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第1話
十二月になった途端、世間の雰囲気が浮かれる。テレビのチャンネルを変える時のように、パッとあっという間に。昨日までそんな素振りを全く見せなかった街並みが、今日になって急に煌びやかになる様子を人々は当たり前の様に受け入れる。「急に着飾りやがって」と、僕は毎年小馬鹿にするように笑うのだが、そんな冗談を受け入れてくれる家族や友人が今年はいない。
赤と緑のLEDライトに、モミの木やプレゼントのモチーフ。そして絶えず流れ続ける、同じようなクリスマスソング。賑やかな駅前を、僕は急ぎ足で通り過ぎようとしていた。
葉が落ちて細くなった街路樹に巻きつけられた電飾を横目でチラと見上げながら、僕は白い息を吐く。
地元の駅前とは比べ物にならない程豪華なイルミネーションが、街の至る所に飾り付けられている。そんな光景に驚くことにはもう慣れた。この街に来て半年も過ぎた頃から、そんな感情は薄れる一方だった。
一度遅めた足を再び動かす。そして腕時計に目を向ける。時々人差し指で文字盤の辺りを軽く叩かないと、止まってしまうような時計を。
僕はさらに足の動きを早めた。予定時刻より十五分も遅い。時計やイルミネーションを見ている場合ではない。
♢♢♢
「遅れてすみません」
ほぼ駆けるような状況で、裏口のドアを開ける。あれから全力で走って来たので疲労困憊だった。膝はガクガクと震え、喉の奥から血の味がうっすらとする。肩で息をしていると、パソコンの前で座っていた店長が振り向いた。
「おー、珍しく遅刻か。もう来栖君はとっくに入ったぞ。この時間帯忙しいんだから、早くしなよ」
「はい、すみません」
店長は少し困ったようにため息をつき、そして再びパソコンに向き合った。僕は彼の背中を見る。四月に初めて会った時よりも、制服が窮屈そうに感じた。
ロッカーを開け、カバンから制服を出す。緑と赤の派手な横縞のシャツだ。胸に名札を付け、タイムカードを切って、事務室を出た。
眩しく感じるほどに明るい蛍光灯と、その光を跳ね返す床。そしてあちこちに置かれた棚には規則正しく陳列された食品や雑貨が並べられている。全国どこにでも見られるコンビニエンスストアの内装だ。普段なら人で賑わっているというのに、店内に客は一人もいなかった。この時間帯にしては珍しいことだ。
ドアの開く音に気付いた彼が、振り向いた。
「清士くん、今日もお疲れさん。走ってきたの?息上がってるし」
「本当にごめんなさい、冬馬さん。一人じゃキツかったですよね」
来栖冬馬は僕の謝罪に微笑みながら応えた。
「全然気にしなくていいよ。今日は何故か暇だったしね。誰だって忙しい日はあるよ。清士くんは気にしないで」
もう一度彼に謝罪と感謝の言葉を言おうと思ったが、口の中で消えた。一度に大人数の客が来店して、それどころじゃなくなったのだ。結局冬馬にそれらを伝えられないまま、その日のバイトは終わった。
引き継ぎの人が来たので、僕らは事務室に戻った。店長はまだ事務作業に没頭している。僕も卒業して働き出したら、あんな風に仕事漬けになってしまうのだろうか。
そそくさと着替え始めた僕の横で、冬馬は制服のまま椅子に座ってスマホを弄っていた。
「冬馬さんの携帯、めっちゃ鳴ってますね」
「そうなんだよー。これから飲みに行くからさ。すっげえ急かされてんの」
「じゃあ急いだ方がいいですね」
まあね、と簡単な返事をしながら忙しなく指を動かし、友人にテキストを送る冬馬。そんな彼に背を向け、僕は事務室のドアを開けた。扉が開くと同時に身を貫くような風が吹き込む。そして首に巻きつけたマフラーの隙間を通った。全身が縮み、固くなる。
「あ、清士くん帰るの?お疲れ様。風邪ひかないようにね」
