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第2話②

「おはようございます」  礼儀正しいご挨拶とともに肩を揺すられて、遙はぼんやりと目を開けた。 「えっと……」  目の前にちょこんと座っているのは、チェックのパジャマを着た子供だった。 〝なんで、子供がいるんだ?〟 「起きて、遙先生。パパのところに連れて行ってくれるんでしょ?」 「パパ?」  寝起きの悪さには自信がある。片目を開けて、壁の時計を見ると午前七時だ。 「まだ七時じゃん……」 「七時には起きて、朝ご飯食べるんだよ。そうしないと保育園に間に合わないよ」 「保育園……」  ぼんやりとつぶやいて、ようやく身体を起こした。頭の中に綿が詰まったようで、考えがまとまらない。子供はぱっと立ち上がると、とことこと部屋を出ていき、すぐにコップを持って戻ってきた。中には、水が入っている。 「お水はね、冷蔵庫から出したよ。冷たいお水飲むと、目が覚めるんだよ」 「君……頭いいね……」  ありがたく水を飲む。 「あ……」  冷たい刺激が頭に届くと、ようやく昨夜のことを思い出した。 〝そっか……鮎川先生の……〟  昨夜、遙はマンションのエントランスで、この子と出会った。妙にこまっしゃくれたところと可愛いところが混在した六歳の男の子。そうだ。名前は光紀だった。鮎川光紀。遙は両手で頭を抱えた。 〝鮎川先生のところに、この子連れて行かなきゃならないんだった……〟  どうも、嫌な予感がしてならない。あの鮎川の子供である。しかも、会ったこともないという……子供だ。 〝トラブルの……予感しかしない〟  しかし、この子を放っておくことはできない。いくらこまっしゃくれていようが、まだ六歳の子供なのだ。 「遙先生、目覚めた?」 「うん……」  いつもなら、まだベッドにしがみついている時間だが、今日はそんなことを言っていられない。遙はもそもそとベッドから出る。 「光紀くん、朝ご飯食べる?」 「朝はご飯食べないといけないんだよ。ママもコーヒーだけでいいとか言うんだけど、僕はおなか空くから、ご飯食べたい」 「……パンでいい? パンと……目玉焼きくらいしかできないけど」  遙は朝食をとらない習慣だ。しかし、子供には朝ご飯を食べさせなければならないことくらいはわかっている。 「着替えは? 一人でできる?」 「うん。でも、顔を洗いたいけど、洗面台が高すぎるんだ」 「あ、そっか」  遙はだるい身体を引きずって、バスルームに行った。とりあえず、風呂用の腰かけを洗面台のところに置いてやる。 「これで届く?」 「うん」 「じゃ、顔洗って、着替えておいで。朝ご飯作ってあげるから」 「うん」  遙は両手で自分の顔を叩いて気合いを入れ、とりあえず着替えることにした。  遙の勤務する愛生会総合病院には、スタッフの子供を預かる保育園と病児保育を行う病児保育園がある。病院の隣に白い平屋の建物があり、そこが保育園だ。 「志穂野先生、お子さんいらしたんですか?」  光紀を連れて行き、今日一日預かってほしいと頼むと、顔見知りの保育士はいぶかしげな表情で言った。 「い、いないですよ。僕、結婚もしてません」 「ですよね」 「あーっ、志穂野先生だーっ」 「先生、おはよーっ」  子供たちが飛び出してくる。あっという間に子供に囲まれて、一緒にいた光紀がきょとんとしている。 「遙先生……?」 「こらこら、先生はこれからお仕事なんだから」 「先生、遊ぼーっ」  子供たちがじゃれついてくる。  遙の実家は寺で、保育園も経営していた。父が園長で、母は保育士。そんなわけで、遙は小さい時から、保育園の子供たちの間で育った。中学生くらいからは夏休みなどに保育園を手伝ってもいた。子供は好きだし、子供の扱いにも慣れている。遙が突然現れた六歳児の面倒を見ることにさほどのためらいがなかったのも、こうした生まれによる。小児科医よりも子供の扱いがうまいと言われ、体よくこの保育園の検診を押しつけられているので、子供たちも遙のことはよく知っている。 「何歳のお子さんですか? 先生のご親戚か何か?」  保育士の質問に、一瞬遙が答えをためらった時、隣に立っていた光紀がハキハキとした口調で言った。 「僕は鮎川光紀、六歳ですっ」 「光紀くん……六歳ね。