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第2話

「ドラマで見たからって、新婚旅行の行き先に熱海を希望する嫁ってどうよ?」  駅前をぶらぶら歩きながら、缶コーヒー片手の三井がへらへら笑った。  男にしておくのは惜しいような柳腰に帯を引っかける和服姿の佐和紀を挟んで、茶髪を肩まで伸ばした三井と金髪を短く刈り込んだ石垣が歩くと、向かってくる通行人は自然と道を空ける。 「だいたい、あのドラマはいまいちだった。全然、ハダカ出てこないし」 「その割には笑って見てただろ」  佐和紀が言うと、三井は思い出して笑った。 「文芸作品って割に、昼メロみたいな展開だろ? 笑うって!」 「ハダカしか興味ないくせに……。あのあたりの展開は、オリジナルだし、必要ないだろ」  くどくどと文句を垂れた石垣は、ため息で気持ちを切り替える。 「でも、姐さん。熱海はいいですよ。魚がうまいです。ソープもあるし」 「そこを一緒にするなよ」 「あー、夜はそこに行こう、俺」  コーヒーを一口飲んだ三井の足取りが軽くなる。  延び延びになっていた新婚旅行の日取りが今週末に決まったのは、先週のことだ。  ここのところ、周平は仕事にかかりきりで、佐和紀付きに指名されているもう一人の舎弟・岡村も手伝いに忙しい。その代わりに、なのか、たまに用事で抜けるものの、三井と石垣は基本的に毎日、佐和紀を退屈させまいと付き添っていた。 「ちょうど桜が咲きそうですね」  石垣が街路樹の新緑を見ながら言い、視線の先を眺めた佐和紀は相槌を打つ。  日陰の風はまだ冷たいが、日差しが明るくなって心地がいい季節だ。 「俺も、熱海は久しぶり。前に付き合ってた女と行ったんだけど、金色夜叉の像なんて見たことないな」  三井の言葉に、石垣が眉をひそめる。 「『貫一お宮の像』だよ。おまえの言ってるのだと、夜叉の像みたいだろ」 「違うのか?」 「おまえも、一緒にドラマ見たよな? 夜叉が出てきたか? 金色だったか?」 「あれ? 出てこなかったっけ」 「どうやら、おまえだけが違うものを見てたみたいだな」  じゃれ合う二人が、ふいに足を止めた。 「あれ……、何してんだ?」  三井が言うと、石垣もいぶかしげに目を細めた。  道の端で人が争っている。髪を明るく染めた女の子二人が、今にも飛びかかりそうな勢いで怒鳴り合っていた。 「あー、あれは『ゴールドラッシュ』の子だな」  石垣が口にする。『ゴールドラッシュ』は大滝組が管理しているキャバクラのひとつで、規模はかなり大きい。その分、女の子同士のいざこざも尽きなかった。 「みっともないなぁ」  ぼやく三井と石垣に仲裁へ行くよう促して、佐和紀は手近な店を指差した。 「そこの店を見てるから」 「すぐ済ませます」  二人が離れていくのを見送って、佐和紀は指定したメンズファッションの店に足を向ける。その肩を誰かが掴んだ。思わず鋭い目つきになって振り返るのは、チンピラの習性だ。  見ず知らずの人間に、無遠慮に触られたくない。 「あんたが新条(しんじょう)佐和紀?」  覗き込むようにして顔を見てくる目には敵意があった。投げかけられる問いかけにも視線にも、まるで遠慮がない。高校生にしか見えないが、おそらく大学生だろう。見目の良い童顔の男は、鼻で笑って肩を掴んだ手を離した。 「あんたが周平の嫁なんだろ?」  吐き捨てるような言葉に、佐和紀は憮然とした。  かわいい顔をして、育ちは良さそうだが、ハスっぱな印象がある。周平を平気で呼び捨てにする口調に慣れがあるせいだ。それが一番、佐和紀には違和感があった。 