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第1話 飛行機雲
快晴の空に飛行機が一筋のラインを描いた。機体が遠くなっても淡く残る飛行機雲を見上げて、新條輝 はほっと息を吐いた。その息はもう白くならない。朝晩はまだ冷え込むが、着実に春は近づいていた。
「ただいま。」と言いながら、輝は磨 り硝子 の引き戸を開けた。
「おかえり。」迎えに出てきたと言うよりは、たまたま玄関の掃除をしていたらしい中年の男が答えた。
「頼まれてたもの、これでいいかな。」輝は両手に持っていた買い物袋を床に置いた。
「どれどれ。」男は腰を屈めて中を見ようとする。その途端に「イテテ。」と顔を歪め、腰をさすった。
「富樫 さん、大丈夫? そんなだから代わりに買い物したのに。」
「ごめんごめん。」輝に支えられるようにして、富樫と呼ばれた男は腰を伸ばした。
「無理しないで。ここの掃除も、あとで僕がやっておくから。」
「いやいや、これぐらいは。まあ、とにかく入りな。寒かっただろ。」
「そうでもないです。天気もいいし。」輝は靴を脱ぐ。
「洗濯日和だったのになあ。」富樫は顎の無精髭をさする。
「僕はこれからだから、ついでに洗いましょうか。」
「いいって。」
「たかが2人分でしょ。手間は変わらない。」輝は買い物袋を持って、奥へと入って行った。
輝は自分の部屋のベランダに洗濯物を干した。塀に囲まれた狭い庭より、2階の南向きのここのほうが早く乾くと判断したからだ。富樫の分も請け負ったから2人分。それも、雨続きで3日ぶりの洗濯だったので、丸2日分の洗濯物が溜まっていた。洗濯機は1階で、洗濯かごを持って階段を上り下りする手間はかかったけれど、輝は幸せだった。
2人分の洗濯物がはためく。そんな光景からさえ、念願の2人暮らしが始まった実感が湧く。
「すみません。もう下宿屋はやらないんですよ。」
洗濯物干しを終えて階段を下りる途中、富樫の声が聞こえてきた。輝はあと3段というところで足を止め、耳をそばだてる。
「ええ、いることはいます、院生が1人。でも、その子も来年には卒業でね。そうしたらもう、ここは取り壊すので。」
内容からして、電話の相手は今春入学する予定の学生か、その親だろう。輝はこの手のやりとりを何度か聞いている。富樫はそのたびに断り文句を連ねていた。
「そう言われても、決まったことですから。」
今回の相手は少々しつこいようだ。大抵は穏やかに応対する富樫の声にも苛立ちが現れる。だが、こんな時の富樫は頑固で、相手が何を言っても譲らないことを輝は知っている。「ええ、はい。すみませんね。では失礼します。」
電話が終わったことを察知して、輝は残りの3段を下り、食堂という名の共同スペースに入った。共同と言っても、今では輝と富樫しか使わないのだが。大きなテーブルには8人まで座れて、そして、輝がここに来た当初は、下宿生全員が揃うとそこが満員になったものだ。
食堂の隣は、かつては富樫の母親の部屋だった。富樫は下宿生たちの世話と並行して、その寝たきりの母親の介護をしていた。
夕食時を例に挙げればこういう手順だ。
まずは母親のために、お粥や野菜スープといった食事を作る。それが済んだら下宿生のための食事を作る。下宿生の食事時間になると、彼らと入れ違うように隣室に行き、母親の食事の介助をする。配膳と皿洗いは下宿生自身が各自で行う決まりで、食事と後片付けを済ませたら、彼らは再び銘々の部屋に戻っていく。その頃になってようやく富樫は食堂に戻り、自分の食事をする。大概は余り物をおかずにして食べていたから、日によってはほとんどおかずがない時もあった。僅かな漬物程度を白飯に乗せたお茶漬けで済ませているのを、輝は何度か目撃した。
「自分の分はよけておけばいいのに。」と言ったこともある。
「うん、でも、あればあるだけ食べたいって言ってくれるなら、全部食べてもらったほうが嬉しいからな。」富樫はそう言って笑った。
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