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第1話

 その日は、朝から忙しくなった。  二間しかない長屋とはいえ、生活道具はそれなりにある。  前日に荷造りを済ませ、朝から始まった引っ越しが午後も続いているのは、軽トラックでさえ家の前に横付けることができないからだ。  長屋二棟が向かい合い、袋小路になっている上に、植木や荷物で道幅も狭くなっている。入ったが最後、出るのは難しい。  重い箪笥を人力で通りまで出すのに苦労して、ようやく軽トラックが一往復目に出発する。長屋に残った佐和紀(さわき)と松浦(まつうら)は、『こおろぎ組』の看板がかかった玄関先で段ボールに腰かけた。こおろぎ組組長の松浦とは、親子ほども年が違う。 「これはおまえの荷物だ」  約三ヶ月前に脳梗塞で倒れた松浦は、至れり尽くせりの病院生活のおかげか、身体の不自由さも改善されて、麻痺が残ると宣告された当時に比べれば見違えるほど回復した。医者も驚くスピードだったが、まだ半身を思うようには扱えず、引っ越しも監督係に徹していた。  結婚してから和服だけで毎日を過ごしている佐和紀も、手伝おうとすると舎弟が飛んできて仕事を取ってしまうので、木綿の着物の袖にたすきをかけた姿で暇を持て余しながら指示だけ出している。  落ち着きのある栗色に染めた髪を揺らして、松浦の声に反応して振り向いた。  血色の良い顔は不自由なく暮らしている証拠だ。女と見まがうほどの繊細な美貌は、かつてのように趣味の悪い私服に貶められることもなく、深窓の麗人と言えなくもない風情を醸している。 「なんですか」  差し出されたハードカバーの本を受け取り、指で持っていたタバコをくちびるに挟んだ。  松浦が組長を務める『こおろぎ組』に残された唯一の組員として、佐和紀が組の存続のために、上部組織である大滝(おおたき)組若頭補佐のもとに嫁入りしたのは二ヶ月前のことだった。  男である佐和紀に白羽の矢が立ったのは、跡目争いを避けるための茶番を仕掛けようとしていた若頭補佐の岩下(いわした)周平(しゅうへい)が、見目の良い男を探していたからだ。  独身だった周平は、若頭を差し置いて自分を跡目争いに担ぎ上げようとする幹部たちに、男と祝言をあげることで、神輿になれる器でもなければ、その気もないことを示そうとした。そんな馬鹿げた結婚を大滝組長は認め、結果として周平が跡目争いに参加できる可能性は皆無になった。  それと同時に、『こおろぎ組の狂犬』と呼ばれていた佐和紀も、『大滝組若頭補佐の嫁』と呼ばれるようになったのだ。  佐和紀が忠誠を誓ったこおろぎ組には人が戻り、晴れて新事務所の場所も決定して、松浦は今日から新宅へ移る。  とはいえ、こおろぎ組は昔からこのあたり一帯をシマにしているから、新事務所は車で五分、新宅に至っては長屋から歩いて十分の距離だ。 「アルバムだ」  引っ越し日和の春めいた日差しの下で、松浦が答える。 「聡子(さとこ)がおまえのために作ってたのを思い出したんだ。本当なら、嫁に出す前に渡すべきだったが、しかたないだろう。病院にカンヅメだったからな。持っていけ」  聡子は松浦の亡くなった妻だ。さっぱりとした性格の面倒見のいい女性だった。  タバコをくちびるに挟んだ佐和紀は、細い黒フレームの眼鏡を人差し指で押し上げ、手にしたハードカバーの小さなアルバムを開いた。  いきなり、もう記憶にもないような若い頃の自分が目に飛び込んできて、思わず視線をそらして苦笑いする。 「懐かしいだろう」  横から覗き込んできた松浦が、写真を指差した。 「おまえが組に入って、初めてみんなで撮った写真だ」  昔の事務所の前で、いかつい顔の男たちがずらりと肩を並べている。  