12 / 12

【11】

 翌日、村中を駆け巡ったのは水神家の訃報だった。  正幸の父、水神(みずかみ)要介(ようすけ)は都内のホテルの一室で死体で見つかった。死因は急性心不全。  そして、その妻と祖父は村内にある自宅で謎の死を遂げた。彼女たちの傍らにはなぜか大量の藁が散らかっていたという。死因は明らかになっていないが、村人たちは口々に『蛇神様の祟り』だと囁いた。  それから二日後――正幸の死体が都内某所の地下通路で発見された。薬物の過剰摂取による中毒死。  遺体の周囲には自身が使っていたと思われる違法薬物のパッケージが残されていた。  彼らの死に伴い、密かに進められていた村のリゾート開発の話は立ち消えとなり、買収されていた家々も元の持ち主へと返還された。  蛇神守の血を継ぐ兄弟でありながら、互いに憎み合い、諍いが絶えなかった水神家。  意識を取り戻した弥白の口から告げられた灰英の両親の死の真相。  それでも、灰英は水神家の最後の生き残りとして毅然とした態度で彼らを弔った。  しかし、何より彼らに境内に足を踏み入れられることを嫌っていた父親の遺志を尊重すべく、遺骨は他の場所へと埋葬された。  すべてを終えた灰英の表情は、多少の疲れは感じていたものの、今までの憂いはどこにも見当たらなかった。 「――ありがとう」  神殿の廊下に佇み、その美しい眼差しを山から流れる清水に注いでいる弥白の背中に向かい深く頭を下げた。  その気配に気づいた弥白がゆっくりと振り返る。 「灰英……?」 「――全部、終わったよ……」  彼のもとに近づいた灰英に向き直った弥白は小さく微笑みながら、白い絹の着物の袂を気にしつつ、最愛の幼馴染の頬にそっと手を添えた。 「お疲れ様……」  その笑顔は、灰英が幾度となく心を揺さぶられた愛らしい表情。  細い腰に手を回し優しく引き寄せると、恥じらうように目を伏せて顔を背ける。 「――お前は邪神なんかじゃない」  薄桃色に染まった耳朶を甘く咬みながら囁く。その言葉に、はっと息を呑んで顔を上げた弥白を、透き通った青い双眸が見つめた。  以前よりも少し伸びた灰色の前髪がわずかに俯いた彼の表情に影を落とす。 「俺の力が彼らを殺めた……」 「お前が殺めたんじゃない。罰が当たっただけだ……」 「灰英……」 「村の鎮守である蛇神様にあんな暴言を吐けば、罰が当たるに決まってるだろ。それだけじゃない……。この神社の宮司を死に至らしめ、お前を――」  言いかけた灰英の唇を塞いだのは、背伸びをした弥白の薄い唇だった。  拙いと思っていた舌先が、灰英の歯列をゆっくりとなぞり、紡がれるであろう言葉を絡め取るように唾液と共に飲み込んだ。  思い出すには酷すぎる正幸との交わり。それを完全に記憶の中から消すことは出来ない。 しかし、それを思い出す必要がなくなった今、弥白は灰英の記憶からそれを抹消する事も出来た。でも、あえてそうしなかったのは、過去があって今の自分があるということに気付いたからだ。 彼らがいなければ、こうやって灰英と向き合っていることはなかっただろう。 逃げ道ばかりを探して彷徨い、出口が見つからないから死を選ぶという短絡的な人生の繰り返し。 そんな弥白を導いたのは灰英であり、苦しみ迷い続けてきた灰英を導く扉を開けたのは弥白なのだ。  狼狽える灰英を宥めるように何度も唇を啄みながら離れた弥白は、唇が触れ合う距離で囁いた。 「こんな俺は……嫌い?」  誘うように体から放たれる麝香の香りに、灰英はゴクリと唾を呑んだ。 「いつも灰英は俺を助けてくれた。だから……今度は俺がお前の苦しみを背負った。二度と苦しむことがないように……俺がそばにいる」 「弥白……」 「おかしいよね……。何度も体を重ねているのに、心臓がドキドキするんだよ。これってさ――」  照れたように俯いて肩をすくめて笑った弥白だったが、ふと何かを思い出したように顔を上げて、紅の瞳を輝かせた。 「人間であった時の心を失っていないってことだよね。灰英の腕の中って癒される……。いい匂いがして、ずっと安心していられる。