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第1話
ドアノブに手をかけて、志穂野(しほの)遙(はる)ははっと動きを止めた。隣の部屋のドアが開く音がしたのだ。
〝やば……〟
隣のドアがガチャンと閉まる音がし、鍵をかける音。そして、遠ざかっていく足音。ふうっと息を吐いて、そっとドアを開ける。
「あ……っ」
ドアからひょっこりと顔を出すと、少し向こうで立ち止まり、こちらを見ている鋭い目と視線がばっちり合ってしまった。
「おはようございます、志穂野先生」
「あ……おはようございます……鮎川(あゆかわ)先生……」
鮎川和彰(かずあき)は足の長さを強調するように、ゆっくりと大きなコンパスで歩いてきて、遙の前に立った。
「あの……なんで、戻ってくるんですか?」
遙はそっと尋ねた。このびくびくとした気の弱さがなければ、十分に美しいと言える容姿である。繊細に整ったきれいな目鼻立ちにほっそりとしたしなやかな身体。さらさらとした柔らかそうな髪が額にかかって、長いまつげの縁を覆う。うつむいて視線をさまよわせる遙を面白そうな顔で見ているのは、どこから見てもハンサム……そう、美貌とか美形というよりもハンサムな男だった。彫りの深いはっきりとした目鼻立ち。深い二重の目は淡い栗色で、遙の真っ黒な黒目がちの目とは対照的だ。
「ええ、少々忘れ物をしたもので」
「あ、そうですか。じゃあ、僕は……」
こそこそと鮎川の横を通り過ぎようとしたところ、ぐいと腕を掴まれて、遙は悲鳴を上げそうになった。
「な、何するんですか……っ」
「俺の忘れ物は君だ、志穂野先生」
低く通るいい声だ。耳元で囁かれたらくらっときそうな。
「もう五分早く起きたらどうだい? 志穂野先生」
「べ、別にあなたにはか、関係ないと……」
「関係あるね。誰かさんはきちんと起こしてあげないと、早朝カンファに間に合わない」
「ち、遅刻したのは一度だけ……っ」
遙と鮎川は、共に愛生会(あいしょうかい)総合病院に勤務する医師である。遙が心臓外科医、鮎川が整形外科医と専門はまるで違うが、外科系というくくりでは、同じカテゴリーに属する。早朝カンファは外科系研修中の初期研修医を集めて行われるカンファレンスで、二十代から三十代前半の若手医師は、当直がかかっていない限り、その指導役として出席するよう院長から言い渡されている。そのカンファに、遙は寝坊して遅刻したことがある。しかしそれは半年も前の話だ。それをいまだにチクチクと言ってくるのが、病院借り上げのマンションで隣に住む鮎川だった。
「一度でも何度でも、遅刻は遅刻だよ、志穂野先生」
「……その先生連呼はやめてください……」
何が嬉しくて、医師としてのキャリアも年も上の鮎川に、朝っぱらから嫌みったらしく、先生呼ばわりされなければならないのか。鮎川は遙より五つ年上である。早朝カンファでも、遙はほとんど座っているだけだが、鮎川は指導側の中心となっている。その彼が、なぜ自分に構うのか、遙にはわからない。
「と、とりあえず、手は離してもらえますか……っ」
このマンションには、二人の他にも病院関係者が住んでいる。いい年をした男が二人、朝っぱらから手を繋いでいるところなど見られたくない。どうにか、握られていた手は振りほどいたが、そのまま腕をまた掴まれてしまった。ほとんど連行といった雰囲気で、ぐいぐいと引っ張られる。
「は、離してください……っ」
「だから、五分早く起きろと言ってる。悔しかったら、俺が出勤する前に家を出るんだな」
そりゃそうかと頷きかけたが、はっとそこで我に返った。
「僕がドア開けたら、先生にまる聞こえじゃないですか……っ」
何せ隣だ。しかも、決して高級ではない賃貸マンションである。鮎川はふっと振り返り、ふふっと笑った。苦み走った格好のいい笑みだ。これが自分に向いていなければ、ただ格好いいなぁで終わるだろう。しかし、これが自分に向いているとなると話は別だ。鮎川の笑顔は多分に毒を含んでいるからだ。彼は唇をきゅっと片端だけ吊り上げて笑った。
「へぇ……そのくらいのことはわかるんだな」
エレベーターを降り、マンションのエントランスを出る。
「おはようございます」
同じマンションに住んでいる後期研修医が挨拶してきた。鮎川は軽く遙を突き飛ばす。
「わわ……っ」
転けそうになっているのをきれいに無視して、クールな表情を決めるのが憎たらしい。
「おはよう。今日のカンファは症例出しだったな」
「はい……っ、緊張します……っ」
〝ここまで人を引きずって来ておいて、あとは無視か……っ〟
