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第6話

 発情期が落ちつき、昂は綾人と一緒にバース専門の病院へ訪問していた。国の機関と認定されているこの病院には、研究所も併設されており、一番最先端をいくバース専門機関となっている。  また、一日に受診できる人数が限られているため、来訪する際には要予約となっている。  その病院へ、内心不安な気持ちを抱いたまま訪れた。  ――一緒にいかないか?  そう綾人に告げたのは昂からだ。  なにがあったのか、綾人も恐らく予想はしているのだろう。  発情期で熱に浮かされていたとしても、今までにない情事を営んだことに関しては身体が覚えている。  だから綾人は、昂の誘いに「行く」と言って同行した。  そんな二人は今、緊張な面持ちをしたまま、ロビーで待機していた。  二人の間に会話はない。 「――……さん、如月昂さん」  ただ名前を呼ばれただけなのに、二人して肩を震わせた。  ここで「なんで綾人まで緊張してるんだ」と、笑いながら言えればよかったのだが、そういうことを言える空気ではない。  お互い、緊張で心がざわついているのだ。  立ち上がり、診察室へ向かう。続けて、綾人も荷物を持って昂のあとをついていく。診察室の扉を開けて待ってくれている看護婦に軽く会釈をして、「失礼します」と言いながら中へと入った。  用意されている椅子に座れば、綾人も少し斜め後ろに用意されてある椅子に座る。 「……如月昂さん、ですね。突然のことで驚きましたね」 「あ、いえ……」  白髪交じりの黒髪に、優しそうな表情をしている中年くらいの男性医師は、落ちついた声色で話しはじめた。 「検査のときにも伺いましたが、如月さんはベータで間違いありませんよね?」 「はい。今までもずっと、ベータだと思って生きてきました」 「そうですか……」  そこから医師は数分黙ったまま、口を閉ざした。 「――……あの、先生?」  なかなか話さない医師に、沈黙を破ったのは昂のほうだった。 「……これは、本当に稀というより、奇跡に近いのですが……」  ようやく重たい口を開き、話をしてくれた医師の言葉に、二人は唾を呑み込みながら耳を傾けた。 「数年でいるか、いないか。……バースが変わる者がいます」 「……!」 「一緒に連れてきた子はオメガかな? オメガのフェロモンは、通常ベータにはさほど影響は受けない」  正にその通りだ。  昂は静かに話を聞いた。 「よほど強いものでないと、ベータに影響は出ない。検査のときに、甘い匂いを感じるようになった、身体に変化が起きた、と言いましたよね? ……それは、オメガのフェロモンによるものですね」 「……先生の言う通り、フェロモンがあまりにも強ければベータでも匂いを感じることはあります。オメガが発情期だろうと、オメガのフェロモンに乱されることはまずないです」 「だけど、それが徐々に変化を見せた」 「……はい。先日なんて、まるで幽霊にでも憑りつかれたような気分でした」  先日、綾人と肌を重ねたとき、お互いに「好き」と告白をしてから、大きく変化した。  脳で警告音が鳴り、オメガのフェロモンを強く吸いこみ、身体が勢いよく熱くなった。  欲に支配されそうになった。  目の前にいる綾人が、欲しくて、欲しくて、堪らない。  自分のものにしたい欲求。  狂わせるほどの甘い匂い。  自制が効かず、獣のように綾人を抱いた。啼こうが、叫ぼうが止まることはなく、精液が空っぽになるまでお互いに欲を吐き続けた。  だが、元番の噛み痕があるうなじを、昂は噛むことができなかった。――いや、噛めなかった、というほうが正しいだろう。  本能的なところから綾人のうなじに噛みつこうとしたが、元番との噛み痕を見て、昂は理性を総動員させてギリギリのところで留まったのだ。 「――で、君はオメガだけど、なにか変わったことは?」  斜め後ろに座っていた綾人へ視点を移し、医師は問いかけた。  ずっと黙っていた綾人は、まさか質問をふられるとは思っていなかったため、思わず動揺してしまった。 「俺は……」 「綾人。なんだっていい。感じたことを話してくれ」 「……うん」  昂に促され、綾人は自分が思っていることを話した。  元番に捨てられ、一緒にいる昂と発情期のときだけ慰めるだけの関係であること。身体を重ねていくうちに、自身の気持ちに変化があったこと。しないはずの匂いが昂からするようになったこと――綾人は全て話した。  ただ、本当の気持ちだけ言えないままでいる。 「はじめは、しなかった匂いがするようになって、ある日を境に昂と同じくいつもとは違う、甘い匂いに襲われました。今までにない、甘い匂い……」 「そういえば、綾人もそんなこと言ってたもんな」 「うん。