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第3話

 旅行の当日は快晴になった。  後から車で追いかけてくるという周平を横浜に残して、佐和紀と舎弟三人は早々に出発した。熱海までは高速道路を使って二時間かからない。ドライブとしては最適の距離だ。  岡村の愛するレクサスのスポーツセダンを、ここぞとばかりにアクセルを踏み込んで運転する三井が、カーステレオに合わせて浮かれた歌声を張り上げる。  後部座席で佐和紀の隣に座る石垣が、両手で耳をふさいだ。 「うるっさいよ。誰もおまえの歌声なんか期待してないんだから、やめろ」 「この高速での安定感たまんねー」  石垣のお小言に慣れている三井は、ハンドルを握りしめて上機嫌に笑う。 「スピード出すのはいいけど、事故と違反には気をつけろよ。めんどくさいから」  助手席の岡村は、車を大切にしている割に、三井の荒い運転にも寛容だ。そもそも、三人の舎弟の中で一番年上で落ち着きがあり、周平からは右腕として重宝されているだけあって、騒がしくじゃれ合う石垣と三井のことは文字通り弟のようにあしらっている。  岡村がいなければ、二人はリードのない犬だ。佐和紀と合わせてチンピラ三人が揃えば、悪さしかしないと周平は予測していたのだろう。 「姐さんは、免許、取らないんですか」  助手席から声がかかる。 「四人も運転手がいるんじゃ、取っても意味ないだろ」 「アニキも含みですか」  石垣が隣で笑った。 「って、周平が言うんだ」 「姐さんが免許取ったら、家出の距離が伸びそうだからだろ」  三井の言葉に、残りの二人が意味ありげに笑うのが佐和紀の癇に障る。家出をしたのは、結婚してすぐの一度きり。悪かったのは周平の方だ。佐和紀が責められる謂れはないのだが、雨の中、町中を探し回ってくれた苦労を思うと文句は顔にも出せなかった。  窓の外を流れる景色に目を向ける。箱根に入る手前で高速を降り、車は一路、海沿いへ進路を取った。快晴の青空を映した春の海は穏やかに青い。日差しを反射させて、白く輝く波頭が水平線まで続いていた。沿岸の岩場には釣り人が集まり、ボートも出ている。  絶好の行楽日和だが、まだ道は混んでいない。佐和紀は窓を開けて、潮風を吸い込んだ。横浜の港とは違う匂いがして、髪を乱す風の強さに窓をすぐ閉めた。 「熱海、近いなー。もう着くんじゃね?」  運転席の三井がハンドルを叩き、助手席の岡村がナビの画面を指差した。 「まだ早いから、もっと先の城ヶ崎海岸まで行くからな。予定通り」 「はいはい。わかってますよ」  運転もしやすいのだろうが、乗り心地も最高の高級車だ。スポーツセダンタイプでやや後部座席は狭いが不快ではない。佐和紀はあくびをひとつ漏らした。  窓の外も眺めたいが、山肌の花を淡く色づかせる春の陽気に眠気を誘われる。シートに背中を預けて、ぼんやりと外を見ているうちにまぶたが下りてきて、抗いがたい心地よさに従った。  眠ったのか、起きているのか、よくわからない半覚醒の耳に、石垣の声が届く。 「シンさん、なんだって、アニキはそんなに忙しくなってんの? 例会があるったって、アニキが出張るほどのものじゃないだろ」  シンさんというのは岡村のことだ。岡村慎一郎だから、シン。年下の石垣や三井は敬称をつけているが、佐和紀や周平は呼び捨てにしている。 「あぁ、それな。……ユウキがごねてんだよ。結婚が気に入らないんだろ」  岡村が苦笑いを浮かべた声で答える。  世話係として引き合わされてから二ヶ月。一緒にいる時間が増えるに従って、佐和紀もそれぞれを下の名前で呼ぶことが増えた。石垣保はタモツ。三井敬志はタカシだ。  佐和紀はうとうとしながら、ユウキと呼ばれる舎弟を思い出そうとしたが記憶の中にはいない。 