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第2話
遠くから靴音が聞こえることに、中々気付けなかった。 青白い蛍光灯に照らされた寒々しい廊下に、足音がコツコツと響く。誰かが近づいて来る。そう理解しているのに、目を開けなかった。全身の筋肉が硬直しているかのようだった。足音は目の前で止まった。赤ん坊のような体勢でうずくまる僕を誰かが見ている。
「もしかして、清士くん?」
低い声が風音と共に消えた。直後、肩の辺りに何かが覆いかぶさる。そこに温もりを感じた。どこか聞き覚えのある優しい声は、もう一度僕の名前を呼んだ。そっと目を開く。視界は涙で霞んでいたが、目の前にいる人物を見ることができた。
「清士くん、しっかりして。俺だよ」
彼は僕と視線を合わせるように屈みこんでいた。目前にある見覚えのある顔。彼の栗色の瞳に自分のシルエットが映されていた。
「冬馬、さん?どうしてここに…」
「とにかく俺の部屋においで。お互い説明は後だね。そんな格好じゃ死んじゃうだろ」
そう言いながら、彼は僕の肩からずり落ちたダウンジャケットをかけ直した。僕の上半身はスッポリと包まれてしまう。服に残された冬馬の体温が、僕を温める。全身の血が再び流れる。
「立ち上がれそう?」
彼の質問に首を横に振ると、冬馬は僕を軽々と抱えた。そして真隣にある扉を開き、中へ入った。
♢♢♢
「シャワー浴びてきなよ。その間に部屋を暖めておくからさ」
彼に言われるがまま僕は浴室に入る。両腕を伸ばせば、左右の手が壁に触れてしまうほど、こじんまりとした作りだ。蛇口をひねり、シャワーノズルから水を出す。
下半身に違和感を感じたので、内腿に手を這わせる。何かが指先にまとわりついた。粘度が高い液体が人差し指に付いている。白と赤が混ざったもの。僕は即座にそれを洗い流した。きっとこれを彼に見られたかもしれない。
濡れた手のひらを眺めていると、自分が震えていたことに気付いた。原因は寒さや恐怖、安堵感からだろうか。両腕で身を抱いた。背中に雨のように降り注ぐ湯を当てても、震えは治まらなかった。
脱衣所に出ると、足元に服が畳まれていた。無論、自分のものではなく、彼の服だ。グレーのパーカーと黒のジャージ、そして下着。ゴミ箱に男性用下着のパッケージが捨てられていた。
袖を通す。久し振りに衣服を身につけたような気分になる。素肌が何かに包まれていることが、とても幸福な出来事だと実感した。サイズが合っておらず袖が余ったが、不思議と心地いい。彼の匂いがした。
「風呂と着替え、ありがとうございました」
居間でしゃがみ込んでいる冬馬に声をかけた。
振り向く彼の背後に、銀色のストーブが置いてあるのが見えた。
「ごめん、ストーブ壊れてたこと忘れてた。これじゃ部屋が寒いよね」
「全然平気ですよ。体も温まったので」
「湯冷めしちゃうよ。…あ、そうだ」
彼はベッドの上に折り畳んで置かれた毛布を広げた。しっかりした物なのか、重そうに見える。絨毯のようだった。
「清士くんはこれ被ってなよ。古いけど、結構いいやつなんだ」
僕の体を毛布で包み、そのままベッドに座らせた。彼は薄っぺらいカーペットの上で胡座をかく。
「何から何まですみません…。ここまでしてもらえるなんて」
「謝らないでよ。死にかけてる子を放っておける訳ないからさ。当たり前のことしてるだけ」
「冬馬さんは寒くないんですか」
「慣れてるから平気平気……ックシ」
小さなくしゃみをする。あんなカーペットと服装では、床の冷気が直に伝わっているだろう。自分だけが暖をとっている状況が耐えがたい。元はと言えば、あの出来事は自業自得だった。目先の欲に目が眩んだ僕の責任だ。
「冬馬さんが毛布使ってください」
「寒くないってば。俺、暑がりだから」
意地でも入る気は無さそうだ。僕を心配してくれるのは有難いけど、申し訳なさが勝る。
「…この毛布、大きいから一緒に入ってください」