このまま時が止まればいいって何度も思った」  髪と瞳の色以外、何一つ変わっていない弥白。その奔放な口調も灰英にとって安心できる要素の一つだった。  細い背中に両手を回して強く抱き寄せる。  嬉しそうに目を閉じて、白衣に頬を寄せるその表情からは、あの時のような憂いは感じられない。  玄白を宿した器が満たされている証拠だ。 「時間なんて止める必要ないだろ……。いつだって、そばにいる。いつだってこうして抱きしめてやれる。神々の世界に時間という概念はない」 「灰英……」 「でもな――時代は変わっていく。確実に動き続けていくんだ……。それに取り残されるような時代錯誤な神様じゃ、俺たちを頼ってくれる者たちのニーズには応えられない。俺もお前も……人間の心を持っているからこそ、人々と向き合える。だから……ずっとこのままでいてくれ」  弥白は小さく頷くと、もう一度爪先立ちになって灰英の唇に自身の唇を重ねた。  わずかに身を屈め弥白の腰を抱き寄せた灰英の耳に、本殿の方から参拝者が鳴らす本坪鈴(ほんつぼすず)の音が聞こえた。  それに気づいた弥白は自ら唇を遠ざけると、灰英の白衣の襟元に手を添えて綺麗に整えてやった。 「――いってらっしゃい」 「あぁ……」  愛する弥白との時間に水を差された灰英ではあったが、その心は晴れ晴れとしていた。  後ろ髪を引かれながらも腰に回していた手を解くと、弥白に背を向けて本殿の方へと歩き出した。  本来の神の姿を封じ、人間であった時の様相に変わっていく灰英の広い背中を見送りながら、弥白は心の底から湧きあがってくる幸福感に心を躍らせた。 「クスッ。まるで新婚の夫婦みたいだね……」  そう言いながら口元に手を当てて笑う弥白に気付き、肩越しに振り返った灰英は低く、そして甘い声で言った。 「――新婚だろーが」  照れ隠しなのか、濃い栗色の髪を乱暴に掻き上げて、意思のある黒い瞳をすっと細めた。  薄い唇の片方をくいっと引き揚げて笑う彼に、弥白は再び心臓がトクン……と跳ねるのを感じた。  *****    黒芭と灰英に伴侶として迎えられてから数週間が経ったある日。  蛇水神社の境内に不穏な空気が流れていた。  白い玉砂利を踏みしめて、本殿の向拝に近づいたのは白髪頭の老いた男性だった。  彼はおもむろにその場に両膝をついて、敷石に頭を擦りつけて泣き始めたのだ。  それに気づいた灰英が彼のもとに近づくと、その動きを止めて息を呑んだ。 「戸倉さん……」  灰英の声に目を真っ赤に腫らした彼が弾かれるように顔を上げた。 「水神さ……ん」 「一体、どうしたって言うんですか? 何があったんですかっ」  その男性は皺だらけの手で乱暴に涙を拭いながら、嗚咽を堪えきれずに何度も肩を揺らした。  彼の名は戸倉(とくら)幸一(こういち)――弥白の祖父だった。 「俺は……とんでもないことをしちまった。弥白を……弥白をっ」 「ちょっと、落ち着きましょう! あちらでお話をお伺いしますよ?」 「いいや……。俺はただ謝りに来ただけなんだよ。弥白は蛇神様に……本当に……食われちまったのかい?」  幸一の問いに、一瞬戸惑った灰英だったが、小さく吐息して彼の傍らにしゃがみ込むと、痩せこけた細い背中を掌で擦ってやった。 「蛇神様がそんなことするはずがないでしょう? 弥白は……花嫁として彼のもとで幸せに暮らしていますよ」 『蛇神祭』で蛇神に献上される花嫁として弥白を推薦したのは彼自身だ。それを聞いた時、灰英は怒りに身を震わせた。身勝手な両親に振り回され、生きることも絶望してこの村に戻ってきた弥白のことを思うと、今でも胸が痛む。灰英は幸一に何度も理由を問いただした。しかし、彼は頑なに口を閉ざし「両親の許可は貰っている」とだけ告げた。  花嫁になることを回避させようと、あらゆる手を尽くした灰英だったが、代わりになる花嫁も見つからず、真剣に弥白を連れてこの村から逃げ出そうとも考えた。しかし、運命の日は訪れてしまった。  祭りの当日、村の沿道に幸一の姿はなかった。