「なんだよ、それ。関係ないだろ」  三井のぼやきに続いて、岡村が言った。 「ストライキしてるんだ。あいつの担当は特殊だろ? だから、アニキも切るに切れなくて、今、いろいろ調整してるとこ」 「でも、今日は口実だろ」  石垣が言う。『口実』というよからぬ響きに、佐和紀の眠気がすっと引く。目は開けずに眠った振りをして聞き耳を立てた。 「仮にも新婚旅行だし、アニキなら絶対に予定なんて入れない」 「まぁな」  岡村が笑っている。 「そういうことなんだ、やっぱり」  石垣の返答に、どういうことだと、佐和紀は目を開いた。石垣は視線に気づかず話し続ける。 「優しすぎるっていうか、本当に惚れてんだなぁ」 「だけど、俺たち四人で泊まりがけの旅行に出すのはイヤだっていう惚れ方な」 「別に、何もしないのに」 「そりゃあ、俺とタモツには理性も教養もあるけどな」 「あぁ、そうだ。一人、バカがいる」 「しねぇよ。姐さん、こえーもん」  そのバカが鼻歌混じりに答える。石垣が突っ込んだ。 「アニキじゃねぇのかよ」 「おまえは本当にバカだから、そのうち、鼻ぐらい折られても、小指の一本ぐらいなくなってもいいとか思うようになるんだろうな」  岡村が笑って続けると、 「いくら俺でもそれはない」  三井が断言した。本人が寝ていると思って、言いたい放題の舎弟たちだ。  起きていてもたいして気を使うわけではないが。 「そうだよなー」  石垣が身を乗り出して、運転席の三井の髪を引っ張った。 「姐さんに口を利いてもらえなくなるのが、一番、イヤなんだもんな」 「子どもかよ、おまえ」 「うるさいな、二人とも。運転してんだよ、運転!」  叫ぶ声が動揺している。 「なんで?」  佐和紀は腕組みをしたまま、ぼそりと言った。  三井がギャーッと叫んで急ブレーキを踏む。石垣がすかさず佐和紀の前に腕を出して、身体を支える。後続の一台が派手なクラクションを鳴らした。ちょうど熱海の市内を抜けていたところで、展望スペースに車を入れるとクラクションを鳴らした車もついてくる。 「うっせーよ」  叫んだ三井は舌打ちした。 「姐さん、大丈夫ですか?」 「首を痛めてませんか」  石垣と岡村は冷静だ。後ろの車がぶつかったわけではないし、少し乱暴に頭が前後に振られただけだ。 「ってか、三井はもうダメだ」 「俺が運転します」  佐和紀に答えた岡村は、車の外から聞こえる怒鳴り声に顔を向けた。ヤンキー二人が、降りてこいと吠えている。  後部座席のUVガラスで中が見えにくいせいか、ほとんど改造していない国産高級車を舐めているのだろう。確かに、見ようによっては、助手席に座る岡村は物静かな顔立ちのサラリーマンで、運転席の三井は定職につかないダメなニートだ。後部座席も見えていたなら、彼らはもっと調子づいたに違いない。金髪にしても育ちの良さが隠せない石垣と、女よりも綺麗な佐和紀では、侮るなという方が難しい。  四人の中で見た目がチンピラなのは三井だが、内面が計れたなら最も優男に見える佐和紀が一番のチンピラだ。伊達に『こおろぎ組の狂犬』の異名をつけられたわけではない。 「女か……」  後ろの車を振り返った石垣がため息をついた。  バカな男に、バカな女だ。車の脇に立って、男たちを止めるでもなく携帯電話をいじりながらニヤニヤと笑い合っている。男の一人がしきりとドアのそばで威嚇し、もう一人は車が逃げないように立ちはだかっていた。 「我慢しろよ、タカシ。姐さんがいるからな」  岡村が三井の腕を掴む。 「わーってるよ。けど、どうすんの?」  うんざりした声でわかってると言った三井はハンドルに身体を預ける。 「轢けばいい。死なねぇよ」  佐和紀の言葉に、石垣が苦笑した。 「またそんな、無茶なことを……。