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2 サキュバスの呪い
抜糸も済んで退院したのは、それから一週間後のことだった。
背中を引き攣らせる痛みにときどき違和感を覚えながら、久し振りの外気を胸いっぱいに吸い込む。
「はーっ、空気が冷たい! 消毒液の臭いがしない! 空が高い! 外最高!!」
普段なら絶対に言わない言葉を口にし、思わず軽く足下を跳ねさせる。
途端、背中を走り抜けた微弱電流のような痛みに、久留間は小さく声を上げた。
年齢のせいもあるのか、塞がったはずの傷痕はまだ痛みを訴える。
このピリピリとした痛みが色気のある経緯からついたものなら疼痛にも頬が緩むのにと、言っても詮ない仮定に唇を尖らせながら、ぶらぶらと帰路についた。
昨晩ダメ元で渋谷に迎えを頼んでみたが、平日の業務時間中、しかも数少ない社員が減ってる状況で、歩いて帰宅できる状態の人間を甘やかす余裕はないときっぱりと断られてしまっている。
確かにその言い分は百パーセント理解できるものの、ゆっくりと家に向かっていても、ふとした瞬間痛みを訴える背中を思えば嘆きの一つもこぼしたかった。
せめてもう少し優しい物言いならと肩を落とした時、すでに冬休みに突入したらしい小学生達がわいわいと群れているのに目を留める。
「なんだ?」
好奇心を刺激され、後ろからそろりと覗き込む。
見れば輪の中心にいる少年の手には、小さなコウモリが蹲っていた。
「うわ、コウモリじゃん」
思わず声を漏らすと、全員の顔が久留間を振り返る。
「誰!?」
「なんだよ、勝手に見んなよー!」
「不審者、不審者だ!」
即座に警戒色を強めて騒ぎ始めた子供達の姿に、今のご時世、小学生に不用意に近付くのは失敗だったかと頭を掻く。
それでもここで逃げては最悪、今日の夕方にでも不審者情報として久留間の容姿が通達されるだろう事を想像し、あえて困ったように眉尻を下げて手を合わせた。
「ごめん、なに見てるか気になっちゃって。――その子どうしたん?」
できるだけ表情を大げさに変えながら話しかければ、少し警戒が解けたのか、数人の子供が顔を見合わせる。
やがて円陣を組むように何事か相談した後、先ほど中心にいた少年がコウモリを手にしたまま進み出てきた。
「これ?」
「うんうん、その子。夏は夕方にちょこちょこ飛んでるけど、冬に見かけるのは珍しいなって」
「夏!? 飛んでんの!?」
「飛んでんよー。夏に街灯の近くを飛んでるちょっと鳥みたいなの、あれコウモリな」
「マジで!」
「マジマジ。でも冬は仲間と一緒に冬眠してるはずだし、はぐれたのかも。ちょっと弱ってるみたいだし、動物病院連れてかなきゃいけないんじゃないかな」
ふわふわとした頭を指先で撫でてやると、つぶらな目が静かに開く。
小学生が触れるような作品では恐ろしいイメージがあるはずだが、それに反する愛らしさにわぁと歓声が上がった。
「かっわい!」
「なぁなぁおっちゃん、こいつ元気になる!?」
「おっちゃん!? おっちゃんって歳じゃねぇわ、兄ちゃんって言え、兄ちゃんって! そうだなぁ。君らの中で病院に連れて行けるくらい小遣い持ってる子とか、いる?」
念のためそう問えば、水を打ったように静まりかえる。
「……オレらが餌とかあげるだけじゃ、ダメかなぁ」
「んー、野生動物だからなぁ。確かコウモリって、飼うのは禁止されてるんだよ。もしよかったら、俺が病院に連れてくけど?」
「っ、そう言って虐待したりするんだろ!」
「いくらなんでも言いがかりがすぎる!」
驚いた顔でそう叫ぶと、言い方が気に入ったのかケタケタと笑い声が起こる。
「仕方ないなー、オレら小学生だから、おっちゃんにコイツ任してやるよ」
「おっちゃん言うな。はいはい、了解。おし、こっちおいで」
おっちゃんという発言にだけは釘を刺し、ポケットの中でわだかまっていた皺だらけのハンカチでコウモリを包む。
「ハンカチくらいちゃんと綺麗に入れとけよー。大人なのにだらしねぇのー!」
「ふん、物を知らんおチビどもめ。大人だからだらしなくても生きていけるんだよ」
手の中に収まった小さな体を撫でながら、はしゃいだ声をあげて走り去っていく子供達に手を振る。
「あ! おっちゃーん! そいつどうなったか、今度会ったらちゃんと教えてなー!」
「わかったー! でもおっちゃんって言うなー!」