冬馬は液晶画面から目を離して、僕の方を見た。目と目が合う。一拍遅れて僕は会釈をした。
♢♢♢
コンビニから離れ、駅の方へ向かう。歩けば歩くほど通行人とすれ違う頻度が高くなる。イルミネーションが派手になる。手先の温度が低くなる。寒くて仕方がなかった。
ポケットに手を入れても、厚着をしても身体の震えが治らない。僕は寒さに強い方だと自負していた。現在住んでいる街より、平均気温が方がずっと低い田舎町で生きていたのだから。
冬になれば毎日のように雪が積もり、近所が真っ白になる。晴れる日は滅多にないので、空まで色を失う。真っ新な画用紙のような片田舎で生活していた頃の方が、今よりも薄着だった。こんな着膨れしてしまうコートなんて絶対買わなかったし、マフラーだってお洒落な巻き方に挑戦していた。どうしてこんな風になってしまったのだろう。
俯いて歩いていると、向かいからやって来る人とぶつかりそうになった。慌てて半身を反らせる。危なっかしい避け方だっため、舌打ちをされてしまった。ごめんね、と心の中で謝る。
顔を上げると、目の前に輝く大木があった。いつの間にか駅前の広場に到着していたようだ。この巨大ツリーの前で写真を撮るために、毎年何千人もの若者がここに寄るらしい。
僕はふと、バイト先にいる大学生を思い出した。来栖冬馬のことだ。彼のように明るくて陽気な学生は、季節のイベントに積極的に参加するのだろうな。同じ学生なのに僕とは大違いだ。若者が楽しみ、好みそうな出来事と関わるチャンスのある彼と、それらとは無縁な僕。思わず吐いたため息が、白い煙となる。
僕は歩き続けた。寒さから身を守る為に背中を曲げて。歩けば歩くほど、すれ違う通行人は減る。イルミネーションは減り、ネオンの光が増える。もつれるように歩くカップルや、一目見ただけでは推測しにくい関係性の二人組がちらほら見える。皆、酔っぱらったような表情でホテル内へと消えていく。時々建物から漏れる怒声や嬌声が僕の耳に届く。
そんな裏通りの一番奥で、僕は歩みを止める。そしてこの辺りで一番地味で安っぽいホテルを見上げ、そこのエントランスへ入っていった。
♢♢♢
「セイジくん。やっと来たね」
「ただいま、"パパ"」
ベッドの上にいる彼に向かって、僕は駆け寄った。そしてその勢いのまま抱きつく。衣服を身に付けていない彼の肌は少し湿っている。スプリングが派手に軋む。その拍子にカビ臭いシーツの香りがした。
「ごめんね。中断しちゃって」
「いいんだよ…君はバイトがあったからね。今日も頑張ったのかい?」
「まあね。相変わらず忙しかったんだ」
そう言い終わらないうちに"パパ"は僕の頭を撫でた。目を薄く開いて微笑む。まるで父親に褒められる息子のように。
ハグを解いて、僕は彼の顔を見る。目頭に眼鏡の痕が付き、肌のテカリやシミが目立ちつつある顔を。どこにでもいそうな中年男性。二十歳の息子を持つには少々若すぎる男。
「パパ、もうしたいの?僕、帰ってきたばかりなんだけどなあ」
「しょうがないだろう。いい所でお預けくらって、何時間も待ったんだからね」
「あーそれもそうだった。じゃ、始めよっか」
重たい掛け布団越しから伝わってくるほど、膨張した彼のあそこを撫でる。それを続けながら、彼の唇にキスをした。男の生温い舌が口内にぬるりと入り込む。彼は執拗に僕の歯茎や舌を舐めた。僕の口の端からだらしなく唾液が流れる。息継ぎをする間も無く、彼が僕に覆いかぶさってきた。体がベッドに沈む。
「セイジくん、ちゃんとボクのことを『パパ』って呼んでね」
「分かってるよ。安心して」
彼は荒くなった息のまま、僕の服を脱がせた。肌が露わになるたびに、身体の温度が上昇していくのが分かる。
「そんなに急がなくても僕は逃げないよ」