たった一人の孫を蛇神に生贄として差し出した張本人――おそらく、弥白にその姿を見せることも憚られたのだろう。 そんな非情な彼が蛇神祭が終わった後で、泣きながらここを訪れるとは思ってもいなかった。両親だけでなく祖父にまでも捨てられ、自分は不必要な人間なのだと心を閉ざしてしまった弥白に対し、今更何を謝ることがあるのだろうという気持ちは拭えなかった。 「他の花嫁は皆……誰一人として戻ってきておらん。皆、蛇神様に食われちまったって……」 「幸一さん……」  灰英は項垂れる彼の背中に手を添えたまま、わざと大袈裟にため息をついた。 「――古くからの言い伝えを誇張したがる者は大勢います。確かに、花嫁としてここに来た者たちは戻ってはいません。しかし、彼らは皆、心に深い傷を負っていた。そう、弥白みたいにね……。この世界にいる以上、その傷は死ぬまで癒されることはない。だからね……蛇神様は八百万の神々に彼らを託しているんですよ。神様の世界では心を静め、穏やかに暮らしていける。『神隠し』ってご存知ですかね?」 「あぁ……」 「この世界のどこかにある神の世界への扉。それを開くことが出来るのは、花嫁として献上された人たちなんですよ。信仰を忘れ、神の存在を否定する者には見ることの出来ない世界。そこに、弥白はいるんです……」  黒芭たちと契りを交わし蛇神となった弥白の姿は人間には見ることが出来ない。ただ、灰英や黒芭のように安定した力をコントロール出来るようになれば、限りなく今までと変わらない生活が送れる。  ただ今は、人間であった体が神のものへと作り変えられたばかりで、体も心も不安定なままなのだ。  その力を使えるようになるのは数年先――いや、もっとかかるかもしれない。  その間、洞窟の奥にある神殿を住処とし、結界内であるこの社から出ることは出来ないのだ。 「弥白は……生きて、いるんだな?」 「ええ……。美しい花嫁でしたから、蛇神様にさぞ溺愛されていることでしょう」 「――そうか。幸せなのか……弥白は」 「ええ……。自分の存在を自身で否定せざるを得ない世界に身を置いているよりは、はるかに幸せだと思いますよ」  幸一は何度も鼻を啜り上げながら、玉砂利を掴みよせた。  皺だらけの手が微かに震え、何度も口を開きかけて言い淀んでいる。  それを辛抱強く待ち続けていた灰英に心を開いたのか、幸一は重々しくも口を開いた。 「俺は――怖くなったんだよ。倅が……まさか、あんなことを言い出すとは」 「倅? 弥白のお父さん……ですか?」  家を出た妻を追うように弥白と共に上京したところまでは聞いている。確か、弥白が高校進学と同時に彼のもとを離れ、今は家にも近寄ることをせず音信不通になっていた。  灰英は前触れなく出てきた彼の話題を訝るように鋭く目を細めた。 「あぁ……。弥白が家を出て行ったあと、都内で女とギャンブルに溺れて多額の借金を抱えてな……。それを払うためには弥白にかけた保険金しかないって……。自分の息子を事故に見せかけて殺すつもりでいたんだ、あいつは……。だから……俺はっ」 「まさか……」 「たった一人しかいない可愛い孫を失うことなど出来るもんかっ! あんな出来損ないの倅の手にかかって命を落とすぐらいなら、蛇神様のもとで……って。俺は……なんてことをしちまったんだ。弥白に……酷いことを……っ。俺が助けてやることが出来たら……こんな事にはならなかった!」  最後の方ははっきりと聞き取ることが出来ないほど声を震わせた。 今日、幸一がここを訪れた理由――それは、それまで胸に秘め続けていた苦しみからの解放。 弥白が嫁いだ蛇神への告解と懺悔。  白木の階段の根元に敷かれた石板の上にいくつもの涙が零れては滲んでいく。 「弥白……。俺は地獄に落ちる覚悟は出来ている。だが……お前だけは、幸せに……なってほしい」  驚愕の告白に、灰英は動くことが出来なかった。  どこまで弥白は不幸な人々に囲まれて生きてきたのだろう――と。  幼い頃、無邪気に笑いながら自分の後を追いかけてきた彼からは想像出来ない苦しみの数々。  