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1 受難のはじまり
背中についた爪の痕が、痛いのか熱いのかわからない。
右肩から左脇腹に掛けて抉ったそれが血しぶきを舞わせたことよりも、庇ったはずの人物がすでに眼前にいないことに、久留間は眩む視界で苦笑した。
白い髪が目の端で駆ける。
依頼内容から察せられるより、数段手強い悪霊の討伐をする羽目になったのがほんの十五分前だ。
その間に、久留間が除霊札を製作し直し、無尽蔵体力の持ち主である渋谷が挑発しながら引きつける。ポストが霊気のカケラから過去を読んだところ、悪霊は見様見真似で作られた犬神のなり損ないらしかった。
そのため本来の主人からも見捨てられ、その死が無意味なものに成り下がっている。そしてそれを激しく悲しみ、慟哭したのが今の状況というわけだった。
札を書き終え、渋谷に声を掛けたのは久留間自身だ。そしてそれが渋谷の隙になり、悪霊の凶爪が襲いかかる瞬間にもなった。
咄嗟に飛び出し、両者の間に滑り込めたのは、運動音痴の自分にしては出来すぎた展開だと口元が緩む。
一瞬驚きに目を見開き、悲壮に眉を下げた恋人の顔など、日常生活ではそうそう目にかかることもない。
けれど今は薄れいく意識の中、渋谷の動向も追うことができない。
明らかにショックを受けた顔をしたにもかかわらず、怪我をした自分を抱き留めず、むしろ倒れ込む体を壁にするように悪霊の目くらましに利用した。
その時点で分かることだが、恐らくそのまま、迂回する形で悪霊を殴りつけにいっているはずだ。
もはやなんのために庇ったのかすら分からないと、防御を考慮に入れない背中を思う。
同情できる身の上とはいっても、人を襲う悪霊になっている今、多少手荒なことをしてでもまずは元の姿を思い出させることが急務ではある。
ただ現状においてそれが決して平和的なものではなくなるだろうと、手を合わせる思いで久留間は意識を手放した。
――目が覚めたのは、消灯時間をすぎた病院のベッドの上だ。
「おはよ」
目を開くと、ベッドサイドランプの光に顔を顰める。
メガネはない。
けれど逆光の中で銀に光るのが渋谷の髪と気付き、目をこらす。
ようやく見えたそこには、呆れ顔の渋谷が見下ろしていた。
「……はよ。今何時?」
「2時」
「深夜?」
「当然」
「……なんでお前、起きてんの」
「漫画読んでた」
「このちっこい照明だけで? 目ぇ悪くなるよ」
「なんねーよ。以外としっかり明るい」
「そんならいいけど。ったぁ!?」
淡々としたやり取りになんとなく居心地の悪さを覚え、寝返りを打とうとしたところであえなく悲鳴をあげる。
高圧電流でも走ったかのように目の前が点滅する錯覚に、恐る恐る布団をめくった。
首から下に、グルグルと巻き付けられた包帯。それを目にして引き攣った久留間を、せせら笑うように渋谷が目を細める。
「どこ怪我して運び込まれたか忘れたんですかー、悟くーん」
にんまりと歪んだ口元を、膨れ面で睨みつける。
「忘れちゃうくらい痛み止めが優秀でしてねぇ」
周囲にカーテンもないことを鑑みると、どうやら個室らしい。
恐らく本田が手配したのだろう。それなら周囲に気を遣う必要もないかと、わざとらしく溜め息を吐いた。
「おっかしーなー、俺が庇ったの、すっげー可愛い顔した幼馴染みだったと思うんだけどなー。どこで入れ替わったかなー」
「可愛い顔した幼馴染みとやらが幻だろ。意識朦朧として理想の恋人でも見えたんじゃねーの」
「アホか。それなら今のお前が見えるわ」
吐き捨てると沈黙が落ちる。
渋谷の顔は背けられ、身動きの取れないベッドからでは窺うこともできない。
しかしガリガリと頭を掻く手がわずかに耳を覗かせ、それが照明に赤く照らされるのを見つける。
右腕を動かすと肩甲骨が引き連れて痛むが、それを今だけは酷く甘いものに感じて、久留間は指先を渋谷の膝に伸ばした。
「大ちゃん」
小さい頃からの呼び名で声を掛ければ、触れた膝がびくりと跳ねる。ふて腐れたような拗ねたような、妙に子どもじみた表情で向き直った渋谷は、少しだけ唇を噛んでいた。
「俺が庇ったの、驚いた?」
笑ってみせれば、その表情のままベッドに向かって膝をつく。
浮いた手に絡んだ指が冷えていることに気付いて握り込むと、引き結ばれた唇が戦慄いた。
「……ドン亀のくせに、注射程度でピーピー騒ぐくせに。なんで飛び出てくっかな」
「しゃーないでしょ。お前が危ないと思っちゃったんだから」
「俺なら入院なんて事態にゃなりません。日帰り手術程度で済んでます」
「そだね。お前マジでゴリラだもんな」
「ゴリラじゃありません。渋谷くんです」
「うんうん、そうだね。俺の大事な幼馴染みの大ちゃんです」
「……幼馴染みだけですか」
拗ねた声色に、体の下になっている左腕を動かして髪を引く。
チッチと舌を鳴らしてねだれば、やはり拗ねた表情のままで唇が重なった。
啄む音が響き、間近に見交わしたまま頬を撫でる。
「幼馴染みだけなら、コレはねだらないけどどーでしょ?」
「嘘つけ。小学校の林間学校んとき、男子部屋の中で何回もしてきただろ」
「おっ、覚えてた? 冗談で済まされる雰囲気だったから、あん時は調子乗ったねー。お前に告ってもなかったから、ハラハラドキドキのファーストキスだった」
ヒヒと笑うと、渋谷の目元が和らいで苦笑に肩を竦める。
どうやら機嫌は直ったらしいと見て取ると、久留間は渋谷の髪を撫でながら口を開いた。
「漫画読んでたなんて言ってたけどさ、俺のこと心配して起きてたんだろ?」
「引きこもりクソオタクが急に痛い目見たからな。ショック死でもすんじゃねーかとは思ったよ」
「悪霊は?」
「顔面横から思いっきりぶん殴ったら、目ぇ回して動きが止まった。その後は後ろから押さえつけて、じっちゃんの説得開始。お前の体で目隠しして動いたから、見失ってくれたらしいな」
「……想像してたとおり容赦なかった。祓った? 浄めた?」
「浄めた。じっちゃんの説教上手はさすがだよ」
「事情が事情だしなぁ。あの子の罪は、中途半端な事した元飼い主に背負ってもらうことになるだろね」
「ん。お前の血がぶわってなった時にマジギレしちゃったからさ、ちょっと悪いことしたなって思ってる」
そこまで言って、渋谷の言葉が詰まる。
不思議そうに瞬くと、ごめんなと言葉が落ちた。
「うん?」
「背中さ、すげーことになってんの」
「……マジで? 縫ったりしてあんの?」
「六十」
「……んん?」
「お前の背中、六十針縫っ……あ、おい! 針数聞いただけで失神すんなバカ!」
惨状を想像しただけで意識を手放しながら、元々痛みを伴う治療が嫌いな人間に聞かせるべき内容かどうかは考えて欲しいと切に願う。
白目を剥いてベッドに横たわる久留間の耳には、まだありがとうも言ってないのにとふて腐れる声は届いていなかった。
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