「あー、そんな顔しないで。分かったよ。俺も強情だったね」
彼が僕の隣に座り、同じ毛布に包まった。ベッドのスプリングが危なっかしい軋み方をした。組み立てベッドの耐久性に賭けるしかない。
二人分の体温を孕んだ毛布は温泉のようだった。体を強張らせていた余計な力が抜けていく。室内がしんと静まった。彼の呼吸が耳元で聞こえるだけだ。
「冬馬さん、聞かないんですね。僕があんな格好であそこにいた理由」
「清士くんが言いたくないなら、聞く気なかったから」
「聞いてもいいですよ」
「じゃあ質問。隣の彼とは恋人関係なの?」
僕は首を振った。それと同時に彼は少し笑う。
「違うんだ…安心した。あの人、多分マトモじゃないから」
「どうして知ってるんですか?話したことあるとか」
「無い!でも分かるんだ。だって彼はいつも回覧板の流れを止めるんだよ。大家さんが何度も注意してもね」
思わず吹き出した。確かに冬馬の見解は正しい。トカゲ男はマトモじゃないし、回覧板をしょっちゅう止める人もマトモじゃない。
「明日になったら俺、隣に行ってくるよ。代わりに服とか荷物を返してもらってくる。だから清士くん、今晩はここに泊まりなよ」
股から垂れた液体を、彼は目撃したはずなのに。恋人でもない隣の男と、僕が何をしたか察しているはずなのに。
「いいんですか……。僕、あいつと」
「もー、無理に言わなくても良いって。顔に出てる」
「えっ、出てますか」
頰を触った。彼は口角を上げて、頷いた。そして言葉を続ける。
「もう寝よっか。俺もここで寝ていい?床は堅そうだから」
僕は首を縦に振った。すると、彼はベッドに寝転んだ。僕も続けて横に寝そべった。シングルベッドは二人で並ぶには、余りにも狭い。それでも彼は部屋の電灯を消してしまった。
「あ、俺朝シャン派なんだけど、臭くないかな?このまんま寝ちゃうつもりなんだけど」
「全然大丈夫です」
むしろ安心できます、とまでは言えなかった。
おやすみなさい、と言い合った後の部屋は無音だった。空気の音が聞こえてもおかしくないほどに。目を閉じても開いても、暗さが変わらない。真っ暗な空間に浮いているような感覚になる。心だけ遠くに行ってしまいそうな僕を、現実に引き止めてくれたのは彼の寝息だった。
耳を彼に近づける。微かな風を感じ取った。隣の冬馬は生きているし、僕も生きている。その事実が僕を安心させたのか、いつのまにか眠りこけていた。
♢♢♢
翌朝目を覚ますと、コーヒーの香りがした。カーテンが締め切られた部屋は薄暗い。台所に立つ冬馬が振り向く。
「あ、起こしちゃった?おはよう」
「おはようございます」
二つのカップをテーブルに置く。僕の分まで淹れてくれたようだ。
「さっき服取りにいった。そしたらアイツ、ドアノブにこれを引っ掛けてたよ」
ビニール袋を僕に手渡す。中には丸められた服と、財布や携帯電話が乱雑に詰められていた。
「ありがとうございます…」
男と顔を合わせる必要が無いと分かり、胸をなで下ろす。
「取り敢えずこれで安心だね」
昨晩廊下に投げ捨てられていたスニーカーを履いた。僕が靴紐を結んでいると、彼が言った。
「清士くん、しばらくこの辺に近寄らないほうがいいよ。彼と会っちゃうかもしれない」
「分かりました。昨日は本当にありがとうございました。お礼はまた改めてします」
扉を開く。冬の空気が玄関に流れた。髪が揺れ、頬を撫でる。不思議と寒く感じなかった。
一礼して、アパートを去った。今日の夜にまた会えるのだから、お礼はその時までに考えよう。背筋を伸ばして帰路につく。
♢♢♢
何をするわけでもなく、自室で時間を浪費していると出かける時間になった。万全の防寒対策をし、玄関から出る。木造アパートの階段を降りていると、何か赤いものがチラリと見えた。向かいの「花屋」に目を向ける。
花屋といっても、本物のフラワーショップではない。普通の家に僕があだ名をつけただけだ。
「花屋」は年季の入った木造の家だ。屋根の瓦は剥がれ、草が生えている。トタンの壁は錆びついているし、玄関のガラス戸は所々テープで補強した跡がある。