やめてくださいよ、タカシはバカなんですから」 「俺のバカと姐さんのバカは同じぐらいだよ」  三井がぼやく。 「俺が謝りに行くか」  周平に次いで、社会人としての表の顔を演じられる岡村がため息をついた。  そのときだ。威嚇していた男が車のドアを強く蹴りつけた。 「シ、シンさん。こらえて!」  慌てて石垣がシャツを掴んだが、青白い顔になった岡村は無言でシートベルトをはずした。 「俺の、全財産……」  ぼそりとつぶやいてドアを開けた。 「そうだったのか」  佐和紀は妙に感心してしまい、石垣からそういう問題じゃないとあきれられる。  「止めないと。タカシ、おまえは乗ってろ。余計にこじれる」  静かに怒りながら男たちに詰め寄る岡村を、石垣が慌てて止めにいく。佐和紀は車の中から眺めた。 「シンも怒るんだな」 「この車、こう見えて、一千万超えてんだよ」 「あ?」  三井の言葉が右から左に流れ出た。 「一千万円、だよ」 「は?」 「すごく高いんだよ、すごく」 「あぁ、それは怒るよな」 「わかってねぇだろ」  三井が笑う通りだ。そんな単位の金額は、佐和紀の辞書にはない。百万だって目玉が飛び出る。  外から、男たちの怒鳴る声が聞こえてきた。危ないじゃないか、女がケガしたらどうする、土下座してあやまれ、と言いがかりのオンパレードが続く。 「さすがに、こういうことはしたことねぇな」  佐和紀は目の前にある運転席のシートを掴んで言った。 「あんたの性格じゃないよな、こういうのは」 「何したいの、こいつらは」 「難癖つけて、女に強いところを見せたいだけ」 「殴り合いしたいわけじゃないのか」 「だいたいはしないね」  三井が笑った。佐和紀が人に難癖をつけるのは、ケンカで憂さを晴らしたいときだと知っているからだ。 「道でさぁ、肩がぶつかったって難癖つけるヤツらも、たいがいは負けを認めさせて周りに自分が上だって見せつけたいだけだよ。……あんたは何か言う前に殴るだろ?」 「俺だって、肩がぶつかったぐらいじゃ、殴んねぇよ」 「ぶつけさせて、ケンカ売らせるんだよな?」 「殴ってきた方が悪いからなぁ」 「バカなのに、変なところで知恵がついてんな」  三井が軽口を叩く。佐和紀は鼻で笑った。 「おまえに言われるのか」 「おたがいさま~」  ひやひやと笑いながら、外の成り行きを眺める。顔を真っ赤にしている男二人は、岡村にターゲットを絞ったらしい。外にいる岡村も石垣も、物腰が柔らかくて、まるでヤクザには見えない。  すっかり舐められているのが、手に取るようにわかった。 「めんどくせぇな、タカシ。俺、ダメだ」 「え? それはマズい!」  佐和紀がドアを開けたことに気づいた三井が慌てふためいてシートベルトをはずす。 「うるさいんだけど?」  ドアをバタンと閉めて、後ろに控える女たちに一瞥をくれてやってから、男たちを見据えた。 「あぁん? なんだよ、おまえ」  男二人の視線が、佐和紀の雪駄を履いた足先から頭のてっぺんまでを舐めるように見た。着物姿の腰から顔にかけては特に好色な目を向けられ、岡村と石垣がムッとした表情になる。 「俺の舎弟が何かしたか?」  佐和紀が言うと、男たちは鼻白んだ。 「舎弟? おおげさな言い方だな」 「どんな運転させてんだよ。あぶねぇだろ。へたくそが」  男たちが怒鳴る。佐和紀はすっかり外に出ている舎弟の三人に視線を向けた。 「乗れ。行くぞ」  あごをしゃくって命令すると、車を蹴られて怒り心頭の岡村さえ異存のない顔をして従う。 「謝れよ、それが筋だろ!」  男の一人が言った。 「スジ?」  佐和紀は眉をひそめて、ゆっくりと振り返る。 「今、そっちのが謝ったよな?」  岡村を追った石垣が二人に頭をさげたのを見ている。 「あんなのが謝ったうちに入るかよ。こっちの気が済むようにすんのが人としての常識だろうが」 「……あー、ヒト……人ね」 「行こう。