反論すれば、なおさらおっちゃんおっちゃんと声をあげて去って行く。
どうやら大人をからかって遊ぶのが楽しい時期らしいと肩を竦めると、全員どこかで足の小指をぶつけるがいいと小さく笑った。
「あんないい子達に呪詛を吐くなんて、意外と性格悪いのね」
「いやー、こんな好青年をオッサンオッサンとこき下ろしたんだ。あれくらいはとうぜ……んん!?」
当たり前のように返事をした後で、見知らぬ声と気付き大きくまばたく。
周囲には行き交う人間も少なく、間近で久留間に声を掛けてくるような人物は見当たらなかった。
恐る恐る手の中を見れば、小さなコウモリはにんまりと愛らしい目を細めていた。
「あら、私の声が聞こえて? ならあなたの血を一滴くらいねだっても許されるかしら」
高慢にも聞こえるその声は、明らかにコウモリの口元から発されている。
彼女が弱っているためか、それとも自身が本調子でないために見逃してしまったか。
どちらにせよ非常に微弱な人外の気配に気付かなかったことを後悔しつつ、久留間は片頬をひくつかせた。
「……おぁー。こりゃまた厄介なのに関わっちゃった感じかな」
「厄介だなんて失礼ね。ついこの間まで三ブロック先の家に住んでた男に飼われてた、ただのサキュバスよ」
「サキュバスが? 飼われてた? 食ってたの間違いじゃないの?」
「あら、食事を与えてもらってたんだから、飼われていたで間違いないわ。もっとも、どういうワケだか先日ぽっくり逝っちゃったんだけどね」
「……どういうワケだかもクソもないっしょ」
淫魔の食事が精気だというのは、調べるまでもない常識だとうなだれる。
要は相手が干からびるまで搾り取ったんだろうと吐き落とせば、コウモリはコロコロと鈴のような声で嗤った。
「そんなことはどうでもいいのよ。ねぇ、お願いだから血を一滴ちょうだいよ。そしたら私もすぐに回復して、久し振りの我が家へ帰れるんだから」
「――一滴? ホントに?」
「えぇ」
「まっすぐ帰るね?」
「よほどのことがない限りはね」
ぱちりとウインクしてみせる愛らしい仕草に、苦々しい顔で仕方ないと呟く。
「分かった、一滴ってんなら俺の血を上げる。でもねサキュバスのお嬢さん。知らないと思うけど、俺痛いのって大嫌いなんだ」
「あら、男なんて往々にしてそうよ。処女を失う痛みなんて耐えられないでしょう?」
「んー……。それはどうかなぁ」
本来物を入れるべきでない場所に挿入される痛みや不快感を、久留間は知らない。
けれど学生時代の未熟な性交渉で、痛みなんてどうでもいいから早くお前のモノにしろと急かされた覚えならある。
当時は有頂天且つ必死の思いで勢いづいていたものの、今考えれば慣らす時間も足りないし、挿入時の声は明らかに痛みを訴えていたし、相手の顔は蒼白で涙が止まらず、せめて悲鳴をあげまいと歯を食いしばっていた。
申し訳ないやり方をしてしまったと反省点ばかりが思い起こされるものの、痛みに耐える姿を見下ろして興奮してしまったのも否めない。
あの頃はまだ髪が黒かったと回想し、思わず緩んでくる頬を慌てて打った。
「なに?」
「なんでもない! ほら、俺の気が変わんないうちに早く! あ、でもできるだけ痛くしないでもらえると嬉、いってぇ!!」
ささやかな懇願の言葉が終わるよりも早く、コウモリの小さな牙が指先の皮膚にぷつりと刺さる。
久留間が悲鳴をあげはしたものの、恐らく皮一枚裂けただけらしいそこからは血球が風船のように膨らんだだけだった。
「あら、思ったより不健康なのね? ずいぶん血が黒いわ。ちゃんとお野菜食べなきゃダメよ」
「……まさか悪魔に栄養指導されると思わなかったけど、そんなにかぁ」
小さな舌がピチピチと音を立てて血を舐めつくし、毛むくじゃらの顔が満足したように笑みを見せる。
小動物のこういう顔は否応なく癒やされてしまうと恍惚とした時、コウモリは羽ばたきもせずふわりと宙へ浮き上がった。
「お」
しゅると布がほどけるような音が聞こえ、飛膜が落ちるように人の姿に変わっていく。
やがてすべての変化が終わると、そこには小ぶりな胸元を大胆に晒した、小学生ほどの少女が立っていた。
「はー、やーっと人の姿に戻れたわ。ありがとねオニーサン、おかげで元気になれたわ!」
機嫌よさそうに舞い降り、腕に絡んでくるその手からするりと避けて手を振る。
「そうかい、そりゃ良かった。そんじゃ、明日久々に出勤予定が入ってるもんでね、そろそろ帰るよ」