その家屋の庭には、多くの植木鉢が積み重なるようにして放置されていた。腐食し、枯れた花がこうべを垂れている。茶色の花園に、目を惹くものがあった。真っ赤な花だった。
「また買ったのか」
僕はため息をつく。次の被害者はこれから自分に降りかかる不幸を知らずに、咲き誇っている。
家主は飽き性なのか、季節毎に花を買ってもロクに手入れせずに枯らしてしまっている。春はチューリップ、夏は向日葵、秋はコスモス。死に向かう花々を、僕は何度も見かけた。
僕は花屋の前で屈んだ。その真っ赤な花を、どこかで見たような気がしたのだ。クリスマスツリーの横に置かれがちな花を。
腕を組んで唸っても、名前が出てこなかった。自力で思い出すのを諦め、携帯電話を取り出す。インターネットに繋ぎ、適当な単語を何個か並べたら、自分の望む情報があっという間に手に入った。
その花はポインセチアといい、クリスマスが近くなると出回る植物だということが分かった。紅葉した葉と、緑の葉が彩るコントラストが鮮やかで、この季節になると人気が出るそうだ。
百科事典の情報が真っ先に出てきたが、その真下にあるサイトが気になった。「ポインセチアの育て方」と名付けられたブログは、その花について詳しく記載されている。昔から図鑑を読むのが好きだった僕は、思わず読みふけってしまった。
ポインセチアについて知れば知るほど、花屋がどれだけ無謀なことをしているか思い知らされた。
この花は日当たりの良い、温かい場所で育てる必要がある。本来なら窓辺に置いて育てるらしい。温暖な気候の国で咲くはずだったのだから当たり前だ。
しかし、ここで咲いてるコイツは、寒くて湿っている庭に置かれた植木鉢の中にいる。きっとクリスマスが終われば用済みだろう。そんな未来を知らずに、一過性の人気者は全く適していない土地で懸命に生きているのだ。何だか見ていられなくなった。僕はそそくさと退散し、バイト先に向かった。
♢♢♢
二人並んでレジに立っているのに、会話をすることは出来なかった。来店する客が絶え間なく列を作るのだ。皆、そんなに急いで買い物をする必要があるのだろうか。列の一部と化した人々は眉をひそめ、口角が下がっている。時々貧乏揺りをして時間を潰す者もいた。店内に蔓延するマイナスの感情が、僕を覆う。僕は金をもらってここに立っているだけなのに、苛立ちをぶつけられないといけないのだろう。
駅前にあるコンビニ。他店よりも給料は多少良いが、忙しさは段違いだ。常に明るい店は、暗くなった街を灯す導になったようだった。そうでなければこの忙しさを説明出来ない。
「いつまで待たせんだ」
必死にバーコードを読み取っていると、少し離れた方から男の声がした。列をかき分けてやって来た彼は、不機嫌を隠そうともせずに顔に浮かべていた。肩を揺らしながら歩き、僕に詰め寄る。
「トロイんだよ。さっさとしろ」
飛び出た唾がレジカウンターに落ちた。彼が怒鳴るたびに何本もつけられたゴツいデザインのネックレスが揺れる。
不機嫌をぶつけられた僕は動けなくなった。いつもなら適当に謝罪して、のらりくらりと躱せるのに。
原因は分かっている。男の怒声に萎縮するようになったのは、昨晩起った出来事のせいだ。もう大丈夫だと思っていたのに、心に傷が残っていたようだった。水気を含み、膿んだ傷口は触れられると悪化するように、客の怒声は僕を刺激させた。呼吸がうまく出来なくなる。目を開きたいのに、瞼が動かない。喉元に嘔吐感がせり上がる。寒い。あの廊下の底冷えた空気が、まだ体内に残っているのか、勝手に体が震えた。
「お客様、こっちのレジどうぞ」
冬馬の声が真隣から聞こえた。客と僕の間に割って入る。冬馬の広い背中が、客の罵倒から守ってくれる。
客は怒鳴るのをやめ、冬馬が担当するレジに向かった。割り込まれた人は文句の一つも言わず、列に並び続けた。騒動の間、待ちぼうけしていた人達の会計を慌てて済ませた。体の震えは止まっていたが、心臓の音はうるさいままだった。