そこに写っている組員の半分は死に体のこおろぎ組を捨てて大滝組へ移ったのだが、佐和紀の結婚をきっかけにしてこの二ヶ月で組に戻っていた。無理に戻されたのではない。  大滝組の若頭と若頭補佐からのバックアップがあると知って、古巣へ帰ることを自分たちで選んだという話だ。  真実だろう。みんな、松浦を敬愛していた。しかし、時代の流れに乗れないこおろぎ組に限界があったことも事実だ。だから、写真に収まっている残りの男たちに至っては、ヤクザ稼業からすっかり足を洗った人間もいるし、どこへ行ってしまったのか噂さえ聞こえない人間もいる。  佐和紀には覚えのない顔もちらほら写っていた。 「まだ十八だったな」  松浦がしみじみと言った。佐和紀は美しい横顔で静かにうつむき、タバコを地面に落として足で揉み消した。  十八だった。十六歳になったとき、世話になっていた知り合いとの縁が切れ、土地を変えてからも男ながらにホステスを続けていた佐和紀は、店に偶然に遊びに来ていた松浦と知り合った。  あれが人生の転機だったと、佐和紀は思う。  写真に残る姿は、ひどくすさんだ目をしている。それが他の組員たちをおかしくさせるほど魅惑的だったのだが、佐和紀にそんな自覚はない。今も昔もだ。あの頃の自分の哀しさというものを思い出すと、胸の奥がしくしくと痛む気がした。  それは思い出したくないという感情ではなく、ただ、かわいそうだった頃の自分に同情するだけの感傷に過ぎない。  頼る人間も、生きる気力もなかった。チンピラと組んで美人局で小銭を稼いでも、大半は巻き上げられて佐和紀にはほとんど実入りがなく、そんなもんかとクラブで客に高い酒をせびった。  そちらの方がよっぽど金になったぐらいだ。  写真の枚数は少なかったが、聡子が亡くなるまでの二年間のスナップが貼られ、聡子のクセのない文字で日付とコメントが書き込んである。 「こんなものを作って、どうするつもりだったんですかね」  眼鏡のブリッジを薬指で押し上げて佐和紀は笑った。 「おまえが所帯を持つときの荷物に入れるんだって、あいつは笑ってたけどな」 「岡崎(おかざき)まで写ってるし」 「そりゃ、写るだろう」  今度は松浦が笑った。岡崎もこおろぎ組から出て大滝組に入った一人だが、大滝組長の娘と結婚して、今では大滝組若頭を務めている。佐和紀の元兄貴分であり、今は夫の兄貴分に当たる。 「こんな日に手伝いにも来ないし」  不満を口にすると、松浦は顔をくしゃくしゃにして苦笑いを浮かべた。 「来るわけがない。大滝組の若頭だぞ。こんなちっぽけな組の引っ越しに来る方がおかしいんだ。……あっちが例外なんだよ」 「あぁ……」  松浦の視線をたどった佐和紀は、低く声を漏らした。  路地で遊ぶ子どもたちの向こうに、軽トラックが停まった。荷台から三人の舎弟が飛び降りて小走りにやってくる。子どもたちがおもしろがってまとわりついた。  その後ろで、『例外』が運転席のドアを開けて、長い足で土の上に着地した。  長身だ。腰高ですらりとしているが薄く筋肉のついた身体は、広い肩幅との均整が取れている。いつもは後ろへ撫でつけている髪も今日はラフに崩して、インディコブルーのジーンズに濃い緑のシャツを着ていた。  大滝組若頭補佐・岩下周平だ。トレードマークの眼鏡も休日仕様で、レンズの下にだけ薄い紫のフレームのついた遊び心のあるタイプだが、それでも怜悧な印象を際立たせていた。厚い胸板でシャツを着こなす姿はエリート会社員の休日のようで、極道のトップ間近の男には見えない。色の濃いシャツの下に、泣く子も黙る唐獅子牡丹が控えているとは、誰にも想像できないだろう。 「姐さん、あとはこれだけですか?」  駆け寄ってきた三井(みつい)が無邪気に尋ねてくる。肩にかかる髪は、邪魔にならないようにひとまとめに結んであった。 「あと、部屋に三つ。それで終わり」  答える佐和紀の目の前で、三井の後頭部を張り倒したのは、金髪の石垣(いしがき)だ。 