「あらツレない! 少しくらいいいじゃないの。いくら魔力があるって言っても、淫魔と知り合う経験なんて滅多にできるものじゃないでしょ?」
「魔力じゃなくて霊能力。確かに滅多にないけど、だからこそ俺はきみに対する対処法をろくに知らない。こういう場合、極力関わりを絶つのが定石でね」
「なによ、この体、好きにしてみたくない?」
「ないない。オタクの合い言葉はイエスロリータ、ノータッチだ。幼女を愛でるのは二次元だけと決めてる」
「ふぅん。ふふ、あなた面白ぉい!」
声が弾け、歩き去ろうとしている久留間の手をサキュバスが取る。
撥ね付ける暇もなく長い爪が手首の薄い皮を引っ掻くと、赤い唇が弓なりに歪んだ。
「ねぇオニーサン、一晩なんて言わないわ。私のことを好きになってくれないかしら」
手を奪い返し、はっきりと警戒を示して眉根を寄せる。
掻かれたそこは、ミミズ腫れのように赤い筋になっていた。
「――なにした?」
「なにも。ツレないから憎らしくって」
「サキュバスは嘘が下手って事だけは分かったよ」
「んっふふ。ねぇ、私の告白に対するお返事は?」
「悪いけどね、実体のある幼女には興味がない」
「あらそぉ。ざんねーん!」
口調とは裏腹に、楽しげに幼い足が宙へと踊る。
はっきりと距離が開いていく不自然さに、久留間は片眉を上げた。
「ん? サヨナラでいいのかな」
「えぇ、無理強いするのは好きじゃないの。あなたから私を好きになってくれるまで待つわ。それじゃ、近いうちにまた会いましょう!」
白昼堂々、少女が空を駆けていく。
いくらなんでも大胆すぎると思ったが、しかし誰も反応する様子がない。
もしかしたら人に変化してからは見えることのできる人間以外、彼女を認識してすらいないのかもしれないと考え直した。
世間と自分の見ている世界の差が掴めず、足下が危うい感覚は久し振りだとこめかみを押さえる。
生死者の区別が曖昧な自分にとって、これを隣で補正してくれる存在はいつでも一人だけだった。
「……はぁ。早く会社行って、大ちゃんと笑いたい」
今晩は久し振りの自宅でゆっくり休めるようにと、来訪を遠慮する旨のメールが朝一で届いている。
なんだかんだ言いつつ心配してくれていることは嬉しいものの、できれば今日は傍にいて欲しかったなと肩を落とした。
手首のミミズ腫れが、じんと熱を持つ。
翌日、カタヅケ屋本舗。
渋谷恋しさに珍しく一番に出社した久留間は、わずかな背中の引き攣りも気にすることなく笑顔で業務準備を進めていた。
各机を拭き掃除して回る姿に、ひときわ大きな机に掛けた好々爺は頷く。
「久し振りの業務じゃ。ずっと横になっておったし、体力もまだ戻っておるまい。張り切るのはありがたいが、疲れたら休まねばならんよ」
「気ぃ遣うことないよぉボス! 休んでた分、ちゃんと働いてもらわないとさぁ!」
本田の気遣いを、周囲を浮遊して回っていたポストが茶化す。
それを耳にし、久留間はにっこりと引き出しに手を掛けた。
「よぉしポスト、拭き掃除が済んだらお前の綴じ部分に、そっとカッターで切り込み入れてやる仕事にかかるぞぉ!」
「っ! 鬼! 人でなし!」
わめき騒いで逃げるポストにふんと鼻息を吐き出し、言ってやったと胸を張る。
確かに普段より疲れやすいが、基本的に座り仕事ばかりの業務は疲労も軽い。
なによりようやく元の生活に戻れる嬉しさに、鼻歌すら漏らしながら渋谷の机に雑巾を掛け終わった時だった。
「はよーっす……」
「お、渋の字やっときた! おっはよーのただい……ま?」
喜色満面で振り返った久留間とは対照的に、渋谷の表情はひどく暗い。
胸元を押さえて息も上がっているその様子に、久留間ばかりでなく本田も立ち上がった。
「どうした渋やん、ひどい有様ぞ」
「ちょ、顔色すっげー悪いんだけど! なに、お前なんか事故った!?」
「事故とかじゃ、ないんだけど……」
はぁと大きく息を吐き出し、少しはマシになった様子で崩れるように椅子に腰を下ろす。
「じっちゃん、昨日からなんか変だ。なんもしてないんだけど、時々心臓が締め付けられる感じになる。これ、なんか呪われてたりしない?」
脂汗を浮かべて辛そうに助言を求める渋谷に、本田の目がチラリと久留間の右手を見る。
不安げに渋谷に駆け寄るその手首から、ふわりと呪いが香っていた。
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