「噂に聞いてたより、全然たいしたことないね。着物で取り繕ってるらしいけど、あんた、チンピラだろ?」  蔑むような目を向けられて、怒りを通り越した佐和紀は唖然とした。 「周平とは釣り合ってないね」  ケンカを売られていると気づいたが、返す言葉は何もなかった。 「あんた、聞いてんの? 耳、ついてるよね?」 「え?」 「バッカじゃないの。周平が情人(いろ)と手を切って回ってるみたいだけど、僕は他のやつらとは違うから。覚えててよね。それに、あんたの方が、僕よりも後だよ」 「何の話だよ」  佐和紀はぼんやりと尋ねた。  業を煮やした少年がコンクリートの上で足踏みをする。柑橘系のコロンの香りが爽やかに漂った。 「僕の方が周平とは長いんだよ。あんたが、抱かれた回数よりね、ずっとずっと多いって言ってんだよ。妻だかなんだか知らないけど、僕は周平にとって特別だから、捨てられることなんてないからね。そこんとこ、はっきり言っておこうと思って」 「……」  ついっと目を細めて、佐和紀は目の前の小賢しい子どもを見た。一瞬たじろいだ少年は、ふんっとあごをそらして胸を張る。精一杯の虚勢の中に、佐和紀にはない自信がみなぎっていた。  周平との付き合いが長いというのは本当だろう。佐和紀はまだ知り合ってたったの二ヶ月だ。毎晩、同じ布団で寝ていても、繋がった回数は数える必要もないほど少ない。  胸の奥を刺す感情に、いっそう無表情になる。  周平の好みは、美少年と美女だ。佐和紀が女なら後者に当てはまるが、男だから周平の好みからはずれている。その点、目の前の少年はストライクゾーンの真ん中だろう。 「後から来て、あんまりでしゃばらないでよね。周平は男なら僕みたいなかわいいのが好みなんだよ。あんた、違うでしょ? まぁ、ついてるもの取って、ないものをつければ、いいかも知れないけど」  思っていたことをズバリと言われ、佐和紀は何か言い返そうと口を開きかけたまま黙った。美少年は満足そうに微笑むと、舎弟の二人が戻ってくる前に踵を返す。じゃあねと軽く手をあげて去っていく。佐和紀は一人残されて、瞬きを繰り返した。  胸の奥にもやもやとしたものが急速に溜まっていく。  トラブルを解決して戻ってきた三井と石垣に、どうかしたのかと尋ねられても、本当のことは言えなかった。こんなこと言えるはずがない。  佐和紀はすっきりしない心を持て余したまま、数日を過ごすことになった。  表面上はいつものように振舞ったが、一人になると、投げつけられた言葉のひとつひとつが胸に突き刺さり、手の先まで冷たくなる。たった一泊の旅行のために忙しく働いている周平と顔さえ合わさない日が続いたことも原因のひとつだ。しかし、それよりももっと大きな問題が佐和紀にはあった。 「戻ってたんだ?」  旅行の前日。眠る支度を終えて居間を覗くと、周平はソファーで書類を読んでいた。 「なんか、飲むもの作ろうか。お酒?」 「あぁ、赤ワインがそこにあるだろう。グラスで頼む」 「忙しそうだな」  ワイングラスを持って近づく。周平は書類から目をあげるわずかな時間さえ惜しいのか、手だけを差し出してくる。グラスを渡した佐和紀は、一人分の距離を開けて隣に座った。 「明日、俺は遅れて合流するから、四人で先に熱海に入っていてくれ」  新婚旅行に三人の舎弟を連れていくと言い出したのは佐和紀だ。先に行くことに不満はないが、ちらりとも顔をあげないのが気に食わなかった。 「毎晩、夜遅くまで仕事?」 「ん?」  ようやく視線が向けられる。 「どういう意味だ」  書類を読み疲れた目が、眼鏡のレンズの向こうで細くなる。佐和紀はすぐには答えられずに黙り込んだ。