そうなると、彼の中に宿っていた虚無感は、玄白が原因であったとは一概に言い切れない。  過去、現在の幾多の苦しみや苦悩が入り混じり、彼を死へと向かわせていたのだと。  しかし、命を絶ったところでそれは何の解決にもならないことは、弥白自身が一番よく分かっていたはずだ。  ただ、それに立ち向かう強さがほんの少し足りなかっただけだったと思いたい。  灰英は自身の気を落ち着かせようと、大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。  気の乱れは、伴侶である黒芭や弥白にもすぐに気づかれてしまう。  おそらくではあるが、もう――彼らの耳には届いてしまっているはずだ。 「戸倉さん……」  ゆったりと息を吐きながら、努めて落ち着いた口調で灰英は言った。 「貴方がしたことは、弥白の幸せを願ってしたこと……なんですよね? それに、息子さんも一生背負っていかなければならない犯罪者という汚名を被ることなく今を生きてる。貴方が今日、ここに来たことで赦されたと思ってください。弥白もきっと……貴方を恨むようなことはないと思いますよ」 「水神さん……」 「幼馴染として、幼い頃からアイツのこと見てましたから……。ああ見えて、意外としっかりしてるんですよ。もしかしたら今頃は蛇神様を尻に敷いてるかもしれませんよ」  涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げた幸一は、灰英から向けられた真っ直ぐな眼差しに、眩しそうに何度か瞬きを繰り返して目を細めた。  夏の終わりを告げる秋風にも似た冷たい風が境内を吹き抜けていく。  ザワリ……と周囲の木々が波打つように揺れ、緑の葉を舞い散らせた。その風に乗ってバラの香りにも似た芍薬の甘い香りが二人を包み込む。 (弥白……か)  灰英は幸一の背に手を添えてゆっくりと立たせると、衣服に残った砂を軽く手で叩いてやった。 「――今日の事、忘れないようにしてくださいね。それに、弥白のことも」 「え?」 「人間って繋がっていないと不安で、でもそれが深すぎると煩わしく思えてくる。この世の中に全く繋がっていない人なんていないんですよ。だから、他の人が弥白という存在を忘れていったとしても、血の繋がった貴方だけは覚えていて欲しいんです。蛇神様が見守るこの村で……」  幸一は力強い灰英の言葉に、再び一筋の涙を流した。  その涙を乱暴に拭うことはしなかった。なぜなら、彼も気付いたのだろう――弥白の声に。 『ありがとう……』  その声は山から吹き下ろされる風と、本殿裏手の滝の水飛沫に混じり聞こえてきた。  彼の耳にハッキリ聞こえているとは思えない。しかし、それを肌で感じ取ることが出来たのだと。  すぐそばにある弥白の気配……。  灰英しか知るはずのない本殿の最奥の間に凛と佇む弥白の姿。  幸一は拝殿の正面に下された御簾をゆるぎない眼差しで見つめ、ゆっくりと頭を下げた。 「ありがとう……。弥白……」  まるで憑き物が落ちたかのように、彼の表情は明るく清々しいものへと変わっていた。 (これが親父の望んだこと……なんだろうな)  自分だけの力ではどうにもならない。黒芭がいて弥白がいる今だからこそ、本来の力を発揮できる。  幼い頃、持って生まれた霊力なんて煩わしいだけのものだった。  何かにつけて頭に響く蛇神の声にイラつきもした。  しかし、それが神になるべくして選ばれた者の証だったのだと今になって気づく。  灰英は、何度も頭を下げて礼を述べる幸一を鳥居まで見送った。  その背中が見えなくなるまで送ることを弥白に望まれたからだ。 「――これで良かったんだよな? 弥白……」  そっと呟いて、白衣の袖がゆらりと風を孕んで揺れたことを知る。  草履で細かな玉砂利を踏み締め、本殿へと足を向ける。  最愛の伴侶を無性に抱きしめたくなった。自分以上に重い苦痛を背負ってきた彼を癒すために……。  灰英は参集殿にいた従者に声をかけると、迷うことなく本殿への廊下を進んだ。  