1 / 10
第1話《幸せの記憶》
玄関のドアを開けると、寒い風が暖房で温もっていた身体を一瞬の内で冷たくする。
「行ってきます」
家の中へ声をかけ、マフラーを口許まで引き上げて外へ出た。
凍えるように寒い中、僕はコートのポケットに手を入れて肩を竦めて歩く。
数歩も歩かない内に僕の目の前に、1輪の真っ赤な薔薇の花が差し出される。
(………えっ)
「おはよう」
爽やかな笑顔で王子様風に現れたのは、本当に王子様と皆から陰で呼ばれているイケメン、疾風夏樹だった。
「…おはようございます」
彼を見ないように俯いて、早足で横を通り過ぎていこうとした僕を追いかけてくる。
「……あ…待って待って。この薔薇…」
「………すみません」
最後まで言わせず立ち止まる。
心の中で大きな溜め息を吐きながら。
振り返り、僕より背の高い彼の顔を見上げる。
相変わらず綺麗な顔をしている。
ハッキリした目鼻立ち。
女性に間違われてもおかしくないほど綺麗な顔をしているのにもかかわらず、何故か女性的には見えない。
(やっぱり、どこから見てもαだよな)
「…僕、βですけど」
(まさかと思うけど、僕の事をΩと勘違いしているわけじゃないよな?)
「うん、知っているよ」
間髪いれずのその返事に、僕の心配は杞憂に終わった事を知る。
この世の中には男、女意外にα、β、Ωがいる。
-昔。
この国の出生率が減少し、晩婚化が進み、同性婚も増えて… それに伴い女性の数も、出産率も減少して種族の存続が難しくなってきた時、人類はα、β、Ωを生み出した。
稀に、種族の存続が難しくなった時、その種族の存続の為にそういった特別変異体が現れたりする事があるらしい。
進化形っていうのかな………。
αはエリート体質で身体機能、知能、共に高く、社会的地位が高いが数が少ない故に色々な事において優遇される事が多い。
なんてったって、エリートだから。
数が少ないとはいえ、僕の通っている学校にもαはいるわけで。
今、目の前にいる人物-疾風夏樹もまさにαそのもの。
両親は勿論、親戚も全員がαといったエリート一族。
背は高いし、顔はイケメンだし、成績は常に上位だし、スポーツ万能でいう事なし。
かといって、それを他のαみたいに鼻にかける事もしない。
αは選ばれた人っていう選民意識が強いから、プライドも高いし、α以外を下にみている人が多いけど。
疾風夏樹はそんな事全然なくて、βにも優しいからすっごく人気が高い。
そうなるともう…羨ましい…というより、溜め息しか出てこない。
次にβ。
これは1番数が多く、一般的で普通。
可もなく不可もない、本当に平均的な中間層。
僕-五十嵐蒼眞が、まさにそれ。
背は高くもなく、低くもなし、顔は良くもなく、悪くもない。
成績は中の中。
運動神経も良くもなく、かといって悪くもない。
本当に平凡。
そして。
最後がΩ。
地位的には最下層。
カースト制度でいえば、いちばん下。
その原因は3か月に1度、1週間ほど続く発情期。
性別を問わずα、時にはβをも惑わすフェロモンを発生させる為。
皆をフェロモンで惑わせるから。
その為αよりも数が少なく絶滅危惧種扱いされるほど希少な存在にもかかわらず、繁殖するだけの存在としてしかみられず、社会的地位は低く蔑まれる存在だったらしい。
もちろん、今は昔と違い法整備がされて…特にこの国では晩婚化が進み、独身で一生を過ごす者も多く、男性だから女性だからとの考えがなくなるにつれて同性婚も増え…その為Ωは子孫繁栄の為に欠かせない存在となっており、国が手厚く保護をする対象としてΩを産むと国へ申告の義務が発生する。
だから僕は…僕だけじゃなく、一般市民は皆、Ωと会う事はもちろん、見た事さえない。
学校にもいないし、道端で擦れ違う奇跡すら起こらない。。
『番』のいないΩは法律で外に出る時は首を保護する首輪をしなくてはいけないし、『番』のいるΩは項にαの噛み跡があるからすぐにそれと分かる。
『番』のいないΩが首輪をするのはαからΩ自身を護る為。
αに項を噛まれない為。
αがΩの項を噛むとαとΩは『番』になり恋愛よりも、結婚よりも強い結びつきを持つ事になる。
αとΩの『番』の結びつきは死ぬまで一生続くが、αの側からのみ『番』の解除ができ『番』を失ってしまったΩは精神的ストレスから2度と再び『番』を持つ事ができなくなって…酷い時には精神に異常をきたしたり衰弱したりして自ら死を選んだ者もいたらしい。