初めて身体を繋いだ夜、他のやつらとも続けるつもりならセックスはこれきりにすると言った佐和紀に、もう他のやつとはしないと周平は答えた。  けれど、あの少年の口ぶりからすると、二人はまだ続いているとも思える。  それが嘘か本当か、周平に聞こうと思ってやめた。周平は絶対に、佐和紀だけだと言うに決まっている。それが嘘でも平気で口にするのを見たくない。 「どうして、そんなに離れてるんだ。こっちへ来いよ」  何も知らず、周平が笑う。佐和紀は立ち上がった。 「寝る。おやすみ」 「佐和紀」  グラスと書類をテーブルに置いた周平が、扉へ向かっていた佐和紀の腕を掴んだ。 「拗ねてるのか」  穏やかな笑い声に、強がって顔をしかめた。おまえの情人にケンカを売られて落ち込んでいるとは、とても言えない。 「もう少し、ここにいろよ」  抱き寄せられて素直に身を任せた。  キスして欲しい。身体に触れて欲しい。それから、繋がりたい。  願望と欲望はないまぜになって佐和紀を苦しめる。誘うことさえできないのは、周平が手を出してこないからだ。  結婚して二ヶ月。挿入されたのは三回だけだ。  ときどきお互いのものを触りあうことはあったが、周平は挿入まで行こうとはしない。  佐和紀にも誘わせない雰囲気をわざと作っていて、口にしようとするとさりげなく距離を置かれた。そんなことが続いていたから、周平の情人の出現は佐和紀にとって重たい現実だ。  あの少年を抱いているから、佐和紀を抱けないのか。それとも、あの少年で満足しているから、佐和紀とセックスする必要もないのか。考えれば考えるほど、悪い方にしか想像できなくなる。 「寝るんだよ、俺は」  頬を寄せると気持ちのいい胸を、両手で押し返した。 「佐和紀」  あごを掴まれる。眼鏡のレンズ越しに視線を向けるのと同時にくちびるが重なり、柔らかな舌が一瞬だけ絡んで離れた。  追いかけそうになる身体を押し留められ、耳元にささやかれる。 「明日は久しぶりに、ゆっくりかわいがってやるよ」  身体はそれを想像して、無防備に震えた。睨みつけた自分の目が潤んでいるのではないかと、ふいに怖くなってうつむく。  夜遅くまで外にいて、浮気でもしてるのではないかと疑っている自分が、浅ましくて嫌になる。だけれど、それも口にはできなかった。 「おまえとの時間のために、こんなに働いてるんだからな」  周平の指が名残惜しそうに何度も頬に触れてくる。その温かさに、よからぬスイッチが入ってしまいそうで、佐和紀はくちびるをそっと噛んだ。  まるでセックスを覚えたてのガキみたいだ。しかし、それが事実だった。  たった二ヶ月前まで、佐和紀の身体は男も女も知らなかった。手でイかせたり、イかされたりはしていたが、それはセックスではない。あの夜、周平に抱かれて佐和紀はつくづく実感した。求める相手から与えられる快感の深さは、一度味わえば、もう他のことなんて考えられない。  周平が初めての男だからなおさらだった。色事師も裸足で逃げ出すほど情事慣れした周平には、すっかりバレているはずだ。ガラにもなく、俺のことを好きかと聞きたくなって、佐和紀は目を伏せた。周平が寄せてくるくちびるに自分からキスをして、首に腕をまわす。 「あぁ……、おまえを抱きたいな」  腰を抱き寄せた周平がキスの合間につぶやいて、苦い表情で顔をしかめた。心の声が疲れのあまり、口から勝手に飛び出たと言いたげだ。  佐和紀は何も言わずに肩に頬を寄せる。  胸に広がるもやもやとしたものが、少しだけ軽くなった気がしていた。

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