耳元で囁いてみる。彼の呼吸がさらに激しくなったような気がした。父親を名乗るこの男は、僕を抱きたくて仕方がないようだ。必要とされている。それが分かると体の震えがとまった。もう寒くない。
「その足の動かし方ヤバイ…セイジくん…」「やめてほしい?」「そ、それは」「冗談だよ」
足の指先で彼の性器を弄ぶ動作を中断した。何もつけていないのに、僕の足の裏はテラテラと濡れていた。これ以上続けると、この男は果ててしまうだろう。最近になって何となくだが、そういうタイミングが掴めるようになってきた。
「からかってゴメンね。これはお詫び」
自分の顔を彼の股に近づける。固くなったそれを口に含んだ。苦いような、しょっぱいような味が広がる。これを美味しいと言って喜んで舐める人もいるようだけど、僕にはイマイチ理解出来ない。この世にもっと美味いものはあるし、金銭が発生しなきゃやってられない作業だと思う。
チラリと彼の顔を見上げる。朝舐めてやった時よりも満足そうな表情を浮かべている。散々焦らしたからだろうか。そんな顔は、温泉にでも浸かった時くらいしかお目にかかれないだろうな。
フェラは客が喜んでくれる。しかし顎がとてつもなく疲れるので好きになれない。金儲けの為に、一瞬だけ自己犠牲精神を発揮するのも悪くないだろう。
「今日も気持ち良かったね。僕たち相性いいかも」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」
彼はそう言いながら笑った。泡だらけになった背中が揺れる。笑い声が狭い浴室に響いた。
僕は彼の背中をスポンジで擦る。窓ガラスを掃除する時のように念入りに。この行為も彼から受けた注文なのだから、手抜きすることは許されないのだ。
「じゃあ背中ながすね。このあともう一回お風呂に浸かろうよ。…寒くなっちゃった」
「体、冷えちゃったのかい?また温まったほうがいいね」
彼が僕の手を引く。円形の浴槽に入って向き合った。成人男性二人が入るには、少々狭い。お互いの体の一部が触れる。
パパが後ろから手を回してきた。僕は彼の腕に包まれるような形で三角座りをする。少しぬるくなってしまったお湯と彼の体温のお陰で、悪寒が和らぐ。
「…セイジくんとボク、結構長いよね」
「まあね。いつも感謝してるよ。急にどうしたの」
「あのさあ…少し君の昔の話が聞きたくなって。たまにはいいでしょ?」
僕を抱きしめる力が強くなる。その時、腰の辺りに彼の性器が当たった。風呂の水温のよりも高い。生々しい温もりを感じながら、僕はこれから話すであろう過去話の構想を練っていた。
「うーん…いいよ。パパには話しておきたいし」
鼻を大袈裟にすする。涙がすぐそこまで出かかっていることをアピールするように。
♢♢♢
数時間後、ホテルのネオン看板の前で僕と彼は向かい合っていた。組んでいた腕を解く。彼は皮製の鞄から分厚くなった二つ折り財布を取り出した。
「今日もありがとう。これはお礼だよ」
「毎度あり、です。また呼んでねパパ」
彼の頰に触れるようなキスを落とす。手渡された紙幣をポッケにしまった。これだけあれば、しばらくは大丈夫だろう。エントランスの前で彼とは別れた。僕は彼の姿が見えなくなるまで手を振った。無邪気な息子を演じるのもたまにはいい。
彼がホテル街へ消えると、僕は踵を返して駅の方へ向かった。寒さに震える体を鼓舞するように大股で歩きながら、先ほど風呂場でした会話を思い出してしていた。
僕は彼に、僕が地方出身の貧乏学生で生活費を稼ぐ為に体を売っている、という過去を話したのだ。
自分を手酷く振った男から離れるために都会に出たかった。しかし実家にいる親から反対された進学だったので仕送りはゼロ。そんな状況なのに僕は成績が少しでも下がったら実家に強制送還されてしまう。バイトの時間を多く取れない。だから致し方なく援助交際に手を出している…というような内容を三十分ほどかけて語った。時々涙を交えて詰まりながら。