「だから! ここで、そう呼ぶなって言ってんだろ。脳みそにシワ入ってんのか?」 「脳みそは入ってる!」  痛みに頭を抱えた三井が仲間を睨みつける。 「お兄ちゃん、おねぇちゃんになったのぉ?」  向かいに住んでいる五歳の少女が首を傾げながら、無邪気な瞳で佐和紀の膝に寄ってきた。 「そういうあだ名になったんだ」  頭を撫でながら答えると、別の少年が飛び出してくる。 「あねさん女房のあねさんだな!」  ズレたことを自信満々に口にした直後でにやりと笑った。 「俺は、そういうの気にしないタイプ! 早く戻ってきて、俺の嫁になれよな」  物心ついたときから佐和紀を口説いている少年の頭に、大きな手のひらがぽんっと乗った。 「それは、無理だ」  周平が隣にしゃがみ込んで、人の悪い笑みを浮かべる。 「佐和紀は俺の嫁になったんだ」 「嫌だ!」  少年は間髪入れずに叫んだ。怖いもの知らずに周平を睨みつけると、すがるような目を佐和紀に向けてくる。 「こんなおっさんより、若い俺の方がショウライセイがあっていいよ」 「意味わかって言ってるのか?」  苦笑いした周平は、手のひらで少年の髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。 「じゃあ、俺が死んだら、そのときに口説きに来い」 「いつ死ぬ? 明日?」 「そんなにあっさり殺すな」  周平と松浦が声をあげて笑い、佐和紀もつられて肩を揺すった。  舎弟たちはキビキビと働いて、段ボールを次々に荷台へと積んでいく。それほど数はないが、重いものが入っているので重労働だ。 「この人は大滝組の若頭補佐だぞ」  松浦が立ち上がりながら言う。佐和紀も立ち上がると、椅子代わりにしていた段ボールはすぐに運ばれていく。 「おまえも大滝組は知ってるだろう。偉いんだぞ」  松浦の言葉に、少年はまっすぐな瞳で周平を値踏みすると、腕組みをしながら胸をそらした。 「組長になるの?」  たまたま通りかかった舎弟の岡村(おかむら)がぎょっとした顔で足を止める。周平が答えた。 「ならないなぁ。兄貴分が上にいるからな」 「なんだ! じゃあ、偉くないよ」  真実をズバリと言い切る子どもは母親に呼ばれ、佐和紀を気にしながら駆けていく。   「恐ろしいな」  岡村もぼやきながら離れた。  幹部たちから次期組長候補に推されていた周平は、表情を変えずに少年を見送る。それも、佐和紀と結婚するまでは、の話だ。二人を引き合わせたのはこおろぎ組を捨てて出世した岡崎で、周平は初夜の瞬間まで相手を知らずに佐和紀を嫁にした。 「こんな組の引っ越しにご足労いただいて、本当にすみませんな」  本日、何度目かの言葉を松浦が口にする。周平は笑って返した。 「いいんですよ。佐和紀の実家ですから」  さっきまでは、働き手は多い方がいいと繰り返していたのに、佐和紀の足に掴まっている少女を気にもせず、今日初めての本音を口にして佐和紀のうなじをそっと撫でた。  糸くずでも取るような仕草に顔を向けると、微笑んだ目と視線が絡む。 「行くか。荷解きもするんだろう」  周平に言われ、松浦がいることを忘れて見つめ合った恥ずかしさに、佐和紀はせわしなく髪を掻き上げた。 「あ、おばちゃんが呼んでるよ!」  足元の少女が袖を引きながら指を差す。離れた場所から、隣に住んでいる奥さんが手招きをしていた。佐和紀が近づくと、奥さんはニコニコと笑いながら祝儀袋を差し出してくる。 「佐和紀ちゃん、結婚したんだってね。言ってくれればよかったのに。これ、長屋のみんなからのお祝い」  瞬時に、左手薬指にはめた指輪を隠して、佐和紀は戸惑った。結婚とはいっても、相手は男だ。  女よりも綺麗な顔のせいで女性陣からは『佐和紀ちゃん』と呼ばれているが、身も心もれっきとした男だと、長屋のみんなが知っている。 