もういいから」  佐和紀の顔を見た三井が、車の中へ押し込もうとしながら男二人に頭をさげた。 「ホント、ごめんな。あんなとこで急ブレーキ踏んで。彼女たちにも謝っといてよ」 「それじゃ、済まねぇんだよ!」  ガンッ、と音がした。車の鼻先を男が蹴ったのだ。岡村の顔色がいっそう悪くなり、佐和紀もピクピクと額に青筋を立てた。三井と石垣は顔を見合わせて、身体を緊張させる。 「……一千万に」  佐和紀がつぶやいた。銀鼠色の車体に手をかけ、三井を押しのけて男たちに向き直る。 「あ、姐さん」  ダメだと三井が小さな声をかけたが、耳には届かない。 「てめぇら、いい加減にしとかねぇと泣かすぞ、コラ」  袖を引く三井を振りほどき、男たちを睨みながら蹴られた車の先端を覗き込む。美しく磨き上げられたフロントグリルに靴の汚れがついていた。 「拭けよ」  ドスを利かせた佐和紀の声は、その容姿とあいまって、一種独特の感を醸し出した。男たちは一瞬怯んだが、後ろに控える女たちの視線を気にして眉根を引き絞り、佐和紀に掴みかかった。  あっ、と叫んだのは、もう一人のヤンキーだ。  佐和紀は額を押さえ、舎弟の三人も顔をしかめて別の意味で額を押さえた。  岡村は天を仰ぎ、石垣は顔を背け、三井はぐったりとうつむく。  頭突きをもろに受けた男がもんどり打って倒れこみ、悲鳴をあげて転げ回った。 「舐めてんなよ、ガキが」 「お、おまえっ……!」  悪あがきを始めたもう一人は、佐和紀に思いっきり拳で横殴りにされて、頬を押さえる間もなくギャッと声をあげた。 「拭けよ」  頭突きを食らって鼻血を吹いている男の肩に雪駄を引っかけた足を乗せる。痛い、痛い、ごめんなさいと繰り返す涙声に、拳を受けたもう一人は怯えきった顔でその場にへたり込んでいた。 「拭かせろ、三井」 「それより、額、大丈夫か」  三井が我に返ってそばに寄る。 「そのガキに拭かせろ」 「はいはい、わかりましたよ。おまえら、バカだねぇ。一番怒らせちゃまずい人に突っかかって」  先ほどまでの威勢の良さはどこへ消えたのか、腕を掴まれた男は小さくヒィと喉を鳴らした。 「ほら、拭けよ。服で拭けばいいだろうが。さっさとしねぇと、あの人がまた怒るぞ」 「すみません、すみません」  泣きながら、服の裾で一生懸命に車を拭く。 「これでいいな、シン」  佐和紀が顔を向けると、岡村は肩をすくめた。 「じゅうぶんすぎてもったいないぐらいですよ。行きますか」  あっさりと答えた。いつのまにか女の子たちが石垣に近づき、車に乗せてくれないかと交渉している。佐和紀は冷たい目で顔を値踏みして笑い、後部座席に乗り込みながらぼやいた。 「鏡で顔を見てから言えよ」 「そういうわけだから、ごめんね。お兄ちゃんたちの面倒見てあげなよ」  石垣は爽やかに言いながら車に戻りかけ、女の子たちを振り返った。 「車のナンバー控えてるから、警察へ行ったりしないようにね。喧嘩両成敗ってやつだからね。……まぁ、今度からケンカは相手見てからした方がいいな。俺たち、立派なヤクザだからねー」  陽気に手を振って車に乗った。 「額を見せてください。本当にケガしてませんか」  スムーズに本線道路に戻る車の中で、石垣が顔を覗いてくる。 「あぁ、やっぱりさすがですね。見事に相手だけが致命傷で」 「陥没はしてないだろ。あの程度なら、鼻血止まりだよ」  佐和紀は平然と言った。 「でも、やめてくださいよ。アニキにどやされるのはゴメンですから」  三人がほぼ同時に同じ趣旨のことを言い、佐和紀は気にもせずに笑って窓の外を眺めた。車は海沿いを進み、やがて目的地へ着く。

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