自分を待っているであろう、愛しい幼馴染のもとへ――と。    *****  ピンと張りつめた空気を揺るがしたのは、ゆったりとした衣擦れの音と、穏やかな低い声だった。 『――赦すのか?』 いつからそこにいたのか気付くこともなかった。馴染みのある香の残り香を傍らに感じ、わずかに顔を横に向ける。 「黒芭……」 純黒のたっぷりとした狩衣姿で佇む黒芭に弥白は安心感を覚え、細く息を吐き出した。 『お前は赦せるのか? これほどまでに酷い仕打ちをしてきた者たちを……』 再び静かな口調で黒芭が弥白に問うた。 弥白は住処である神殿へと続く廊下の途中。本殿の中ほどに設けられた内々陣にいた。 目の前には豪奢な御簾が下ろされ、外部からはもちろん拝殿からもその姿は見ることは出来ない。 ここはもう、神の領域。人間が足を踏み入れることは許されない場所だ。 背筋を伸ばし、凛とした姿勢で高座に座っていた彼は、長い睫毛をわずかに伏せたまま、伴侶である黒芭の問いかけに耳を傾けていた。 「――赦すもなにも、もうすべて終わったことだろう? 爺ちゃんが俺を花嫁に差し出さなかったら、父さんに殺されていたかもしれない。そして……貴方と出逢うこともなかったし、灰英とも想いを通わせることもなかった」 それまで身動ぎひとつせずにいた弥白がふと顔をあげた。 黒芭は彼の背後に回るとその場に片膝をつき、労わるかのように細い腰を抱き寄せた。 「――もしも、貴方たちに出逢うこともなく、父親に殺される前に自分の人生を悲観して命を絶っていたら……。俺の中の玄白は、俺を器にしたことを後悔し、嘆き悲しんだだろうか。最愛の貴方に逢うことも叶わず、またいつ生まれ変わるかも分からない闇へと還ることを」 銀色の柔らかな後れ毛に唇を寄せていた黒芭は動きを止めた。だが、それは一瞬で、自嘲気味にふっと口元を緩めながら言った。 『――強い意志を持ったアイツのことだ。それなりの覚悟はあっただろう。自ら命を絶つほどのな……。それに、たとえ神であったとしても転生先は選べない。――お前が幼い頃から抱いていた虚無感。お前の繊細な心とハルの心は同調していた。ハルの心が限界を迎えた時、お前も限界を迎えていたに違いない。互いに二度と生まれ変わることのない本当の死を選んだだろう』 婚姻の契りを交わした初夜。伴侶の証として弥白の首に自身が残した噛み痕を舌先で愛撫する。その心地よさに目を細めた弥白は、それまで口にすることのなかった疑問を黒芭にぶつけた。 「黒芭――。貴方はまだ、玄白を愛している?」 『なんだ、突然……』 「俺の中に住まう玄白を愛している?」 弥白は、着物の衿元にそっと手を添えると、唇をきゅっと結び、押し黙ったまま彼の答えを待った。 黒芭は最初、器である弥白自身ではなく、その中の玄白に想いを寄せていた。 最初から分かっていたことではあったが、夢の中で苦しみから解放してくれた黒芭の愛が自身に向けられたものではなかったことがツラく、伴侶になった今でも時折思い出しては、胸の奥で荊の刺のように絡まり、その痛みに耐えていた。 仮初めの愛――。体は繋がっているのに心は別の男のもの。 弥白の指先が微かに震えていることに気づいた黒芭は、その細い指先に唇を押し当てて目を閉じた。 『――愛している』 分かっていても、彼の口から聞きたくなかった。 弥白は薄い唇をぎゅっと噛み締めて、溢れそうになる涙をぐっと堪えた。 我慢すればするほど震えてしまう肩。その肩を黒芭の大きな手が優しく撫でた。 『――だが、ハルはこの世にはいない。今、我のそばにいるのはハルの力と遺志、そして心を継いだお前だ。もう分かっているであろう? 神である我でも、お前の瞳にかかれば隠し事は出来ない。ハルを愛することはお前を愛すること。お前を満たすことでハルの想いは満たされる。どちらが器でどちらが本質などと区別出来るものか』 「黒芭……」 そっと触れるだけのキスを交わして、弥白は堪えていた涙を一筋だけ流した。 滑らかな頬を伝った滴が着物を濡らす。 『ハルに逢うことが叶わなかった数百年の時をどう埋め合わせようかと悩んでいる。