「組長から聞いたんですか?」 「そうよ。松浦さんが倒れてから、あんたを見かけないのは病院で付き添っているからだと思ったのよ。そうしたら、出ていったんだって松浦さんが言うじゃないの。どれだけ心配したか! 入院費のためにあんたが身売りでもしたんじゃないか、お金がないなら相談してくれればいいのにって、みんながどんなにやきもきしたか知れないわよ」  まくしたてる奥さんの目が潤んだ。  結婚してすぐに周平とケンカになって、行き場もなく長屋へ逃げ帰ったときにも顔を合わせたが、あのときはまだ松浦の付き添いをしていると思っていたのだろう。 「組長も、ちゃんと説明してくれればいいのに……。すみません。いらない心配をおかけして」  まるで自分の子どものことのように結婚を喜んでくれている奥さんを相手に、今までも身売り同然の行為で組を支えてきたとは、口が裂けても言えない。もちろん、言う必要もない。  頭を下げる佐和紀の肩を肉のついた柔らかな手が叩いた。 「何を言ってるのよ! 水臭いわね。話はね、早合点したのがいたのよ。うちの人だけどね」  笑いながら、祝儀袋を強引に押しつけてくる。 「遠慮はしないのよ。みんなの気持ちなんだから」 「でも」  佐和紀は顔をしかめた。松浦はどこまで説明したのだろう。まさか、男と結婚したとは言えないはずだ。何かと気にかけてくれた人を欺くようで、佐和紀は困り果てた。 「受け取れよ、佐和紀。断るのは相手に失礼だ」  声が横から割って入ってくる。顔をあげると、にこやかな営業スマイルを顔に貼りつけて、インテリヤクザが礼儀正しく会釈をするところだった。 「ありがたくいただいておきます。みなさんにもよろしくお伝えください」  おばちゃんの目が周平の顔に釘付けになっている。自分が夫であることを隠そうともしない態度に言葉も出ない佐和紀は、何か言い訳をと思い、また戸惑う。 「あぁ、そうなの。そういうことなのね」  うつむく佐和紀と周平を見比べたおばちゃんの声が陽気に弾んだ。  やはり組長は真実を話していなかったのだ。そして、今、バレた。 「前にも一度、お会いしていますね」  周平が言った。 「あのときは、取り込んでいてロクな挨拶もできずに、失礼しました。こちらでは佐和紀が大変お世話になっていたようで、改めてお礼を申し上げます」 「あらあら、いいのよ、いいのよ。……それで、お相手のことは話に出てこなかったのね」  佐和紀はいっそういたたまれなくなって、背中を丸めるように首をすくめた。  ゲイだと思われることが恥ずかしいのか、惚れた相手といるところをまじまじと見られているのが恥ずかしいのか、もうどちらなのかわからない。 「いえ、私が佐和紀さんを見初めて、無理に入籍を迫りましたので、松浦組長には思うところがおありだったんでしょう」  周平は大人だ。身の置き場を失くした佐和紀のための、小さな嘘が詰まることなく流れ出る。 「あら、そうなの。でも……」  ちらりと視線をあげると、満面の笑みを浮かべたおばちゃんと目が合った。 「よかったじゃないの、佐和紀ちゃん。あんたの相手が女じゃなくて、安心したわ!」 「え?」 「あんたぐらい綺麗な顔をしてたら、女相手じゃすぐに破局するわよ。男なら、なかなか離れられないわね。それに、大滝組の若頭補佐がお相手なら玉の輿じゃないの」 「それは、女の人なら、そうかもしれないけど」 「こんな貧乏長屋にいるより、いいのよ。まだあんたは若いし、常識にとらわれることないわよ。だいたい、その顔が規格外なんだから」  大きな笑い声を立てながら、格子柄の木綿着物を身につけた佐和紀の肩を撫でる。 「こおろぎ組がここからなくなるのはさびしいけど、あんたが幸せならそれでいいのよ。たまには顔を見せなさいよ。羊羹を持って、ね」 「はい」  佐和紀は素直にうなずいた。  