彼には少し申し訳ないことをしてしまった。ポケット内の紙幣を握りながら少し後悔する。いつもより金額が多いのだ。「これで少しは幸せな生活を送ってくれ」という彼なりのメッセージなのだろうか。
さっきの過去は半分本当で、もう半分は嘘だ。嘘をつくコツは時々真実を交えると耳に挟んでからこうしている。我ながら上手くいったと思うが、常連客を騙すのは少し胸が痛む。僕は愛想が良くて甘え上手な「セイジくん」ではない。不器用で無愛想な「清士」は嘘をつくのが苦手なのだ。居心地が悪くなる。
小さなクシャミをした。体がゆっくりと温度を失ってゆく。僕は急ぎ足でホテル街を抜けた。早く部屋に帰ろう。そして毛布にくるまって眠りたい。思わず、だいぶ前に壊れてしまった暖房器具のことを思い出してしまう。今日貰った金で買い直そうかな。
♢♢♢
学校がない日は朝から晩までシフトを入れる。金のない学生にとって、授業がない日は絶好の稼ぎ日和なのだ。一日中立っていたせいで棒のようになった脚を引きずるようにして、事務室に入る。僕の後ろに冬馬も続いて入室した。彼がため息をつきながら呟く。
「最高に疲れた…。もう風呂入って寝たいよ」
「今日も忙しかったですね。もう慣れちゃいましたよ」
「慣れた、か…頼もしいねえ。そういえば、俺らすっかり顔馴染みだよね」
僕らのシフトが高頻度で被ることに、彼も気付いていたようだ。冬馬はロッカーからリュックを取り出しながら言葉を続ける。
「お互いバイト漬けの生活送ってるよな。俺はいいとして、清士くんは体をもう少し労ったほうがいいよ」
「どうしてですか。僕は平気ですよ」
僕のことをひ弱そうだと言いたいのだろうか。
確かに僕は、彼のようにがっしりとした体系では無いし、色も白い。スポーツとは程遠い生活を送っているからだ。
そんな貧弱野郎の僕でも、無茶なシフトを詰めるのにはれっきとした理由があるのに。彼の言葉の意図が掴めず、思わず眉をひそめた。僕の胸中を察したのか、冬馬は慌てた様子で首を振る。
「あ、ごめん。弱そうって意味で言ったんじゃないよ。最近顔色悪そうだったからさ、心配になっちゃって」
「僕の方こそすみません。…これからは心配かけないようにしますよ」
自分でも表情が顔に出やすい方だと思う。その欠点のせいで、彼に気を遣わせてしまった。冬馬の視線から逃れるようにして僕は俯く。気まずい空気が室内を覆う。
彼はロッカーから離れ、備え付けられた椅子に座った。そしてカバンから本のようなものを取り出した。横目でそれがスケジュール手帳だということは確認出来たが、内容まで覗き込もうとするほど僕は不躾な性格じゃない。再び視線を逸らす。
─やってしまったなあ。
僕は目を固く閉じた。こんな瞬間に自分自身に嫌気がさすのだ。気にかけてくれる人を、自分の無愛想な態度で蔑ろにしてきた人生を恨んだ。こういう状況を積み重ねて、僕という人間は孤独に向かっていくのだろう。
着替え終わった僕は彼の後ろを通り過ぎようとした。その時、彼の持っていた手帳が視界に入った。開いていたのは、今月の予定を書き込むページだった。三十一日分のマス目には、彼が書いたであろう黒い文字がビッシリと埋められていた。
「お、気になる?」
「すみません。覗き見するつもりは…」
「ジョーダン。分かってるよ」
彼はケラケラと笑った。さっきまでの息苦しさをすっかり忘れてしまっているかのように。その様子に僕は胸をなで下ろす。彼は手帳を閉じながら言った。
「俺、ここ以外にもバイト行っててさ。だから予定多めなのよ。学費以外は自分で出したいからさ」
その言葉を放つ彼に、辛そうな様子は感じられない。当たり前のように、サラリと言う。彼の発言に、僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。僕は震える唇を無理矢理開いた。