なにかの勘違いかもしれない。でも、気持ちが溢れるのと同時に、昂から出てくる甘い匂いが俺を乱していった」 「それは俺も一緒だからな」  お互い様だ、と言う昂に、綾人は困った笑みを浮かべた。  そんな二人の間に、こほん、と医師は咳払いをする。お互いに顔を見合わせ、苦笑いした。 「すみません」 「いや、いいんだよ」  そう言った医師の手元には、検査結果が記載されている診断書が用意されていた。診察室にある時計の針だけが、カチ、カチ、と音を立てる。  決して緊迫感はないのだが、妙な緊張が二人を襲う。 (なにを言われるだろうか)  ど、ど、と心音が酷く響く。 「――確認ですが、二人はパートナーではないんですよね?」 「番でもなければ、パートナーでもありません。……彼も言いましたが、発情期のためだけの、身体だけの関係です」 「そうですか。……君は、気持ちが溢れるのと同時に、今までにない甘い匂いを感じたと言いましたね?」 「はい。今までとは比べものにならないくらい熱くなり、記憶が曖昧ですけど頭もおかしくなるほどでした」  お陰で翌日が酷かったです――そう答える綾人に、昂はその日のことを思い出して苦笑した。 「単刀直入に訊きますが、君は如月さんのことをどう思っていますか?」 「え?」 「私は、君が如月さんのことを好きだと思っているのですが……違っていたら申し訳ありません。そして如月さんは、彼のことが好きに違いありませんね?」  これまでの話だけでこうも確信をついてくると、国から認められている機関で働いている医師は侮れないと思わされる。  綾人の「好き」は、完全にあの情事のうわごとだと昂は考えているため、改めて素面の状態で聞くとなると怖いものがある。 「……俺は、……俺は……」  言い出そうとしていた言葉は言い淀んでしまい、うまく出てこない。自身を落ちつかせようとひと呼吸置いて言葉を紡ぎだそうとした――が、それは、昂によって遮られた。 「俺は彼のことが、……綾人が好きです。――ずっと、前から」 「……昂」 「自分の気持ちを言うつもりは、最初からなかったです。ここまで長年の片想いをしてきましたが、墓場まで持っていくつもりでした。彼にとって、俺は頼られる存在だけでも嬉しかった」  ――なんて、嘘だ。  本当は、綾人と番になりたいはずなのに。  言っていることと、胸に秘めている想いが矛盾しすぎて笑いそうになる。 「彼に対する想いは、誰にも負けないくらい深いと自負してます」 「君はどうなのかな?」  尋ねられた綾人は、一拍置いたあと、口を開いた。 「俺は……」  先程と同じく、そこまで言い出してやめる。  やはり、元番のことが忘れられないのだろうか。それとも、予想もしない答えが、綾人の言葉から紡がれてしまうのか。  だがそれは、昂の杞憂で終わる。 「……気づけば、昂のことをひとりの男性として見ていました。友達ではなく、恋愛のほうで。ぽつ、ぽつ、と火が灯る感覚で」 「綾人……」 「本当に最初は友達の感情しかなくて。いつしか、どうして俺にここまで世話を焼いてくれるんだろうって考えているうちに、昂と一緒の時間を過ごしていくうちに、一緒にいる時間がとても居心地よくて……」  ――元番のことなんて、どうでもよくなってました。  だからこそ、発情期の度に抱かれるのが辛くなったと吐露する綾人に、昂は嬉しさでいっぱいになった。 「……あ。昂から甘い匂いが……」 「……っ」 「はは! おおかた嬉しいのでしょう。如月さんの甘い匂いは、オメガである君にしか利かないので」 「え……それはどういう……」 「そして、それは如月さんも同じなはずです」  医師は診断書を昂に渡した。数値やグラフがあり、見てもよくわからないそれは、いったいなにを表しているのか。 「はじめに、数年でいるかいないかとお話はしましたが、如月さんはその数年にいるかいないかに入る、所謂、後天性アルファです」 「……は、…………はあああっ!?」 「驚くのも無理ないかと思いますが、心当たりありませんか?」 「……」  綾人が好きで、気持ちを告げることはしなくても、綾人のためになるのなら身体だけの関係でも十分だった。  例え、好きになってくれなくても。  ただ、それだけなら今までと同じ。その中で、少しずつ甘い匂いがするようになってからは、身体や気持ちにも変化が見られ、綾人を自分のものにしたい、喰らいたいという欲求を酷く感じた。  最大級の異変が起きたのはこのときだ。 「後天性アルファ……」  医師の告げた言葉を口にして、頭の中で反芻する。  お互いの気持ちが交差していなかったところに、突然の交差がやってきて爆発が起きた。お互いが相手のことを強く想えば想うほど、身体も心も変化が起きてお互いを求めたのだろう――そう医師は説明した。 