼の背中を見送り、ホッと肩の力を抜いた灰英は腕の中でぐったりと目を閉じたままの弥白に声をかけた。
「弥白……。大丈夫か?」
小さな滴を揺らしながら瞼を上げた弥白は、すぐ近くにあった灰英の顔に小さく息をついて、微かに頷いて見せた。
「すまない。俺のせいだ……」
「ううん。灰英を待っていればこんな事にはならなかった。勝手にここに来ちゃった俺がいけない」
「いいや。境内に正幸が入ってきたことに気付くのが遅れた。――結界が緩んだか」
「え?」
「いや、なんでもない。立てるか?」
はだけた着物の裾を合わせ、灰英の肩に手をかけてゆっくりと立ち上った弥白だったが、短い眩暈を覚えて再び彼にしがみついた。
乱れた着物の襟から覗いた白い首筋に、灰英は強烈な色香を見せつけられたような気がしてゴクリと唾を呑み込んだ。
昨日、何年かぶりに再会した弥白とはどこか様子が違っていた。その証拠に、弥白の肌が透明度を増しているように見えた。そして、滑らかな肌から香るのは男を誘う麝香の香り。
離れには香炉などは一切置いていない。それなのに、これほどの香りを発するのはなぜだろう。
正幸がつけていた香水の残り香かと思ったが、それとも違っていた。
「弥白……」
「ごめん……。ちょっとふらついちゃって。沐浴、してくる」
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫……」
弥白は正幸の体から離れると、まだふらつく足どりで坂道を上っていた。
その背中を追いかけるように足を踏みだした灰英だったが、本殿の陰に水越の姿を捉えて足を止めた。
「黒芭……っ」
「――水神の一族か。少し用心した方がいいな……。アイツの気は胸をざわつかせる」
ボソリと呟いた彼はそのまま姿を消した。
神社の上空を覆っていた厚い雲はみるみる風に押し流され、再び太陽の光が差し込み始めた。
透き通った青空が山に囲まれた狭い空間に徐々に広がっていく。
灰英は小さく吐息して、白衣の襟元をギュッと掴んだ。
昨夜、水越に歯を立てられた背中の傷がズクリと疼き、わずかに顔を顰めた。
背中でうねる灰色の蛇を恐れることなく喰らう水越の存在に、灰英は脅威と複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
そして、もう一つ。彼には気がかりなことがあった。先程、正幸に襲われていた時に弥白が放った強大な気。
灰英が威嚇の為に呼んだ暗雲とはまた違う力が間違いなく動いたのだ。
滝の下に封じられた蛇神の眠りを妨げた怒りか、それとも――。
ゆっくりと振り返り、黒芭がいた本殿の方を見つめる。小鳥の囀りが重なるように静かな境内に響いていた。
「貴方の真意……とは」
誰に問うでもなく小さく呟いた灰英は、襟元を正しながら石積みの鳥居をくぐり抜けた。
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