♢♢♢
暖房が効いてない事務室にいるのは僕たちだけだった。賑やかな店内とは打って変わって殺風景な部屋だ。着替え終わった僕らは、店長が置いてくれたお菓子を食べながら話していた。
「本当にありがとうございました。僕、冬馬さんに助けてもらってばかりですね」
「申し訳なさそうに言わないでよ。そんなつもりで俺、やった訳じゃないからね」
冬馬はチョコレートを口に投げ入れる。疲れた体には甘いものが一番だと、彼は続けた。相槌を打ちながら、僕は小さなビスケットをノロノロと齧っていた。
「あの…冬馬さん」
手から菓子が消えてしまってからようやく口を開いた。
「どうした?」
「その…これから、予定あります?昨日と今日のお礼がしたくて……」
いい終わった直後に俯いた。彼の表情を見るのが怖い。人を誘ったことなんて何年振りだろう。断られた時を想定すると吐きがするため、自分から誰かを誘うことを長い間してこなかったのだ。心臓が存在を主張するかのように、うるさく跳ねる。心音が体を突き破って、彼に届かないか不安だった。
「暇だよ。せっかくだから遊ぼうよ。いつもより早めに上がれたんだしさ」
「え、いいんですか」
「断る理由がないよ。俺、前から清士くんと遊んでみたかったんだ」
拍子抜けしてしまった。こんなにアッサリと出かける約束するものなのだろうか。体を縛っていたものに、解かれたような気分だった。
「どこか行きたいところあります?本当だったら言い出しっぺの僕が決めたいんですけど、この辺詳しくなくて…」
「あー、そっか。じゃあ、あそこに行きたいな」
冬馬は僕が知らない店の名前を言った。意味は分からないが、お洒落な響だった。その店は彼曰くカフェだという。
「あそこのデカイパフェに挑戦したいんだよな。一人だと残しちゃいそうだから今まで躊躇してたんだ」
「楽しそうですね。じゃあ行きましょう」
♢♢♢
駅の方へ向かう。そのカフェはここから近いらしい。駅前広場を横断していると、彼が足を止めた。視線の先に、クリスマスツリーがある。電飾を纏った木は、目が眩むほど輝いている。細かく砕いた宝石を散りばめているような光り方だった。
「あれ、綺麗だね。ちゃんと見たの初めてかも。いつも通り過ぎてたから」
「僕も初めてです。ただ眩しいだけじゃないんですね」
何千個ものLEDライトは、時々色を変える。目まぐるしく姿を変えるツリーを暫く眺めていた。
「こうやってイルミネーション二人で見てるとさ、何だかデートみたいだよね」
白い息を吐きながら、冬馬は笑った。ピンクに色を変えたツリーが彼の顔を照らす。
ちょうどいい色だった。僕の本当の顔色が、彼に伝わらなかったから。体は寒さに耐えているはずなのに、顔だけがストーブで火照った時のように熱を持っていた。
「……冬馬さんは、理想の初デートってどんなのですか」
彼の顔を見ていられずに、ツリーの方を眺めながら尋ねた。自分でも、こんな質問をした意味が分からなかった。
「えー理想か。もし、告白前だったとしたら、俺は相手の家に行きたいな」
「意外ですね。結構肉食系なんですか?告白してないのにお家デートなんて」
「真逆だよ。ド草食だから相手の家を選んだんだ」
理由が予想できず、首をひねる。彼はわざとらしい咳払いをし、説明をする。
「俺から告白したとして、失敗した場合は現地解散になるだろ?もし、そこが相手の家だったら俺が出て行くだけで済む。好きな人を寒い中、歩かせる必要がないからね」
「なるほどなあ。でも、『あなたの家に行きたい』なんて中々言えませんね」
「そうなんだよね。俺、好きな人と映画とかスポーツ見るのが夢だから実現すると嬉しいんだけど」
そんな会話をしていると、目的地に到着した。バケツのような容器に入ったパフェは美味しかったが、二人で協力しても完食することは難しかった。なんとか食べ終わり、膨れた腹をさすりながら解散する。会計は僕がした。客からもらった金を手元に残しておきたくなかったのだ。