「そうだったんですか…。あの」
冬馬は首を傾げ、僕を見上げた。栗色の瞳に、僕のシルエットが写り込んでいる。
「冬馬さんこそ、無茶しないでください。僕もこれから気をつけますから」
「そうだね、俺も注意できる立場じゃなかったかも。よし、これは二人の約束だ。学生同士、無理しない程度に頑張ろっか」
握りこぶしを差し出させる。今まで触れたことのないテンションに戸惑いながらも、それに応えた。彼の温かい拳と僕のちっぽけな拳が、コツンと小さな音を立てて触れ合った。
♢♢♢
都会特有の、狭い公園に僕は立っていた。申し訳程度に設置された遊具は錆つき、そこに電飾看板の光が当たる。黄色で塗られたキリンの体はピンクのネオンに照らされていた。
ビル街の中心にあるオアシス的な空間は、昼間ならば利用者がいるだろう。しかし現在のように太陽が沈んだ後の、闇に包まれた公園にいる人間はいない。時々、酔いつぶれたサラリーマンのイビキがベンチから聞こえる時以外は静まり返っている。
「今日は無理か」
トイレ横のベンチに座る。ズボンに冷たい木が触れると、一瞬で尻の筋肉が硬直した。すっかりぬるくなった缶コーヒーを両手で包むと、残りの液体を全て喉に流し込んだ。
かれこれ二時間ほど立っているが、今日に限って誰も来ない。ここは自分を売る男と、男を買う男が人知れず集まる場所だ。普段なら僕と同じような人間が何人かいるはずなのに。自分を買う客を待っている間、皆んなは缶コーヒーを飲んでいる。一部の人間にだけ伝わる、合図のようなものだ。
今夜は特に冷えるらしい。吹きさらしの公園に何時間も立ちたい奴なんていないだろう。僕は立ち上がって、公園を出ようとした。風邪なんて引いたら、バイトを休む羽目になる。それだけは避けたかった。
「今夜、どう?もう帰っちゃう感じ?」
後ろから肩を掴まれる。振り向くと、僕より背の高い男が立っていた。反射的に彼の手を振り払いそうになった。しかしグッと堪える。何時間も待って、やっと見つけたお客様だからだ。
「まだ帰んないよ。お兄さんが遊んでくれるならね」
「なんて名前?年はいくつ?」
「セイジ。十八だよ」
「へぇー、よく見るとキミ、結構いい感じじゃん。よし決めた。じゃ、行こっか」
僕の顔をジッと見つめながら、舌舐めずりをする。第一印象は正に「トカゲのような男」。
彼は手首を掴み、僕を公園から連れ出そうとした。長い爪が服に食い込む。戸惑う僕をよそに、彼は歩き続けた。
「行くってどこに?そっちはホテル街じゃないけど」
「え、オレの家だよ?何でホテルなんて使うんだ。高いじゃん。それにここから五分もかからないしさ、いいだろ」
トカゲ男は手の力を強める。初めて会うのに、自宅に連れ込もうとするなんてマトモな人間じゃなさそうだ。反論しようとしたが辞めた。寒空の下で掴めそうになった金を逃したくないという気持ちの方が優った。それにこれ以上この男の機嫌が悪くなると、帰る可能性が高い。
「お家デート?全然いいよ」
トカゲは再び下唇を舐めた。彼の唇は潤いを失い、砂漠のように乾燥していた。
♢♢♢
結局二十分ほど歩かされた。それだけでも最低なのに、コイツの家と自宅が近いだなんて。もう金なんてどうでもいい。早く帰りたい。
背後でアパートの重いドアが閉まる音がする。さらに、男はチェーンもかけた。すぐに逃げる事は難しそうだった。さっさと仕事を終えてしまおう。そう決心した僕は彼に声をかけた。
「シャワー浴びてもいい?寒いんだ」
「えーっ、どうせこれからあったまるんだしさ。そんな時間勿体ないだろ」
そういう問題じゃないだろ。この男にはデリカシーってモノがないのだろうか。眉間に寄ったシワを無理矢理伸ばすように、僕は口角を上げる。
「分かったよ。…じゃあ始める?」