「後天性について、詳しいことはまだまだ調査しなければいけないことがあります。ただ言えることは、数値が通常のアルファと同等になっていること。ベータであれば、まずこんな数値は出ません」 「……数値に関してはよくわかりませんが、そうですか。俺、ベータじゃなく、アルファになってしまったんですね」 「ええ。なので、彼と番になることも可能なはずです。お互いに心から求め合い、ましてや如月さんのバースまで変化させる……もしかしたら、如月さんと君は、もともと運命で固く結ばれていたのかもしれないですね」  ――運命。  幾度も諦めていた「運命」という言葉。  それ以前に、番ですら諦めていた。  自分はベータなのだから、永遠に無理だと言い聞かせて。  羨ましいと思っていたことが、オメガと――綾人と、もっと深い部分で繋がることが可能になった。  後天性アルファになったからといえど、オメガなら誰でもいいというわけではない。  綾人がいいのだ。 「先程も言いましたが、後天性については未知です。ほとんどが通常のアルファと一緒だとはいえど、不安定な部分が出てくる可能性もあります。オメガが発情期になるのと同時に引き出されて、アルファもヒートと呼ばれる突発性発情期が、如月さんに出てくることも……」 「なんとなくわかりました」 「なので、半年に一度で構いません。定期的に検査を受けてくれないでしょうか。如月さんのためにも、彼のためにも」 「そして、国の機関のためにも……ですか?」  定期的に検査となると、昂みたいにまたいつ現れるかわからない今後の後天性アルファのためだろう。  昂はひと呼吸置く。 「……わかりました。なにかあってからでは遅いですもんね。それなら、定期的に綾人と一緒に検査を受けます」 「ありがとうございます。こちらとしても助かりますし、もしなにかあったときの力になりたいのです」 「いえ」 「如月さんが言ったように、君も一緒に検査をお願いします。後天性アルファとオメガ……どのような影響が出るのか、これからの未来のために確認しておきたいのです」  後天性アルファと番になることで変わること、変わらないことが出てくるだろう。  綾人は、番に捨てられた反動での発情期を苦しむことなく、これからは好きな人を求めての発情期を迎えることができる。  ――番になれば、の話だが。  全ての話を聞き、二人は顔を見合わせる。  もう、苦しみながら快楽に呑まれなくていいのだ。 「あとは、二人でしっかり話をしてください。私が強制的に聞き出したに過ぎないので……改めて、二人で気持ちの確認を」 「はい」 「今のところ、如月さんがベータに戻ることはありません。君を想う気持ちが強ければ強いほど、心は求める。後天性だろうと、如月さんは紛れもなく、彼の運命ですよ」 「……ありがとうございます」  医師の言葉を噛みしめて、昂はお礼を伝えた。 「お節介かもしれませんが、番になったときは教えてくださいね」  診察室を出るとき、医師にそう言われた二人は、曖昧な笑みを浮かべた。昂は綾人の肩を抱きながら軽く会釈すると、診察室の扉を閉めた。  家に帰宅してからは、二人はリビングのソファに腰をかけていた。  病院からの帰り道、二人の間に会話はなかった。流れる空気が悪いとかではなく、お互い、変に意識していたからだ。  まるで、つきあいたての恋人のような。 (――……にしても、後天性アルファか……)  思ってもみなかった、バースの異変。  今まで信じて疑わずにベータとして生きてきたはずなのに、相手を強く想うことでアルファへと変化した。  だが、それは昂だけでは意味がなかったのだ。  相手も、昂のことを強く想っていないと駄目なのだ。  そして、想いの強さにより心が共鳴し合い、化学変化が起きた。 「好き」という想いだけなら、誰でもバースは変化してしまう。  でもそれは、お互いの気持ちの強さ、心の絆が重要なのだろう。 (運命……後天性……都市伝説以前の問題だな)  そんなことをぼんやり考えながら、昂はゆっくり話はじめた。 「……その、ありがとな。病院まで来てくれて」 「ううん。色々と驚いたけど、安心した」  お互いに視線を合わせることなく、会話を続ける。 「……綾人が言っていたこと、……本当か?」 「え?」  医師に話したことを疑っているわけではない。  改めて、綾人の口から聞きたい。 「俺のこと、その……」 「……うん。俺、昂のこと好きになってた。先生にも言ったけどね、彼のことを思い出さないくらい、昂のことでいっぱいになってたんだ」 「なら、うわごとで『好き』と言ってたのも、本当に俺のことだったんだな」 「頭がふわふわしてたから曖昧だけど、昂が近くにいるだけで胸が苦しくて、いつの間にか言葉が零れてたんだろうね。それに、昂が好きだと自覚すれば、発情期になった途端に身体が昂を求めてた」  ――嬉しい。