♢♢♢
ケーキの予約が締め切られると、クリスマスがすぐそこまで近づいていると感じる。店内のBGMは同じような曲が流れ続けているし、陳列されるお菓子のパッケージの色合いはどれも似たようなものだった。
「売れ残ったケーキって俺たちが買い取るのかな」隣にいる冬馬が不吉なことを呟く。現実味があるな、と考えながら大量に余った予約チラシに目を向ける。真ん中にデカデカとケーキの画像が印刷されていた。白いホイップクリームで塗り固められたスポンジの上に楽しげな表情のサンタクロースがイチゴとともに鎮座している。
そろそろ交代時間だったが、最後の三十分が途方も無く感じる。爪先を眺めることしかやることがない。僕たちしかいない静かな店内は、絶えず陽気な音楽と装飾で溢れている。
「僕、外の掃除してますね」
「おー、いってらっしゃい」
ゴミ箱の袋を交換するだけの簡単な作業は、十分もせずに終わるだろう。少しでも空白の時間を埋めたかった。
暖房が効いた店内とは打って変わって外は寒々しい風が吹いていた。冷たい空気は硬い棘のように僕の肌を刺す。しんしんと冷え切った夜の街をイルミネーションが照らしていた。
屈んで作業をしていると、誰かが店のドアをくぐった。一人だけなら、冬馬だけでも大丈夫だろう。僕はそのままキャパオーバーした袋を取り替えようと新しいものを広げた。風を受けた袋は風船のように膨らむ。
風に踊らされる袋に手こずっていると、再び自動ドアが開いた。人感センサーのチャイムがなる。ついさっきやって来た客は、僕の前を駆け足で通り過ぎた。足元しか見えない。すぐに帰ってしまうなんて、ブーメランのようだ。何も買わずに出て行ったのだろうか。作業を終え、店に戻った。
冬馬はレジの前で立っていた。しかし、何か様子がおかしい。ピクリとも動かないのだ。石像のフリをしているパントマイムのようだった。
レジカウンターの前に立つ。彼は手に折りたたまれた小さな紙切れを持っていた。
「さっきのお客さん、俺にこれ渡してすぐに帰ったんだ。何だろ、これ」
紙を頭上に掲げて、電灯の明かりで透かそうとする。なかなか開こうとしなかった。
「開いてみたらどうですか」
「なんか怖いな。一緒に見てくれない?」
僕が頷くと、彼は決心したような表情をして、紙を開いた。そして目を丸くして裏返った声で呟いた。
「これってQRコードじゃん」
そのコードはメッセージアプリでID交換に用いられているものだった。四角い記号の真下に小さく『良かったら連絡ください』と丸い字で書いてある。
もう一枚紙はあった。二枚目は送り主が冬馬に好意を寄せたきっかけを記載した短い手紙だった。クレーマーに絡まれた僕を庇う様子を見て、惚れ込んだと綴られている。
バイトが終わり、事務室に戻った冬馬はメッセージアプリを見ていた。先ほどの客と連絡をとっているようだった。突然のアプローチに彼は満更でもないのか、ずっと文字を打ち込んでいた。
僕は画面の向こうにいる客が羨ましくて仕方がなかった。自分でも驚くほど、分かりやすく嫉妬していたのだ。クリスマスは目前に迫っている。冬馬とその客が、交際を始めて不自然ではない。ロマンチックな始まり方だと断言してもいい。
制服から私服に着替えていると、靴下に穴が空いていることに気付いた。随分前に買ったきり、交換していないのでだいぶ劣化している。
僕はあの一件以来、男に体を売ることから離れていた。コンビニで稼いだ金のほとんどは生活費と学費に消え、余裕のない生活に戻った。破れた靴下を取り替える金もないような日々に。
しかし辛くはなかった。冬馬と話す時間が増えたからだった。
彼とバイト後に食事や会話をしている間は、常に感じている寒さを忘れられた。心から笑える時間が増えたのだ。
しかし、これからはそういう訳にもいかなさそうだ。あの様子を見ていると、彼は僕以外の人間と交際するだろう。そうなれば僕と過ごす時間は無くなる。また寒々しい日常に逆戻りだ。
