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達規悠斗の十八回目の六月二日
達規悠斗は誕生日にほとんど良い思い出がなかった。
九歳までは愛犬のナナと二人で過ごしていたからまだよかった。
家の鍵を忘れて夜までマンションのエントランスでべそをかいたのは十歳の誕生日だったし、初めて耳たぶに針を刺されて痛みよりも恐怖にべそをかいたのは十四歳の誕生日だった。
そもそも誕生日といえば最初に思い出されるのは、幼い頃に母親に言われた「もうちょっと遅く生まれてきてくれたらよかったのに」という言葉だった。
サーフィン好きの母は夏に子供を産みたかったらしい。悠斗に言わせれば、知らねーよ、なら自分らで逆算して仕込めよ、どうせ真夏に羽目外してフライング中出ししちゃったんだろデキ婚夫婦、胎児にどんな気遣わせるつもりだよアホか、こっちは腹から出てくるタイミングなんか選べねーんだよ、てめーらが精子出すタイミングで調整しろよクソが、バーカ、といったところだった。
そんなわけで悠斗にとって、六月二日は他の三六四日と比べてもさして重要度が高いわけでもなかったし、何なら悪いことが起きがちなアンラッキーデーでもあった。
できるだけ人に教えないことにしていたし、その日はいつもよりも少しだけ慎重に行動した。
そうやって十七回を重ねてきて、そして今。
十八回目の誕生日を迎えた達規悠斗は、今年もやはり窮地に立たされていた。
鳴り響くインターフォンで浅い昼寝から醒め、自室のベッドから飛び起きた悠斗はリビングへと急いだ。
照明のスイッチと並んで壁に設置されたモニターを確認し、二度見し、三度見した。
あまりにも見覚えのあるその容貌は、しかし、この小さなモニター画面の中に見るのはほとんど初めてという気もする。
同じマンションの住人であり、去年の六月二日には悠斗の首にレザーの首輪を嵌めようと目論んだ、保科和明がそこには立っていた。
何。何しに来たん。何か持ってる。怖っ。
数ヶ月前までは毎日のように見ていた顔は、ずいぶん久しいような気がした。懐かしさに似た不思議な感慨と警戒心が同時に沸きあがる。
モニターの下に通話ボタンがあるが、押さなくても向こうの音声は聞こえる作りだ。小さなスピーカーから機械によって変換された声がする。
「悠斗ぉ、開けてよ」
呼びかけられて首が竦んだ。日曜日のこの時間帯の達規家には悠斗しかいないことも、この男は全て把握しているのだった。
「久しぶりに会うのにさ、チェーン越しはひどくない?」
悩むこと約一分、決意を固めて玄関のドアを開けた悠斗は、投げかけられたその言葉に「自衛」と一言答えた。
二十センチに満たない隙間は、保科の長身で全く向こうが見えない状態になる。栗色の髪、同じく色素の薄い瞳に、左目の下の泣き黒子。相変わらず顔だけはムカつくほど綺麗だ、と悠斗は思う。
「……何の用?」
疑念を露わにそう言った悠斗に保科は笑い、「これ渡しに来ただけだよ」と左手に提げた箱を持ち上げた。
「何それ」
「どう見てもケーキでしょ」
白い箱の端には赤い飾り文字が見えた。ここからは少し離れたところにある、人気のケーキ屋のロゴマークだ。訝しむ悠斗をよそに、保科はのんびりと続けた。
「出掛けてるかなーと思ったけど……どうせ一人で引きこもってたんでしょ。毎年誕生日はろくなことないって言ってたもんね」
その通り、まさか災厄が直接自宅までお邪魔しに来るとは思わなかったからな。とは言わずに差し出された箱を目視する。
サイズが結構デカい。チェーンをしたままのドアの隙間は通らない。中身が本当にケーキであれば、九十度傾けるというわけにもいかない。
「ねえ、ここ開けてよ」
至極当然の要求をしてきた保科に、悠斗は人差し指を一本立て、その足下へと向ける。
「そこ置いて帰ってくれん?」
「さすがに冷たすぎじゃない? 人を訪問型レイプ魔みたいにさあ」
――ほぼレイプ魔だろうが!
心からの叫びを声にすることは寸でで飲み込んだ。
早く帰ってほしい一心で、嫌々ながらひとまずドアを閉め、チェーンを外す。
そして再びドアノブを捻った一瞬の後、僅かに開いたドアの隙間に、革靴の爪先が鈍い音をたててねじ込まれた。
狙ったかのように悠斗のちょうど目線の高さで、指先がドアの側面を掴む。元ハンドボール部の握力で勢いをつけて引かれ、あまりにも呆気なくドアはこじ開けられた。
悲鳴をあげる暇もなかった。喉奥で詰まった息がひっ、と情けない音を漏らす。保科は躊躇なく敷居を跨ぐと、逆光の中、悠斗を見下ろした。
笑みを浮かべた表情はほとんど変わっていないのに、目だけがさっきまでと違う。
嗜虐的な色を滲ませて冷たく光っている。
「ほんっと……チョロいね、お前」
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