「そうだな!じゃあセイジくん脱いでてよ。オレ、一服してくるからその間に準備しといて」
男はベランダに消える。閉められた窓に向かって舌を突き出した後、僕は服を脱ぎ始めた。重いコートが体から剥がれた。
全裸の僕が汗臭い掛け布団に包まって待機していると、煙草を吸い終えた男が帰ってきた。
「汗かいてないし、オレもシャワー浴びなくていいよね?」
僕の返事なんて最初から聞く気は無いのだろう。彼はそう言いながらズボンのジッパーを下げた。その状態のまま男は動こうとしないので、僕がトランクスを下げてやる。彼の性器が見えた途端、一瞬息が詰まった。鼻に粘りつくようなキツイ臭いに、思わず顔をしかめそうになる。
今だけでいい。この瞬間だけ嗅覚と味覚が無くなればいいのに、と本気で願った。
「セイジくんの舐め方って可愛いね。そんなに美味しいの?」
頭上から間抜けな声が聞こえる。降ってくるのがこの声ではなく、男の首から出た血飛沫であれば少しは気が楽になるのに。そんな現実逃避をしていると、彼は僕の額をグイと押しのけた。垢と唾液まみれの棒が目前に鎮座してる。
「イク前に挿れていい?」
「いいけど。ゴムはしてよ」
溜息を堪えながらうつ伏せになって寝転ぶ。シーツに顔を押し当てた。今だけは、何も視界に入れたくなかった。トカゲみたいな表情で僕を見る男も、生ゴミだらけの部屋も、しっかり洗ってなさそうな性器も。
長い爪を生やした男の指が、僕の尻に触れた。肛門を無理矢理こじ開けるように。爪が食い込んだ。
「声抑えてろよ。ここ、壁薄いから」
そう言うや否や、いきなり挿入された。思わず呻き声が漏れる。ロクにほぐせていないというのに、そんなの御構い無しだった。
目頭に涙が滲み出る。この方法で金稼ぎを始めてから、時々こんな感情に襲われる。自分が無価値な塵のように感じるのだ。一人の人間として扱われていない時は特に。
男の額から流れた汗が、時々僕の背中を伝う。
掠れた声が耳元で聞こえる。
「あー、もう出る。ナカでもいいよね」
「は?出すって…」
僕の言葉の途中で、何か生温かいものが体内に放出された。それに気づいた瞬間に、全身を鳥肌が覆う。
「まさか、お前…」
男が性器を引き抜いたと同時に、股の辺りに手を当てた。手のひらに、ベッタリと白い精液がこびりついている。手をシーツで拭いながら、男の方に顔を向けた。
「ゴムつけてなかったのかよ!話が違う」
「ごめんごめん、切らしてたの忘れててさあ。
金なら払うから許せよ」
男はベッドから離れ、床に脱ぎ散らかした服を拾った。生地が薄くなったジャージのポケットから長財布を取り出す。有名ブランドのフェイクだと一目で分かるそれからは、何枚ものレシートがはみ出ていた。
「いくらだっけ?」
「三万だけどゴム無しだったから六万」
いつもの値段よりも高くしてやった。これだけ我慢したんだ。多めに貰ってもバチは当たらないだろう。
「六万!?高えな…。そうだ、とりあえず連絡先交換しようよ」
「何で?」
「今手持ちが無くてさ。金なら今度払うから」
嫌な予感が的中した。こいつがホテル代をケチった辺りで帰るべきだった。喉元まで出かかっている怒鳴り声を抑えながら、微笑んだ。
「今度っていつ?僕はここで待ってるからさ、下ろしてきなよ」
「次会った時だよ。キミにはお客様としてのオレじゃなくて、セフレとしてのオレを愛してほしいんだ」
獲物を仕留めるトカゲのように細い目で、僕を眺める。彼の瞳に映る朧げな自分の影を見ていると、今日一日の疲れが体内から溢れ出しそうになった。全てが終わってほしい。もう、どうでもよかった。
「勘違いしてるだろ。ふざけんな。僕はセフレになる為にセックスしたんじゃない。金稼ぐ為に、ヤッたんだよ」
金稼ぎよりも自分の感情を優先した結果、自分でも驚くほど乱暴な言葉が出た。飛び出た唾と声が、ベッドシーツに染み込む。服を着るのも忘れて、彼ににじり寄る。