シフト表にバツを書き込んだ。すると、冬馬に話しかけられる。
「清士くんは来週どうすんの?」
「25日以外は出ます」
僕がばつ印を書いた日付を見る。冬馬の欄には、枠からはみ出そうな丸印が書かれていた。
♢♢♢
「セイジくん、久し振りに会えたね。寂しかったよ」
男はそう言いながら、僕を抱き寄せた。恋愛映画のラストシーンさながらの盛り上がり。 人でごった返している駅前、というシチュエーションが特別感を増強させていた。
数週間ぶりに会うパパの顔は少し丸くなっていた。彼曰く、ストレス太りだという。年末の激務に疲弊した彼は、癒しを求めて僕に連絡をした。クリスマスに会えないか、と。
「最近連絡つかなかったけど、どうしたの?」
「ちょっと前に怖い目に遭ったから離れてただけだよ。もう大丈夫だから心配しないで」
「そうだったんだ。…ぼくは君を絶対に怖がらせないって約束するよ」
「ありがと。パパなら優しいって信じてるから」
そんな会話をしながら、いつものホテルに向かう。普段よりも人通りが多いような気がした。クリスマスの夜という状況が、人々の欲を盛り上げるのかもしれない。全てがいつもと違う。今日と明日だけ、まるで別世界のように世間が浮き足立つのだ。その熱に惑わされた彼が、まだエントランスに入っていないというのに、キスをしようと顔を近づけたのだ。迫る唇。彼と二人で数え切れないほどした行為なのに、何故か僕は顔を背けてしまった。
「あ、ごめん……」
「謝らないで。ぼくが急にしたから、セイジくんは驚いちゃっただけだよ」
パパが僕の頭を撫でると、ゾワゾワと全身の毛穴が逆立つ。涙が出そうになった。自分の心と体の変化について行けない。これから彼とすることに対して嫌悪感を覚えてしまったら、僕はどうやって金を稼げばいいのか分からないのだ。
♢♢♢
彼に頼んで部屋は暗くしてもらった。こんな調子じゃ、顔を合わせてできないと思ったのだ。
真っ暗な部屋で裸でいると、皮膚の感覚が鋭くなるような気がする。全神経が肌に集中する。彼に触れられるたびに、ピクリと身体が跳ねた。
手探りで移動し、彼の体に跨った。僕の股間に熱いものが当たっている。汗で湿った彼の手が腰に当てられる。今から始まるんだと実感させられる。
僕は彼の息子だという設定で、体を重ねてきた。自分に都合のいい想像をしながらセックスをすると興奮するらしい。架空の息子を犯す男と、架空の父親に犯される男。そんな歪んだ空間に慣れつつあった。
僕も彼のように、都合のいい設定を思い浮かべればいいのだ。そうすれば、粘つくように胸を覆う嫌悪感が軽減される気がする。
今一番会いたい相手。抱きしめたい人。一人しか思い浮かばなかった。来栖冬馬の顔が、暗闇に浮かぶ。
彼の幻影は、汗で湿った手で僕の腰を掴む。そして全身血が集まり、ビクビクと波打った性器を僕の穴にあてがった。
熱いモノが当たった瞬間、喉元に何かがせり上がった。全身を鳥肌が覆う。幻の冬馬が消え、常連客の男が朧げに見えた。眼が暗闇に慣れたようだった。
僕は首を横に振った。
違う。絶対にあり得ない。冬馬と僕は、こんなことをする関係じゃない。自分勝手な都合で、彼を汚してはならない。それが例え妄想であってもだ。
僕はまだ彼の手の温度を知らないのだ。彼について何も知らない。その事実だけが、暗闇にポツリと浮かんだ。
彼と向き合って話すことを避けるためにバイトを休んで、こんなことをしている。
僕には本当にやらなくちゃいけないことがある。彼が既に、知らない誰かと彼が交際を始めていたとしても、この感情と決着をつけるべきなのだ。
「今日はもう、やめよっか」
僕ではなく、彼が言った。跨っていた僕をベッドに降ろし、部屋の電気をつける。広いベッドの縁に、彼は背中を丸めて座っていた。
「え、僕は全然平気だけど」
「無理しなくていいよ。だってセイジくん、体が震えてるじゃないか」
彼はいつものように財布から数枚の紙幣を取り出して、僕に渡した。
「まだ何もしてないのに。いいの?」