じゃあ、年長さんね」 「みのり保育園つくし組ですっ」  光紀はニコニコしている。 〝うん、この外面の良さは間違いなく、鮎川先生の血だね〟 「年長さんなら、今欠員ありますから、継続的にご希望でもお預かりできますよ」 「ありがとうございます」  遙は頭を下げた。 〝なんで、僕が?〟 「ええと、鮎川光紀くんね……鮎川……え?」  名簿に名前を書こうとした保育士の手が止まった。 「鮎川って……もしかして、光紀くんって、鮎川先生の……」 「鮎川先生は僕のパパだよっ」  遙が止める間もなく、光紀が大きな声で言ってしまった。保育園全体がざわっとしたのが、遙にはわかった。 「え、ほんと……っ」 「い、いや、まだ鮎川先生に確認をとっていませんので……っ」 「パパだってばっ」  声が三つ重なった。遙は光紀を後ろからぎゅっと抱え込んだ。 「遙先生……っ」 「光紀くん、パパのことはちょっと待って。まだパパと……鮎川先生と話してないからさ……」 「あ、遙先生っていう呼び方可愛いっ」  また声が重なった。遙は軽いめまいを感じる。 〝だめだ、こりゃ……どっかで立て直さないと〟  遙は部屋の隅に光紀を引っ張っていった。両手でそっと肩を掴んで、目線を合わせる。 「光紀くん、とりあえず、パパのことは僕に任せて。光紀くんはパパとまだ会ってないんでしょ? お話はパパとしようよ」 「遙先生、早くパパと会いたい」  光紀が無邪気に言った。遙は光紀の頭を軽く撫でる。 「わかったよ。パパとお話して、ここに連れてくるから、それまでいい子で待ってて」 〝パパって言っちゃったよ〟  つい光紀につられて言ってしまって、遙はそっと肩をすくめる。 〝あの人の前で言ったら、殺されるかも……〟  どうも、何か事情がありそうで、あまり深く関わりたくない。しかし、光紀を保護したことで、がっつり関わってしまった。あとは。 〝とっとと光紀くんを渡してしまって、これ以上関わらないようにしよう〟 「あとで迎えに来ますので、光紀くんをよろしくお願いします」  興味津々の保育士たちの視線をかいくぐって、遙は光紀を預けると、這々の体で保育園を逃げ出したのだった。  愛生会総合病院の医局は、東病棟の最上階にある。大雑把に外科系と内科系の部屋が分けられ、それぞれに広いロッカールームがついている。医局もやたら広く、ずらりと机が並び、誰がどこにいるかもわからないほどだ。ロッカーで白衣に着替え、医局を見回して、鮎川がいないことを確認した遙は、とりあえず病棟に降りた。東病棟は外科系病棟で、三階と四階が整形外科になっている。 「おはようございます」  四階に下りて、ナースステーションに顔を出すと、遙はドクターズテーブルを見た。 〝いない……〟  当直医は早朝カンファを免除されるから、医局にいないなら、病棟か救急外来だ。 〝やっぱ、外来かなぁ〟 「おはようございます、志穂野先生」  深夜勤のナースが眠そうな目を向けてきた。 「どうされました?」 「あ、うん……鮎川先生いないかなって」 「鮎川先生? いいえ。今朝はまだお見えになっていません」 「そう……ありがとう」  遙はナースステーションを出て、三階に下りた。ここも整形外科の病棟だ。心臓外科医である遙には、あまりなじみのない病棟である。 「おはようございます……」  ナースステーションに顔を出してみるが、ナースたちは出払っているらしく、誰もいなかった。朝食介助の最中なので、忙しいのだろう。 「やっぱ、外来かなぁ……」  外来だと忙しいかもしれない。プライベートな話をしてもいいものか。 「何か……面倒なことになりそう……」 「何が」  背後から腰に来る低音が聞こえた。すうっとひんやりした手が遙の華奢な肩を掴む。 「ひ……っ」 「不気味な声を出すな」 〝来た来た来た……〟  遙はそうっと振り向いた。 「……おはようございます」 「おはよう」  背後に立っていたのは、寝不足で不機嫌丸出しのハンサム顔だった。少し充血した目が遙を見下ろしている。 「俺を探してたって? 珍しいこともあるもんだ」  鮎川が少しかすれた声で言った。昨夜の当直は忙しかったのだろう。朝はいつも腹が立つくらい爽やかな顔をしている鮎川が、今日は不機嫌である。 「……どこからの情報ですか」  遙はじりじりと壁に追い詰められながら尋ねた。