単純に嬉しい。  昂は心の中でガッツポーズをした。 「昂から甘い匂いがするようになって、ベータなのになんでだろうって思うことはあったよ」 「自分のフェロモンの匂い、わかんないんだっけか?」 「うん。あのとき、昂に香水つけてるかって、訊かれたことあったよね? だからびっくりしちゃった」 「ま、俺も、綾人に同じ質問されて驚いたけどな」 「あと、昂から好きな奴に抱いてもらえって言われたとき、一番焦った。だって、俺の好きな人は、今、目の前にいる昂だよって言いたかった」  しかし、昂は綾人の発情期を少しでも落ちつかせるために、割り切って抱いているものだと、綾人はそう思い込んでいた。  また、これまで沢山迷惑をかけておいて、今更「昂のことが好き」と言うことはできなかった。  でも、それが今は言える。 「――俺、昂が好き」 「綾人……」 「昂と一緒にいると、とっても心が落ちつく。長年のつきあいがあるからかな。それでも、昂と約五年一緒に過ごしてきて、最期までずっと寄り添い合いたいって思ったのは、昂がはじめて」  時間はかかったけど、と言う綾人に、昂は綾人へと顔を向けた。  そこには、苦い笑みを浮かべている綾人が、昂を見ていた。 「昂は? 昂はずっと、俺のことを想ってたんだよね?」 「……まあ、な」 「ごめん、遅くなって。……あのさ、いつから俺を好きなのか、訊いてもいい?」  申し訳なさそうに尋ねてくる綾人に、昂は「そうだなあ……」と、視線を逸らして正面を向いた。そんな昂の横顔を見つめる綾人。 「……友達になってから、だな」 「え……それって、中学のときだよね!? え!? 何年片想い拗らせてるの!?」  驚くのも無理ない。  本当に何年――いや、何十年こじらせているのだろうかと、我ながら一途すぎて笑いそうになる。こんな男そうそういないぞ、と綾人に向けて、心の中で訴えてみる。 「今でも変わらず綾人のことが好きだ。綾人があいつと番になろうと、それでも好きなままでいた。……ずっと」  今まで何人かとつきあったことがあっても、昂の中で綾人と同じくらい好きになれる人がいなかった。ましてや、これまでつきあっていた人たちは、どことなく綾人に似ている部分があったということだけは秘密にしておこう。 「綾人が番を解消されたとき、チャンスだとは思ったが、想いを告げようとは思わなかった」 「どうして?」 「伝えたところで、同情だと思われたくなかった。それに、ベータの俺では、綾人を幸せにすることはできない。ただ、苦しめるだけだ」 「……昂が、色々と考えてくれてたのは嬉しい。でもね、俺の幸せは俺が決めるの。今、俺が幸せだと感じられるのは昂だよ。だから、俺を幸せにできないなんて、そんな悲しいこと言わないで」 「綾人が苦しむ度、抱く度、気持ちは溢れていくばかり。うなじにある噛み痕に、何度、上書きしてやろうかと思ったことか」  そうすることで、綾人が自分のものになる確証なんて、どこにもないというのに――。 「俺が噛みたかった。綾人の白くて、綺麗なうなじに」  抱いているとき、勢いに任せて噛むことはいくらでもできたはず。でも、それができない理由は、憶病な自分と、惨めで寂しい気持ちになるとわかっているから、できなかったのもある。  ここまで想い続けるなんて、第三者からすれば、「どうかしてるぜ」と思われるに違いない。  それでも、綾人を忘れることなんてできなかった。  好きな気持ちを消すことなんて、できなかったのだ。 「俺、昂の気持ちを知らずに、自分のことばかりで……ごめん」 「あいつと番になると知ったときは、やっぱりアルファには敵わないんだなって思ったさ。だから、俺は友達のままでもいいと思って傍に居続けた」 「昂のほうが辛かったよね」 「それは綾人も同じだからな。……お互い様だ」  微笑を浮かべながら、昂は再び綾人を見た。 「――綾人が好きだ」  柔らかく、どことなく甘い声で、愛の言葉を紡ぐ。  恥ずかしさはない。  むしろ、ようやく伝えることができたのだと思うと、嬉しくて胸が高揚した。 「……綾人、匂いで返事するな」 「え、あっ……!」 「嬉しいって、言ってるようなもんだな」 「っ……ご、ごめん」  くすっと笑えば、綾人は頬を染めた。 「俺は嬉しいが、……綾人、もう一度好きだと言ってくれ」  何度も聞きたい。  綾人の口から。 「……好き。昂が、好き」  ずっと片想いしていた相手から「好き」と言われることが、どれだけ嬉しいことか。 「綾人。抱きしめてもいいか?」 「……うん」  照れくさそうにしている綾人に、昂は距離を詰めて自分よりも小さな身体を抱きしめた。

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