アイツはああ見えても勝ち気で意地っ張りなんだ。絶対に自分から甘えようとしなかった』 昔を懐かしむように、弥白の涙を舌先で掬いながら弥白を見つめた。その金色の瞳はまるで、何かを試すかのようにも感じられた。 黒芭の金色に輝く瞳の奥に見えたのは、嘘偽りのない真実の愛――。 向けられた先は玄白ではなく、弥白自身だった。 彼の瞳の中にはもう玄白はいない。でも、心の深い場所で彼を想い、そして繋がっている。 それが彼の出した本当の答えだった。 弥白は腰に回された黒芭の手にそっと自身の手を重ね、正座していた足を崩すと、背後の黒芭にしなだれかかるように身を預けた。そして、すぐそばにある野性味溢れる端正な顔立ちを真剣に見つめ意地悪げに微笑んだ。 愛しい伴侶への独占欲を見せつけるかのように。 「そんなの、決まってる……。人々が信仰を忘れ、この世に存在するすべてのものが枯れ果て、俺たちが塵となって消えるまで……愛してください」 『弥白……』 「玄白の力を湛えた盃を満たすことが出来るのは黒芭。そして……その盃の傾きを正すのは灰英。二人がいなければ成り立たない」 弥白の紅の瞳が妖艶に輝き、その力が放たれると、巻き上がった風が境内に咲く芍薬の花弁を舞い散らせた。 黒芭の大きな手によって開かれた衿元から覗く月白の蛇。 艶のある長い黒髪を肩から滑らせながらその蛇に唇を寄せた時、力強い足音が弊殿の方から聞こえた。その気配に淡く色づいた唇を綻ばせた弥白は、ゆるりと視線を向けた。 勢いよく捲られた御簾の向こう側には、不機嫌そのものという顔で仁王立ちしている灰英の姿があった。 「黒芭っ! 抜け駆けは許さないと言っただろ! 今、弥白の力が動いた……。お前、何をしたっ!」 低い声で唸るようにいい放った灰英を別段驚いた風でもなく見上げた黒芭は、面倒臭そうに顔をしかめて小さく舌打ちした。 『弥白の祖父殿は帰られたのか?』 「だいぶ前に……。おい、弥白の伴侶はお前だけじゃないんだぞ。コソコソと泥棒猫みたいな真似はやめろ」 『我は何もしていない。弥白が疲れたというから体を貸しているだけだ。――それに、我は猫でない』 「挙げ足をとるなっ!」 『――安心しろ。お前も愛してやる』 黒芭の言葉に動揺を隠せない灰英だったが、弥白の目には全て見えていた。 彼と眷属の契りを交わしてからずっと体を繋げていたこと。それでも互いに信頼という絆で結ばれていたこと。 伴侶となった今でもいがみ合うのは照れ隠し……といったところか。 なんだかんだ言い合ってはいるが、仲がいいことには違いない。 「灰英……」 鈴の音のような軽やかな声で愛する男の名を呼んだ弥白は、その手を彼へと伸ばして微笑んだ。 「お疲れ様……。明日は俺が境内の掃除するよ」 「なっ! バカを言うなよっ! お前にそんなことさせられるわけないだろっ」 差し出された手をとり、傍らに膝をついた灰英は誘うような唇を軽く啄んだ。 弥白はそんな灰英の耳元に唇を寄せると、小さな声で囁いた。 「ありがとう……。爺ちゃんのこと」  二人だけの秘密の囁きが黒芭にも聞こえたのか、彼は整えられた眉を片方だけピクリと動かし、不機嫌そうに眉根を寄せた。  灰英がここに来た理由――。最愛の弥白を抱きしめてやりたいと思ったから。  この腕に包み込んで、今まで背負ってきた苦しみをすべて浄化させてやりたい。  そして、彼が望むすべてを叶えるために……。 『お前は俺たちに甘えていればいい。もう二度と地に落ちるようなことはない』 玄白を娶り、一度は力を失い、神の世の底辺にまで堕ちた黒芭だが、彼を失ってその地位は上位に返り咲いた。 そしてまた、美しく妖艶な月白の肌を持つ神を娶り、封じられていた力を蛇神守である灰英に解放させ、その地位を確かなものにした。眷属であった灰英もまた、弥白の夫として黒芭と地位を同じくしていた。人間であったとは思えない順応力で、神の世界でもその名を知らぬ者はいないほどになった。 しかし弥白は、そんな地位などどうでもよかった。 ただ愛する者と共に、この村を守り後世に継いでいればよい……と。 