どうもこの男に対しては苦手意識がある。鮎川はふっと片頬で笑った。 「情報はどこからでも。スパイは多く放っている」 「……東四階のナースですね」  病棟隅の壁に追い詰められて、遙はちらりと視線を上げた。この不機嫌な男に光紀のことを話して、果たして自分は無事でいられるのだろうか。 〝いや、案外あっさり「忘れてた」とか……〟  楽観的に考えてみて、がっくりと力が抜ける。 〝そんなわけないよな……〟  この完璧主義者が、光紀の言葉を借りるなら、会ったことのない息子に初めて会う日を忘れるはずがない。ということは、光紀の存在自体がイレギュラーでトラブル混じりということだ。 「志穂野先生、俺は大変に眠い。君の上目遣いはとても可愛いと思うが、それにつきあっている余裕は残念ながらない」 「う、上目遣いなんてしてません……っ」  遙は慌てて言った。 「どうして、僕が鮎川先生に上目遣いしなきゃならないんですか……っ」 「なんでもいいから、用件は手短に。俺はまだ外来を診なきゃならないんだ」 「あ、はい」  そこで素直に頷いてしまうのが、遙である。遙は周囲を見回した。ナースたちは朝食介助や投薬、申し送りの準備に忙しいようだ。できたら、どこか誰もいないところに鮎川を連れ出したいところだったが、朝の忙しい時間にそれは言っていられない。今だって、いつ当直医である鮎川に呼出がかかるかわからないのだ。通常の外来が始まるまでは、当直医の受け持ちなのである。遙はこちらを誰も見ていないことを確認して、そっと小さな声で言った。 「鮎川先生……先生って、ご結婚なさってますか?」 「……君」  鮎川の目つきが凶悪になった。遙はひっと喉の奥で悲鳴を上げる。絶対に、遙以外は見たことのない顔だ。こんな凶悪な顔つきの医者にかかりたい患者なんていない。もともと薄い瞳の色が金色に近いような感じに見え、見事なまでの三白眼になっている。 「それが、昨夜ろくに寝ていない俺をつかまえて言う言葉か?」 「い、意味もなく聞いてません」 「その上、口答えまでするか」  喉元に手が伸びてきて、マジに震えた。殺されるかと思ったが、その手は折れていた白衣の襟を直してくれただけだった。 「俺に嫁でも紹介してくれるのか?」 「……てことは独身……なんですね?」  遙は恐る恐る言った。状況はどうやら悪い方に転がっているようだ。 〝……光紀くん、君……何者?〟  そう叫びたいのはやまやまだが、とにかく、彼の存在は伝えなければならない。鮎川光紀の名前で保育園に通っている以上、光紀の姓は間違いなく鮎川だ。そして、光紀の母は鮎川の住んでいる場所を知っていた。あのマンションは普通の賃貸で、病院の寮ではない。あそこに愛生会総合病院の医者が住んでいることを知っているものは、あまりいないだろう。 「志穂野」  先生呼びが外れた。相当な不機嫌の証拠だ。しかし、もう後には引けない。 「君、何が言いたい」 「先生の……子供さんを預かっています」  遙は早口に言った。とっとと言ってしまわないと本当に殺されかねない。それくらい鮎川の目つきは怖かった。 「昨夜、マンションに来ました。名前は鮎川光紀くん。六歳だそうです」 「……」  鮎川はしばらく無言で、遙を見ていた。すらりとした長身から見下ろす視線は氷のように冷たい。 「……なんの冗談だ」 「こんなこと、冗談で言えると思いますか?」  遙は必死に言った。声が高くなりそうになるのを、なんとか意思の力で抑え込む。 「僕が先生に冗談言うはずがないでしょう……っ」  鮎川は冷たい視線でしばらく遙を眺めていた。しかし、遙がいつもならとっくに下げている目線を必死に合わせてくることが意外だったらしい。 「……何があったのか話せ」 「それよりも会ってもらった方が早いです。外来も……じきに始まっちゃうし」  遙はそっと手を伸ばすと、鮎川のスクラブを軽く掴んだ。 「……来てください」 「こらっ、引っ張るなっ」  聞いたこともないような焦った鮎川の声。しかし、そんなことには構っていられない。たった六歳の子を不安なまま置いておくわけにはいかない。遙の子供好きの心が鮎川に対する恐怖心に打ち勝った瞬間だった。 「こら、志穂野っ!」

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