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第2話①

 遙のマンションは2LDKと呼ばれる間取りだった。六畳くらいの広さが二部屋に、二十畳の広さのリビングダイニングキッチンがついている。一人暮らしにはちょっと広すぎるほどの間取りだ。 「えーと……」  遙はそのうちの一部屋をせっせと片付けていた。一応書斎と名はつけているが、体のいい物置である。床に積み上げた本を片付け、折り畳み式になっているソファを開いて、ベッドにする。 「これで……いいかな」 「何それ?」  ドアの傍に立って、中をのぞき込んでいた光紀が無邪気に聞いてきた。 「おもしろいの。ブロックのおもちゃみたい」 「今夜の君のベッドだよ」  遙は振り向いた。 「一人でも寝られる?」 「僕、ずっと一人で寝てるよ。ちっちゃい時からずっとだよ。寝る時間になったら、一人でベッドに行くんだよ」  欧米ではよく聞く話だが、日本では珍しいかもしれない。 「へぇ、外国風の育ち方してるんだね」  遙はソファベッドにシーツを敷き、物入れから引っ張り出した毛布と羽根布団をかけた。 「知らない。ママにそう言われたから。そうでないとご飯作ってもらえないもん」 「え」  とんでもないことを聞いてしまったような気がする。  枕の予備はなかったので、バスタオルを二枚重ねてたたみ、頭の方に置いた。これでベッドはできあがりである。 〝まさかね〟 「もう少しでエアコンも効くから、先に向こうでご飯食べよう」 「うん」  遙が書斎を出ると、ぽんぽんと跳ねて、光紀がついてきた。 「ご飯、何?」 「何が食べたい?」 「おいしいのがいい」 「それは難しいかもねぇ」 〝僕、なんで、この子と……和やかにやってんの?〟  光紀は人なつっこい子供だった。にこにこと可愛い顔で笑い、遙にまとわりついてくる。 「僕ね、オムライスがいい。赤いチキンライスの」 「それなら作れるよ。それと……サラダとコンソメスープでいい?」  遙は光紀の頭を軽く撫でた。さらさらと柔らかい子供の髪の手触りは懐かしい。子供の身体はお日様の匂いがする。 「じゃあ、テーブルに座って待ってて。あ、ソファでテレビ見ててもいいよ。リモコンはガラステーブルの上に載ってるから」 「僕、オムライス作るの見てる」  光紀はきらきらと目を輝かせる。子供らしい無邪気な表情だ。 「卵、くるってするの見たい」  遙の部屋でのままごとから、一時間前のマンションのエントランスである。遙と光紀の出会いはちょっとした衝撃だった。 「君、鮎川先生の……子供……?」  そう思って見ると、子供のわりに整った顔をしていて、似ているといえば似ているかもしれない。 〝いや、待て待てっ、妻子がいるなんて、聞いたことないぞ……っ〟  遙と鮎川がここに引っ越してきたのは、共に一年前、愛生会総合病院に赴任した時である。遙は大学の医局から、鮎川は県立病院からの就職だった。そういえば、家族のことなど話したことはなかった。 〝もしかして……単身赴任だったのか?〟  光紀はくるくると大きな目で、遙を見た。 「おじさん、パパのこと知ってるの?」 「だから、おじさんはやめて」  遙はどちらかというと女顔で、年よりも若く見えるタイプだ。おじさん呼ばわりは来るものがある。いまだに美少年顔と言われることもあるだけに、おじさん呼びは衝撃的ですらある。 「僕は……志穂野遙。鮎川先生の……隣に住んでるんだ。君のパパが鮎川和彰先生なら」  いつまでも、寒いマンションのエントランスにいることもない。遙はとりあえず光紀を連れて、自分の部屋に向かった。 〝鮎川先生……帰ってるかな……〟  時計をのぞくと、午後七時を回ったところだった。 「パパはね、せいけいげかっていうお医者さんなんだよ。びょういんで働いてるんだよ」  光紀はなかなかおしゃべりも達者だ。遙は一応、自分の隣の部屋のドアを軽くノックしてみた。返事がないのを確認して、今度はインターホンを押してみる。 「……いないみたいだね」  どうする? と光紀を見下ろすと、彼はきょとんと大きな目で遙を見つめる。 「パパ、いないの?」 「みたいだね。ちょっと待ってて」  遙はポケットから鍵を出して、自分の部屋のドアを開けた。 「とりあえず入って。風邪をひくといけないからね」 「うん」  光紀は素直に遙の部屋に入ってきた。きょろきょろと見回している。 「僕が前に住んでたおうちみたいだ」 「前に住んでた?」 「うん。ママと住んでた。こんなおうちだったよ。でも、エレベーターはなかったよ。エレベーターいいなぁ。ボタン押すの好き」 〝エレベーターがないってことは……アパートかな〟 「ソファに座ってて。今、ホットミルク作ってあげるからね」 「お砂糖入れてね。甘いのがいい」 「はいはい」  マグカップに牛乳を入れて、少しレンジにかける。ぬるめのホットミルクを作って、砂糖を溶かし、光紀の前に置いてやる。 「それ飲んでてね。今、パパに連絡取ってみるから」  遙はコートのポケットからスマホを取り出し、少し考えてから、病院の夜間受付にかけた。 「……心臓外科の志穂野です。お疲れ様です。今日の当直って誰ですか?……いえ、患者さんじゃなくて、ちょっと……鮎川先生に用があって。もしかして、当直かなって……ああ……やっぱりそうですか……。いえ、いいんです……明日にします。ありがとうございました」  遙はふうっと息を吐きながら、電話を切った。 「やっぱ、当直だったか……」  手術日は術後管理や指示出しで帰るのが遅くなる分、平日の鮎川は比較的帰るのが早い。