鮎川に憧れの視線を向けている研修医は、遙には軽く会釈しただけである。結果的に、二人のあとをついて行く羽目になった遙は心の中で叫ぶ。
〝僕のことはほっといてくれ……っ〟
これは毎日繰り返される儀式のようなものだった。確かに、早朝カンファに間に合うように、鮎川が出勤する前に出られるように起きればいいだけの話なのだが、遙は寝起きの悪いタイプなのである。朝に弱く、いくら目覚ましをかけても、気持ちよく起きられたためしがない。いつもなんとかベッドを這い出し、のろのろと支度をしているうちに時間はどんどん過ぎて、家を飛び出すようなことになる。
〝早朝カンファ、やめてくんないかなぁ……〟
考えているうちに、顔をぶっ壊す勢いのあくびが出てしまった。何か気配を感じたのか、まるでタイミングを計ったかのように、鮎川が振り返る。
「わ」
「志穂野先生、その顔、患者の前でしないようにね」
「……はい」
くうっと心の中で拳を握りしめても仕方がない。前を歩く闊達な二人連れのあとを、遙はとぼとぼと歩いていった。
「おはようございます」
「はよーっす」
遙が勤務する愛生会総合病院は、病床数五百の病院だ。地域の基幹病院としての役割があり、毎日忙しい。
早朝カンファを無事終えて、遙は病棟回りの前に、医局に戻った。医局はざっくり外科系と内科系に分かれていて、大部屋にずらっとデスクが並んでいる。若手の医師たちはそこにひとまとめにされ、医長クラスになると、個室の医局がもらえる。
「なんだ、これ」
学会の書類や雑誌が山積みになっているデスクについて、遙はパソコンを立ち上げた。そのキーボードに挟み込むように、お魚柄のメモが置いてある。製薬会社のノベルティだ。
「紹介したい患者?」
さっとメモを流し見ているとメールの着信音がした。
「あ……」
メールの発信者は『Katsumi TABATA』。
「克己(かつみ)だ」
遙はメモを置いて、メールを読み始めた。その口元に笑みが浮かぶ。どうということのない近況報告のメールだが、懐かしい幼なじみからのそれとなると、幼い頃の思い出と重なって、自然と笑みがこぼれてしまう。
「……何言ってんだか」
自分の近況を記し、まだ結婚していないかと、常套句が並んだ。
「自分はどうなんだよ」
パソコンのディスプレイを軽く指先で叩いた時、白衣のポケットでPHSが鳴った。
「はい、志穂野……すぐ行きますっ」
患者の急変だった。遙はパソコンをシャットダウンするのももどかしく、医局を走り出た。
ナースステーションの片隅に、ドクターズテーブルと呼ばれる場所がある。アールを描いたしゃれたテーブルにパソコンが一台と電子カルテ用の端末が二台載っているものだ。そのテーブルに座って、遙はせっせと指示書きをしていた。カルテを開いて、点滴や投薬の指示を書き込んでいく。
「志穂野先生」
その手元が暗くなって、低い美声が聞こえた。この腰にくるタイプの声には聞き覚えがある。毎日、朝一で聞く声だ。
「な、なんですか……」
「俺の紹介、診てくれたか?」
「あ……」
そういえば、朝出勤したら、医局の机の上にメモが載っていた。さっと読んだは読んだのだが、すぐに呼び出しがかかって、メモを見直すのを忘れていたのだ。そこには、鮎川の走り書きで『紹介したい患者がいる。東三階病棟301号室』と書いてあったのを覚えている。
「す、すみません、すっかり……」
「忘れてたということか?」
コンコンとテーブルを指の節で叩かれて、遙はひっとおびえる。声の体温がすうっと下がったのがわかった。
〝やばい……〟
「ほう……俺の頼みを断るのか」
「ち、違いますっ」
遙は、壁の入院患者のリストを見た。ここはありがたいことに東病棟だ。さっと視線を走らせて、301号室の患者名を確認し、手元の電子カルテで検索をかける。
「あった……」
カルテを見ると、腰部脊柱管狭窄症の手術で入院している患者だった。
「心電図の異常……ST上昇……左脚ブロック……臨床症状は……」
カルテの内容を確認して、遙は顔を上げた。そこには、やはりハンサムな整形外科医が立っていた。
「……ACS(急性冠症候群)……」
遙は鮎川を見上げた。苦み走ったハンサム顔が皮肉な笑みを浮かべて、遙を見下ろしている。遙は慌てて立ち上がった。
「大変だ……っ、すぐに冠動脈造影しないと……っ」
「うん、さっき終わった」
「あ、そうですか……って、なんでっ」
「でかい声出さないように」
鮎川はしっと唇に指を当てた。
「君が無視しやがるから、循環器に紹介かけて、診てもらった。PCI(経皮的冠動脈インターベンション)で、今経過観察中」