昔はヤリ逃げならぬ噛み逃げもあったと聞く。
だから、そうならない為にもαとΩが『番』になる時は前もって『番』になる届けを国に出して、許可をもらい登録しなければならない。
だが。
「この薔薇、受け取って?」
今みたいな場合はどうしたらいいのだろうか。
小首を傾げてニッコリ笑いながら僕に薔薇を差し出している疾風夏樹を見詰めてもう一度、二回目の溜め息をこっそりと吐く。
(これが反対なら、分かるんだよな)
「………ありがとうございます」
ボソボソと礼を言うと、疾風夏樹は嬉しそうに頬を染めて笑う。
その笑顔が眩しくて、受け取った薔薇を意味もなく見詰める。
(βがαに一目惚れは、よくある話なんだけど、αがβに一目惚れなんて…)
その時、薔薇の茎に棘がない事に気付いた。
「疾風さんは………」
「夏樹って呼んで」
「………僕のどこがいいんですか?」
「全部」
間髪入れずに当然のように答えられ、僕の方が赤面する。
「初めて………一目見た時から惹かれた。これは噂に聞く“運命の番”だよ、きっと」
…運命の番……。
嬉しそうに、頬を赤らめて疾風夏樹は言うけど。
(…いや、どう考えても無理があるでしょ)
αとβじゃ………。
僕は呆れてしまい、3度目の溜め息を心の中で吐いた。
(疾風夏樹って………αなのに、馬鹿なの?)
“運命の番”…それはαとΩのみに現れる現象だといわれている。
あくまでも噂。
僕自身は都市伝説的なものだと思っているけど。
だが、それに憧れを持つβやΩは結構多い。
Ωが憧れるのは分かる。
虐げられたΩが、『いつか自分の前にも“運命の番“が………!!』とかなら分からない事もない。
分からないのはβだ。
βは“運命の番”は全く関係ない。
それなのに憧れている。
何故だ。
運命という言葉に誤魔化されているのか。
僕は皆ほど無邪気に“運命の番“に対して憧れる事はできない。
皆は知らないんだ。
“運命の番”の言葉にどれだけのΩが犠牲になり、泣いたか。
Ωがαに運命を感じても、αに害はない。
せいぜいストーカーになるくらいで…それだってΩがαを傷つける事はできない。
恐いのは、αがΩに一方的に運命を感じた時だ。
αはΩを“番”にする事ができるのだから。
Ωの意志に関係なく、Ωに好きな相手がいようと、Ωに恋人がいようと、Ωが結婚していようと。
その相手が『番』持ちなら地団駄踏んで諦めるしかないが…そうでなければ先に『番』になったら、そのΩは自分のモノ。
そうやって引き裂かれたβとΩ、ΩとΩ、中にはΩが本当に好きでΩの気持ちを優先したばかりに別のαに先を越され、強引に『番』にさせられて泣く泣く引き裂かれたαとΩのカップルもいたらしい。
かといって“運命の番”と思ったΩを『番』にした途端、興味を失うαが多いのもまた事実で。
“運命の番”じゃなくなったΩは一方的に『番』を解除され…後はお決まりのコース。
『番』を解除されたΩは2度と『番』を持つ事ができずに………元の恋人の元へも戻れず………。
僕のβの祖父は昔Ωの恋人がいたそうだけど、αに仲を引き裂かれた過去がある。
一方的に“運命の番”だと迫られ、さらわれて無理矢理『番』にさせられたΩの恋人は………しかし、すぐにαに『番』を解除されたらしい。
それからそのΩがどうなったかは知らない。
多分、祖父の元には戻らなかったんだろう。
それ以来、その話はしていない。
祖父が話したがらないし、その話も、祖父が珍しく酔った時に話してくれただけだから。
その時、初めて祖父にΩの恋人がいた事を知った。
祖父が何故,αを毛嫌いしているのか理由も分かった。
-その話を聞いてから、皆ほど“運命の番”に対して憧れはない。
現実主義でエリート意識の高いαは運命なんか、信じてなさそうだし。
運命は待つものじゃなくて自分の手で掴むものだ…とか。
でも、僕の目の前にいるαであるはずの疾風夏樹はその王子様顔の頬をほんのりピンク色に染めて僕を“運命の番”と告白する。
αとβで“運命の番”なんてあり得ない。
そもそも、αとβじゃ『番』になる事さえできない。
それは疾風夏樹も知っているはずなのに。
頬をほんのりとピンクに染めて僕の事を“運命の番”と告げる疾風夏樹は………αなのに……可愛く見えた。
ともだちにシェアしよう!