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1章 炎の記憶 6

 ヴァルディースは焦燥に駆られるまま心臓の鼓動が弱まるレイスの首に手をかけた。  脳裏には、殺せと叫ぶ目の前の少年の悲鳴が鳴り響いていた。感情の侵食は激しさを増し、死にたいと願う少年レイスの願いを叶えさせようと、ヴァルディースを突き動かす。  母を殺した罪悪感。兄を殺した絶望感。幾千もの人間を手にかけた無力感。喪失感。押し寄せる激しい感情は、ヴァルディースにして抗いがたい負の感情だ。  止まることなく流れ込む17年分の記憶。怒り、悲しみ、憎み、諦め、死を願う。目の前に展開される苦痛は、容赦無くヴァルディースの心を抉る。  食らって取り込んでしまえば害はない。未だ人間の肉体を残す体に牙を立て、その肉を余すことなく喰らい尽くせばいい。  だがヴァルディースは人間を餌に生きる低脳な妖魔ではない。魔獣とも言われるが焔を糧にする精霊の長であり、その矜持がヴァルディースにレイスを取り込むことを拒否させた。  レイスの死の欲求と、ヴァルディースの矜持がせめぎ合う。  ヴァルディースは焔をまとい、自身の姿を本来のものへと変えた。燃え盛る焔の毛並みを持つ巨大な狼。炎狼と言われる所以である。  前脚を目を閉ざすレイスの体に押し付け、ヴァルディースは唸った。目の前の少年と同じ顔をしたもう一人の少年が、押し倒され恐怖に震えながらもヴァルディースを見つめていた。  理解不能の焦燥と恐怖があった。少年の顔はよく似た一人の女の笑顔に重なる。同時にそれは全く違う女の姿をヴァルディースに呼び起こさせた。  長い黒髪を風にたなびかせて、女はヴァルディースに笑いかけた。はっとした。  弾かれたようにヴァルディースはレイスの身体から飛び退いた。纏った炎は霧散し、ヴァルディースはそれまでと同じ人の姿を取り戻していた。  ヴァルディースは困惑していた。呼吸がいつもの倍以上に忙しない。冷や汗で全身がぐっしょりと濡れていた。精霊が人間と同じような生理現象に悩まされることなど通常ならありえない。それはヴァルディースが長い生の中で初めて体感する感覚だった。人間の、レイスの感覚だ。  ヴァルディースは舌打ちした。なぜ、自分がたかが人間ごときに感覚を引きずられなければいけないのか。  今だ懇々と眠る少年を睨みつける。だが、睨みつけるだけでヴァルディースにはそれ以上何か行動を起こすことができなかった。悔しいと思うほどにぎりりと歯をくいしばるも、食指が動かない。  このくそったれの人間崩れを食らってしまえば先ほどのような感覚に悩まされることなどなくなるだろうにも関わらずだ。 「なんだ。食わねぇのか?」  ずっとヴァルディースの様子に視線を向けていたのだろうザフォルが、嘲笑うように煙草の煙を吐き出す。 「煩い。そんな気分じゃないだけだ」  思わず背を向けていたヴァルディースの背後で、ザフォルがもう一度笑った気配がした。 「食わねぇんなら、そいつはあんたの眷属ってことになるな。人間にしてみれば7年も同化してりゃ充分だ。そいつはもう人としては生きられない。そのうち完全に精霊化する。いや、あんたの庇護がなけりゃただの化け物になるかもしれないな」  満足に生命源である魔力を自力で取り込むこともできず、しかし死ぬこともできず、後悔と絶望に苛まれ、ザフォルの言う通りただの怨念と化すかもしれない。 「お前さん、こいつをどうしたい?」  問いかけられても、ヴァルディースにしてみれば知ったことかとしか言いようがない。ただ、それを言葉にすることはなぜかできなかった。 「まあいいさ。俺様もそろそろここにいるのは時間の限界だし。続きはゆっくり俺んち行ってから考えようや。どうせあんたも今更行くとこもないだろ?」  ここにいればガルグの追っ手がくるだろうことは明白だ。カーテンでも開ける気安さで、ザフォルは空間をつなぎ、別の空間へと移動する通路を作る。歪んだ空間の向こうには、夜の闇の中にはあるまじき、燦々と降り注ぐ太陽の光が満ちていた。  今のところ、ヴァルディースに選択肢はなかった。この死にかけのクソガキを食うことができない以上、これを放っておくことはできない。放っておけば、どこへ逃げようとガルグがレイスとつながったヴァルディースを容易に捕捉するだろう。それはヴァルディースにとって最悪の結末を招くに違いない。  ザフォルはヴァルディースにとって理解できない行動をとっている。もとから信用など全くできる人物でもない。しかしザフォルがやらかした行為はあからさまなガルグへの反逆行為で、ガルグから逃れるという一点においては、ザフォルと行動を共にすることが最善と思えた。  ヴァルディースは渋々ザフォルの作った扉をくぐった。それを見てザフォルが、魔力の燐光を纏い、肉体を再生し始めたレイスを扉の向こうへと転送する。  一歩足を踏み出せば闇の気配は消えてなくなり、眩しい日光がヴァルディースを包んだ。もはや扉の痕跡などどこにもなく、ヴァルディースすら現在地がどこであるのか、把握できなかった。  隔絶された擬似空間ということだけはわかった。目の前には大きな屋敷と、白い砂浜。そしてどこまで続くのかわからない海が広がっている。 「ようこそ。俺様の家へ」  どうせなら家の中に直接転移すればいいものをと思いながら、ヴァルディースはザフォルが扉を開けて招き入れる屋敷の中へと、足を踏み入れた。

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