山に囲まれ、見上げれば空は狭く息苦しい。でも、緑の息吹きと四季の風は弥白の苦い思い出を浄化してくれる。 「満たして……」 二人の伴侶から与えられる幾度ものキスで濡れた唇がそう告げた。 黒芭と灰英は互いに顔を見合わせると、弥白の手を優しく掴み寄せた。 「さぁ! 子作りに励むぞっ」 『まるで、サカリのついた犬だな……』 「俺は犬じゃないっ!」 なにかと黒芭に噛みつく灰英の頭を引き寄せて、その唇を塞いだ弥白は細い腰を気だるげに投げ出し、紅の瞳を優雅に細めた。着物の裾からのびた白い足が畳の縁を蹴る。 灰英の唇に銀色の糸を纏わせた弥白に、今度は黒芭が唇を寄せた。 彼の手が着物の合わせから忍び込み、すでに何かを期待して硬く尖った胸の飾りを弾いた。 「んは……っ」 思わず漏れた吐息と、麝香の甘い香りが座敷に広がる。 滑らかな脚を撫でながら腿の付け根で焦らすように指先を動かす灰英を恨めしげに睨み付けた弥白は、息を弾ませて言った。 「永遠(とわ)に……愛してください。俺だけを……」 その瞬間、拝殿を囲むように設けられ、なげしに沿って捲り上げられていた御簾の豪奢な組み紐が音もなくほどけ、しゃらり……と風になびくように舞い降りた――神々が織りなす妖艶な宴を隠すかのように。 激しい衣擦れの音、重なる息づかい。そして……社殿に甘く響き渡る矯声と淫靡な香り。 三柱の蛇神は御簾にその姿を妖しく揺らめかせ、それぞれの想いを寄せて長く長く愛を紡ぎ合うのだった。  *****  西日が傾き、夜の訪れを告げる細い月が折り重なる山々の間に顔をのぞかせる。  繊細な紋様が施された着物を纏った弥白が、暗がりに鎮座する『蛇石』を訪れていることは誰も知らない。  苔生した巨岩にそっと指先を伸ばし、ザラリとした表面の感触を楽しむかのように優しく撫でる。 「――ただいま。やっと帰って来れたよ……俺の在るべき場所に」   幼い頃から何度もこの岩に触れ、心を静めてきた弥白。  今は二人の伴侶に愛され、心を曇らせるほどの憂いはない。  この村に帰って来た時に触れた感触と違うのは、この石に宿っていた黒芭の闇が消えたから。  触れた指先からは何の力も感じられない。  弥白は長い睫毛を小刻みに震わせながら、薄い唇に笑みを浮かべた。 「空っぽになったんだね……。でも、安心して。もしもこの先、二人が暴れる様な事があったとしても、この封印は使わせない。俺が――命を掛けて守るから」  自身の帯に挟んできた懐剣を岩肌に押し当てる。それは大祭の夜、弥白が自らの命を絶とうとして首筋に当てたものだった。  黒い漆塗の鞘には三匹の蛇が絡まり合うようにして描かれている。黒芭が婚姻の品として刀匠に作らせたものだ。 「その時まで、預かっていて――。二人には内緒だからね」  押し当てた懐剣にぐっと力を込めると、眩い光を放ちながら苔生した岩肌へと吸い込まれていく。  そこには弥白の覚悟と、後世への願いが込められていた。  大自然に囲まれ、緩やかに時が流れる山間の村。そこに伝わる蛇神伝説は人々の絆と命の大切さ、そして神の怒りである『蛇抜』の脅威。  でも――今まで語り継がれてきた悲しい結末では終わらせない。なぜなら、真実に触れた今、明るいだけの未来にしか進む道はないのだから。  過去は振り返らない。でも、過去がなければ未来もない。  弥白の紅の瞳に映ったのは――闇の中で一際白く輝く蛇のようにうねった山河。 清らかな水を湛えるその場所から聞こえるのは、いにしえに生きた白蛇が奏でる美しい笛の音。 「玄白……共に生きよう」  両手をそっと胸に押し当てて瞼を閉じる。  弥白の肩を柔らかな風が掠めていく。ふわりと香った甘い匂いに、ゆっくりと目を開ける。  そこに佇むのは二人の伴侶。 「「共に……」」  手を差し出した二人に応えるように、弥白は細い指先を真っ直ぐに伸ばした。  触れ合う熱が波動によって山々に広がっていく。  蛇水神社のある山の中腹を淡く桃色に染めたのは、風に踊るように舞い散る季節外れの芍薬の花弁だった。  

ともだちにシェアしよう!