寒い夜にはショウガ湯を差し入れてくれ、おかずを作りすぎたと言ってはお裾分けをしてくれた。風邪をひいていないかといつも声をかけてくれたし、暑い夏の夜はみんなで夕涼みしながらスイカを食べた。  この長屋自体がひとつの家族のようだったと、今になって佐和紀はしみじみと感じる。それはかりそめだったかも知れない。しかし、佐和紀には居場所だった。 「もう知っていらっしゃるとは思いますけど、この子は本当に気立ての良い子ですから、どうぞかわいがってやってくださいね」 「いや、あの……」  叫びだしたいのをぐっとこらえて、佐和紀は隣の奥さんを止めようとしたが、周平に手で制止されて口をつぐむ。 「佐和紀さんのこれからは、私がしっかり面倒を見ますので、みなさんにもご心配なさらないようにお伝えください。今まで苦労してきた分、幸せにしますから」  祝儀袋を片手に持った周平に手を握られ、佐和紀は硬直した。  こんなことは想定外だ。  佐和紀を置き去りにして楽しそうに笑顔を交わす二人に、立ち尽くしたまま放心した佐和紀は別世界に飛ぶ。もう、恥ずかしすぎて、何もかもがどうでもいい。 「どうした、佐和紀」  松浦に挨拶をしてくると言った奥さんがその場を離れ、周平は人の悪い笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。いつもの周平がそこにいる。 「インテリヤクザは怖い。ほんと、怖いな」 「誰のことだ、それは」 「あんた以外に誰がいるんだよ」  睨みつけると、それさえ楽しそうに受け止めて周平は笑った。 「本当のことしか言ってないよ。まぁ、結婚の理由はちょっと嘘ついたけどな」 「それは、しかたないよ」  握られた手を振りほどくでもなく、佐和紀はぼんやりと空を見上げた。  人からゲイだと思われることより、惚れた相手といてヤニ下がっている自分を想像するより、もっと恥ずかしいのは、今この瞬間でさえ、触れ合っている肌を離したくないと思っていることだ。 「気立てのいい佐和紀ちゃん。新しい方の実家に行って、引っ越しそば、食べようか」  からかってくる周平の手を振りほどく。 「ここに未練があるか?」  そっぽを向いた佐和紀に優しい声がかけられる。振り返らずに、頭を左右に振った。  まったくないと言えば嘘だ。ここでの生活は貧しかったが、大人たちからは大切にされ、子どもたちには慕われて、誰もが優しくて楽しかった。  けれど、戻りたいとはもう思わない。新しく手に入れた場所も、悪くはないからだ。 「ご祝儀、いくら入ってるんだろう」  佐和紀はふと気になって周平を振り返った。 「みんな、無理して入れたんじゃないかな」 「これに金をいくらか足して、長屋の屋根を直せばいいだろう。お祝い返しにな」 「あぁ……。それ、いいな」  明るい笑顔を返してうなずいた。  佐和紀の住んでいた部屋もそうだったように、どの家も程度に違いはあるが、激しい雨や長雨になると天井から雨漏りがする。  大家に言えば、修理と引き換えに家賃が上がる可能性があり、住人たちはその場しのぎの応急処置をしていた。屋根を直せば、みんな喜ぶだろう。 「佐和紀」  周平が真面目な声で呼んでくる。  ご祝儀の有益な使い道に晴れ晴れとした気持ちになった佐和紀が笑いながら振り返ると、 「キスしてもいいか」  今にもかぶりついてきそうな顔で言われる。  周平の気持ちが、佐和紀にもよくわかった。おそらく、同じことを考えている。  二人は男同士だが、縁があって籍を同じくした。それを真正面から受け入れて、祝福してもらえる喜びは得がたいものだ。  佐和紀はにやりと笑う。 「死ねよ、おまえ」  チンピラの口調で言って、くるりと背を向けた。

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