「無理やり男の子を犯す趣味はないからね。今日はありがとう」
金を受け取る。達成感はこれっぽっちもなかった。胸に大きな穴が空いたような気分だった。がらんどうの心に風が吹き込む。
「ごめんなさい」
「謝らないで。セイジくん、ぼくは今まで嬉しかったよ。設定に最後まで付き合ってくれたのは君だけだった」
ここで彼と別れた後、二度と連絡を取らないような気がした。知らない男に体を売るような日々が今日で終わるという確信に近い予感があった。
僕は彼の名前を呼び、礼を言おうとしたが出来なかった。彼の名前が出てこない。互いの本名を知ることもなく、僕らはホテルの前で別れた。
♢♢♢
赤と緑のLEDライトに、モミの木やプレゼントのモチーフ。そして絶えず流れ続ける、同じようなクリスマスソング。賑やかな駅前を、僕は急ぎ足で通り過ぎようとしていた。
駅前に設置されたクリスマスツリー。思わず立ち止まって見上げた。この木が眩しいだけでなく、綺麗だということを気付かせてくれた彼の顔を思い浮かべた。急げば間に合う。きっと今頃、彼はレジの前に立っているはずだ。一度遅めた足を再び動かす。もどかしくなって、思わず走り出した。
その場しのぎだと一目でわかるクオリティのデコレーションをされた店内は閑散としていた。陽気なBGM虚しく響く。シャンシャンと鈴が鳴っていた。
「あれ、清士くんじゃん。用事終わったの?」
僕に気付いた彼が手を振る。カウンター越しに向かい合った。
「お疲れ様です。冬馬さんの顔が見たくなって、寄りました」
「えーなんか嬉しい。
そういえば、今日は結構忙しかったんだよ。なのにケーキは全く売れなかった。このままじゃ買取りだよ」
「僕が買いますよ。クリスマスらいしこと、一つもしてなかったので」
財布から一万円札を取り出す。汚れた金で買ったケーキはどんな味がするのだろう。
「お買い上げありがとう。でも、一人で食べきれるの?」
「うっ…多分無理ですね。そのこと考えてなかった」
冬馬はふふっと笑った。そして時計をチラと見て、口を開く。
「あと五分で引き継ぎだからさ、もし清士くんが暇なら、二人でケーキ食べちゃおうよ。酒も追加で買ってさ。ささやかなパーティーだよ」
「楽しそうですね。じゃあ酒も買います」
冷蔵庫に向かうために踵を返す。店の奥に向かおうとする僕を、冬馬が呼び止めた。
「パーティー会場は清士くんの家でもいい?俺の家だと、隣に…」
「確かにそうですね。僕の家ならここから近いからピッタリだ」
酒を選んでいると、あっという間に五分が経過した。私服に着替えた冬馬と合流した僕は、夜の道を歩き出した。星が落ちてきそうほど輝いていた。
♢♢♢
歩いている途中で僕はマフラーを外した。体の奥から熱が湧き上がっていく。
もう背中を丸めて歩くことはなさそうだ。寒さを大袈裟に感じない。
隣で白い息を吐いている冬馬を見上げた。彼の手には酒の入ったビニールがある。これから僕らはたくさん食べて、呑むだろう。ベロベロになって理性なんてどこかに飛んでいってしまっても、僕は彼に心の内を明かせない気がした。
それでも向き合うべき課題がある。
「今日、バイトしてても良かったんですか?てっきり、あのお客さんと会ってると思ってました」
語尾が震えた。気付いていないのか、彼は空を見上げながら答える。
「あー…まだ清士くんに言ってなかったっけ。俺、お断りしたんだ。優しそうな人だったけど、なんかしっくりこなくて」
「そうだったんですか」
空気の凍りつく音が聞こえそうなほど冷え切った道を歩く。袋に下げたケーキを崩さないようにゆっくりと。空の星は時々、思い出したように瞬く。
僕は自宅の向かいにある、花屋を思い浮かべた。枯れた花に囲まれて咲く、赤い葉を。
あのポインセチアはもう枯れているだろうか。まだ咲いているといいな、と思いながら彼の横顔を見上げた。
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