「その財布に入ってる分だけでもいいから払え。タダで僕とヤレる訳ないだろ。さっきまではお前を客だと思ってたから我慢してたけど、もう限界だ。帰る」
男が持っている財布に手を伸ばそうとすると、腕に強い衝撃が走った。それと同時に偽ブランドの財布がポトリと落ちる。直後、目の前が真っ暗になり、頰骨が音を立てて響いた。衝撃が痛みに変わり、脳へ届き、全身を駆け巡る。床に倒れこんだ時に、やっと彼に殴られたと気付いたのだ。口の中で鉄錆の味が広がる。
視界に火花が散っているというのに、体が引き上げられた。男が動かない犬の散歩をしている時のように、僕を引きずる。殴られた直後の僕は上手く体を動かせない。されるがままだ。頭上から男の低い怒鳴り声が聞こえる。
「セイジ…お前こそ調子に乗りすぎだ。体を売ってる屑のくせにうるせえんだよ。お前みたいな奴は人形みたいに黙って、チンコでも咥えてればいいものを、歯向いやがって」
興奮しているのか、男は口の端に泡を溜めながら呟き続ける。
「一度痛い目に遭ってみればいいんだ」
冬の空気を含んだ風が、僕の背中を撫でた。男がドアを開いたのだ。
「な……何するつもり」
「今に分かる」
男が僕を投げ捨てた。玄関の床とは比べ物にならないくらい冷めたコンクリートに叩きつけられる。既に目の前に、男の姿は無かった。閉め切られた鉄製の扉があるだけだった。
「おい、開けろよ」
両手でドアを叩く。夜風の吹き通るアパートの廊下に、僕の声が響く。棘のような風が肌を刺すと、体の温もりが一瞬で失われる。
冷気が背骨を這う。全身の血管が凍りついてしまってもおかしくない。寒さを通り越して痛みすら感じる。
「僕も言いすぎた。悪かった」
いくら叩いても、扉はピクリともしなかった。手から血が滲む。僕はドアに背をピタリとくっつけて、体を小さくしてしゃがんだ。もう指や爪先の感覚が殆ど無い。痺れるような痛みがあるだけだった。
体を覆う物が何も無い。その事実が絶望を色濃くさせる。動けない、どこにも逃げられない。男がドアを開けてくれるまで、どのくらいの時間がかかる分からない。
僕のちっぽけな人生がこんな所で終わるかもしれない。「死ぬかも」という冗談のような言葉が、いよいよ現実味を帯びて僕に詰め寄る。
屑男とセックスした直後に凍死。こんな死因を知った家族はどう思うだろうか。アパートの白いドアを見ていると、故郷の空を思い出した。この時期は雪が積もる小さな街。毎年恒例の雪掻きで腰を痛めた両親。彼らは都会に出た息子が元気に、そして平和に過ごしていると信じているだろう。
心労がたたって受験失敗をして、一浪してまで進学した地元の大学に通う息子。自力で生活出来ると言い切って、仕送りを断った息子の幸せな日常を、両親は信じて疑っていないはずだ。
「ごめんね」
ドア越しに居る男にではなく、この場にいない誰かに向かって謝罪の言葉を吐く。白い息が視界の端で消えた。
こんな姿、誰にも見られたくない。そんな考えが浮かんでは消える。この期に及んで、人目を気にする人間らしい一面が残っていることに驚いた。
目を閉じた。どうせ死ぬなら眠るように逝きたい。死の淵に落とされる瞬間は苦しいかもしれないが、せめて安らかな表情を浮かべておきたかった。翌朝扉を開けた男が、僕が死んでいる
ことに気付くのが遅れてしまうくらい、穏やかな顔で死にたかった。目の前が闇に包まれる。
全身の皮膚が痺れるように痛む。ふと、銭湯で電気風呂に入った時のことを思い出した。その記憶をきっかけに、昔の思い出が次々に浮かび上がる。電気風呂から始まる走馬灯だろうか。
痺れは脳にまで達する。今の僕には何かを感じることすら難しかった。
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