せいぜい残業は一時間程度だ。その鮎川が午後七時を回っても帰っていないということは、当直だと考えた方がいい。そう思って、夜間受付に電話してみたのだが、やはり鮎川は外科系当直に当たっていた。愛生会総合病院では外科系と内科系二人の当直医がいる。その他は呼出待機で対応している。遙は、今日は当直にも待機にも当たっていない。とはいっても、専門性の強い心臓外科という科的に、待機外での呼出もある。 「しかし……困ったな」  テレビをつけて、お気に入りの番組を探しているらしい光紀をちらりと見て、遙はため息をついた。鮎川が当直ということは、彼は明日の夜まで帰ってこない。昼間は病院内にある保育園に頼み込んで、光紀を預けるにしても、今夜はどうすればいい。 「光紀くん」  遙はテレビを見ている光紀にそっと声をかけた。 「パパに会いに来たってことは……ママは?」  鮎川の子供という衝撃があまりに強すぎて、遙は今の今まで、光紀に話をろくに聞いていなかった。 「ここまで、どうやって来たの? 普段はどこに住んでいるの?」 「うーんとね」  テレビを消して、光紀はカップを抱えた。 「どれから答えればいい? 僕、口が一つしかないから、一個ずつしか答えられない」  その通りである。遙は光紀の隣に座った。 「えーと……まず、自己紹介しとくね。名前はさっき言ったよね。僕もね、君のパパと同じ病院に勤めている医者なんだ。で、パパは僕の隣に住んでいる。ここは病院の寮みたいなところだから」 「お医者さん……? じゃあ、先生って呼べばいい?」 「なんでもいいけど」  光紀はにっこりした。あの皮肉屋の鮎川の子供とは思えないほど、可愛い笑顔だ。 「じゃあ、遙先生」 「なんで名前呼び?」 「保育園の先生はみんなそうだよ。けいこ先生にじゅんこ先生、みか先生」 「はは……」  この子は保育園児ということか。 「えーとね、僕は鮎川光紀、六歳、みのり保育園つくし組だよ」  光紀はハキハキと言った。 「ここには車で来たよ。ママが送ってくれた。ここにいれば、パパが帰ってくるからって」 「君が来ること、パパは知っているの?」  知っていたら、当直は入れないとは思うが。もし入っていても、代わってもらうだろう。光紀はうーんと首を傾げた。 「わかんない。僕、パパには会ったことないから」 「へ?」  何を言われたかわからなかった。 「パパに……会ったことがない?」 「僕ね、ずっとママと一緒だったの。で、今はママとじいじと一緒。ママはね、今、じいじと旅行に行ったの。世界一周だって」  世界一周? 何を言っている? 子供を置いて? 「大きなお船に乗って、世界一周するんだって。帰ってくるのはね、春になる頃だって」 「ちょっと待って」  遙は立ち上がり、キッチンに行った。冷たい水をコップ一杯飲んで、戻ってくる。少し頭を冷やして、ソファに座り直した。 「ええっと……ママはおじいちゃんと一緒に旅行に行ったと。光紀くんを置いて?」 「うん。僕がもっと大きくなったら、連れてってくれるって。僕も行きたかったなぁ」  光紀はのんびりとミルクを飲んでいる。 「それでね、その旅行に行く時、ママが僕をここに連れてきてくれたの。春までパパと一緒に暮らしなさいって」 「それ……パパは知ってるの?」 「わかんない」 「……そうだよね」  遙はふわっとソファの背に身体を預けた。さらっとした前髪の中に指を入れて、頭を抱える。 〝どうする……? これから、児相とか警察とか……いや、その前に鮎川先生に……〟  しかし、思考はそこで止まる。目の前の小さな子供を見やる。ミルクを無心に飲んでいる子供。白いセーターとデニムのパンツを着せられた光紀は体格もよく、虐待などの被害は受けていないようだ。 〝案外、鮎川先生と話はできてたりして……それで、先生がこの子の来る日付を忘れていたか、勘違いしていた……〟  そこまで考えて、そんなことはないとぶんぶん首を振った。 〝あの人がこんな大事なこと、忘れるなんてあり得ない〟  鮎川という男は、基本完璧主義者だと思うし、その能力が十分にあると思う。だから、腹が立つくらい細かく遙の行動をチェックし、隙あらばつついてくるのだ。 〝……とりあえず〟  何をどうしようが、鮎川は当直医で抜けてくることはできない。それは、同じ医師である遙が一番よく知っている。 「光紀くん」  遙は覚悟を決めた。毒を食らわばなんとやらだ。この子を放り出すことなどできるはずもない。この子の話を信じるなら、今夜は行くところがないのだ。 「今日ね、君のパパは病院に泊まらなきゃならないんだ」 「え?」  光紀はきょとんとして、遙を見つめた。 「じゃあ、僕も病院に泊まるの?」 「それはできないよ。病院に泊まるのは、病気やけがをした人か、お医者さんや看護師さんだからね」 「じゃあ、僕はどこに泊まるの?」 「……ここは嫌?」 「ここって……遙先生のおうち?」 「そう」  遙は頷いた。 「明日になったら、パパのところに連れて行ってあげる。パパもお仕事だけど、君と話はできると思う。パパとお話して、これからどうするか決めればいいよ」 「今日はパパに会えないの?」  時計を見ると、すでに午後八時近い。子供を外に連れ出していい時間ではない。遙はソファから立ち上がると、光紀の傍に跪いた。 「今日はご飯作ってあげるから、ここでご飯食べて、お風呂入って寝ようね。朝になったら、病院に行って、パパに会おうね」  頭を撫でてやると、光紀はこっくり頷いた。

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