「ていうか」
遙は立ち上がったまま、鮎川にくってかかる。
「なんで、そんな重要なことを医局のメモで知らせるんですかっ。メモなんて、風に飛ばされることだってあるし……っ」
「君の注意力を試した。もうちょっと、机の上片付けておかないと、大切なものをなくすぞ」
「あ、あなたに言われたくないです……っ。そういう大切なことは直接言ってくれないと困ります……っ」
「へぇ……」
鮎川がきゅっと唇の片端を引き上げる。
「俺にそういうこと言うのか? もともと君の注意力散漫が原因だろう? 患者の基本情報は覚えていたみたいだから、メモは見たわけだ。しかし、君はその後、俺に連絡するのも、患者を診るのも忘れていた。それは君の責任感の欠如だろう?」
「は、はい……」
鮎川はいつも正論で攻めてくる。言い返しようのない正論で追い詰めて、遙をいたぶってくる。切れ長の一重の目が面白そうにきらきらと輝いているのが怖い。
「以後、俺の紹介を無視することは許さない。いいな」
「だ、だから、無視したわけじゃ……っ」
鮎川の長い指がすいと伸びて、軽く遙の頬を弾く。
「だよな。ただうっかり忘れただけだ」
「は、はぁ……」
「医者として、あるまじきことだがな」
容赦ない一言を投げつけて、鮎川は去っていく。
「あ、先生、お疲れ様です」
「お疲れ」
ナースステーションを出ていく鮎川に、ナースたちが会釈を送る。
〝ナースたちの笑顔が……本気だ〟
遙はふうっとため息をついた。
〝僕の時みたいな愛想笑いじゃない……〟
鮎川はナースたちに人気がある。長身だしハンサムだし、それに医師としての腕もいいらしいし、遙以外には人当たりも悪くない。
〝なんで、僕にだけきついわけ?〟
すとんと椅子に腰を落とし、だるい手を上げて、電子カルテの記載を再開する。
「志穂野先生、コーヒーお飲みになりますか?」
ナースの一人が聞いてくる。
「あ、はい、ください」
これが鮎川なら、黙っていてもコーヒーが出てくる。微妙な扱いの違いを感じながら、遙はカルテの記載を続けた。
遙の住むマンションは十階建てである。六十戸が入っているマンションで、そのうちの十戸が病院の借り上げで、住んでいるものは全員が医師だ。十戸は固まっているわけではなく、部屋の位置はばらばらなのだが、なぜか遙とその隣は、借り上げ住宅がくっついている。
「なんで、僕の隣にあの人がいるかな……」
マンションのエントランスにあるボックスに暗証番号を叩き込んで、ガラスドアを開けると、遙が踏み込む前に、すうっと小さな影が駆け込んできた。
「わ……っ」
ぼんやりしていたので、遙はその影に軽く突き飛ばされた。転びそうになるのをようやくこらえる。
「危ないなぁ……」
「ごめんねっ、おじさんっ」
「お、おじさん……っ」
小さな影は子供だった。青いダッフルコートに黄色いリュックを背負っている。
「ええと……どこかな……」
子供は元気に駆け込んできたものの、ここに住んでいるわけではなさそうで、エレベーターの前に立ちすくんでいる。よほど走ってきたのか、軽く肩で息をしている。
「あの……君、どこかの家を訪ねてきたの?」
遙は小さな背中に声をかけた。
「僕、このマンションに住んでるんだけど……もし、僕がわかる家だったら、連れて行ってあげるよ」
「あのね」
振り向いた子供は男の子だった。年の頃は五歳か六歳、可愛らしい顔立ちをしている。リュックの肩紐に両手をかけて、少年は小首を傾げる。
「パパに会いに来たんだ。ここに来れば、パパがいるって、ママが言った」
「パパ?」
遙はきょとんとして、少年を見た。
「パパって……どんな人? なんて名前?」
「僕はね、光紀(みつき)だよ」
少年は目をきらきらさせて言った。
「おじさんは?」
「おじさんじゃないってば」
遙は慌てて言った。
「そ、そりゃ、君からすりゃおじさんって言いたくなるかもしれないけど……」
確かに遙は医師としては十分に若い方だが、この少年……光紀の父親と言ってもそれほどおかしくはない年だ。
「僕のことはどうでもいいよ。君のこと。光紀くんだっけ、名字は?」
「鮎川」
「そう、鮎川さんって、近くに……え」
遙の動きがぴたりと止まった。その名前には、嫌というほど聞き覚えがある。
「君……鮎川さん……っていうの?」
光紀はこっくりと元気に頷いた。
「そうだよ! 鮎川光紀!」
光紀はぴょんと元気よく跳ねる。
「パパはお医者さんなんだっ!」
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