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1章 炎の記憶 7
外から見たそれは、ヴァルディースもよく知る人間世界にはありふれた洋館だったはずだ。しかしひとたび中に入って、ヴァルディースは混乱した。中は無機質な銀白色の壁が続く空間だった。
突然異世界に足を踏み入れたような光景に、感覚がついていかない。その間にザフォルは構わず真っ直ぐ奥へと進んでいき、一際頑丈そうな扉を前にして立ち止まる。
早く来いとでも言うようにニヤニヤと扉の前でこちらを振り返る姿に、無性に腹立たしくなった。
もう一度見回す。銀白の無機質さに、ヴァルディースは見覚えがあった。ヴァルディース自身の記憶ではない。ヴァルディースはこんな場所を知らない。足を踏み出そうとしてなぜか震える。ぐっとこらえて一歩踏み出す中で、ノイズ混じりの記憶が一瞬鮮明にヴァルディースの前に広がった。
金色の髪の少年が、台の上に押さえつけられ、切り刻まれる光景だ。
「ガルグの施設、か」
胃の奥にまた不快なものがこみ上げる。ヴァルディースにも次第にこのノイズがなんなのか理解できてきていた。ヴァルディースが宿主の中で意識を失っていた間、宿主の少年が体験した記憶だ。
この唐突な変化はガルグの隠れ蓑などによくある偽装だ。漆喰やレンガの外壁で覆って周囲の風景に紛れさせておきながら、中に入ると現代世界の文明では到底ありえないものがわんさか詰まっている。
ヴァルディースの宿主であるレイスは、おそらくここかこの空間に近いところに来たことがあるのだろう。そしてそこで悲惨な実験が繰り返された。レイスにとっては近づきたくもない場所で、ヴァルディースに拒否反応が出ているのおそらくそのせいだ。
人間の記憶や感覚に引きずられるなんて、ヴァルディースにとっては屈辱でしかない。さっきもそうだ。ヴァルディースはヴァルディースの意思でレイスを食えばよかった。だが、レイスの死にたいという欲求に引きずられた。人間ごときの意思で操られるなどまっぴらごめんだ。だから食わなかった。昔の記憶に絆されたわけでも、別の要因が邪魔をしたからでもない。
ヴァルディースは頭を振ってレイスの記憶を振り払い、ザフォルを追った。ザフォルが開こうとする扉の向こうから、先ほどから鳴り止まない記憶の雑音の原因、転送したレイスの気配が伝わってきている。同時にヴァルディースは気付いた。レイスとは別の気配がもう一つそこに存在していた。分厚い壁に遮られ、魔力を遮断する加工も施してあるのか、意識が直結しているレイスに比べ、気配をはっきり読むことはできない。
「なんだ?」
「あれ? 気付いちゃった? ここの魔力遮断壁は相当性能いいはずなんだけどなぁ。驚かそうと思ったのに。さすがに縁者同士の絆は断ち切れないか。残念だなぁ」
意味のわからないことを言いながら、ザフォルが扉を開ける。縁者という言葉が気になった。ヴァルディースの縁者というのはそんなに多くはない。高位精霊の中には眷属と呼ぶ下位精霊を従える者もいるが、長年生きてきてヴァルディースにはそんなものを作ったことはない。強いて言うならその昔契約した人間がいたくらいだ。そもそも感じ取れる気配はどちらかというとヴァルディースの炎とは相反するものだと言えた。
扉が開いた。目の前にはわけのわからない配管が張り巡らされていた。その奥に巨大な水槽が設置され、手前の寝台のようなものにレイスは横たえられていた。
だがヴァルディースはそんなことよりも水槽の中にまどろむ一匹の姿に、呆然とした。ヴァルディースに気づいたのか、それは何かを抱きかかえながらも目を開け、ヴァルディースを見るとにこりと笑った。
銀の鱗に覆われた魚のような下半身に白い肌の上半身。水中に漂う透き通った青い髪は、人間のものであるわけもない。ヴァルディースの見間違いでなければそれはヴァルディースと同じ精霊だ。
しかしそれよりもヴァルディースが意識を奪われたのは、その精霊が腕に抱く小さな魔力に近い塊だった。
「ユイ……?」
口にした途端何かがヴァルディースを押しのけたような錯覚に囚われた。駆け抜ける津波のような焦燥。精霊が抱く塊から目を離すことができず、凍りつく。羊水に揺蕩う胎児のような小さな力の塊。魂と呼ばれるその向こうに、ヴァルディースは金色の髪と緑の瞳の少年を透かし見た。
血の気が下がった。ヴァルディースは恐れた。そんなはずはないと否定した。同時にそうであって欲しいとも思った。
涙がとめどなく流れ落ち、ヴァルディースは力なく膝をついていた。
目の前に駆け巡る、拒絶と恐怖を表した引きつった顔。どうしてと泣きながら何度も繰り返した彼の姿。耳元で鳴り止まない、人間をあざ笑うガルグの長の声。
何度もヴァルディースは、やめろと、やめてくれと訴えたのに、その言葉は声として発されることはなかった。ガルグの長の笑い声に共鳴するように、唸り声が喉の奥から絞り出され、それがヴァルディースの炎にうねりを与え、目の前の少年に襲いかかる。
ヴァルディースが吠え、少年の絶叫が重なる。人間一人を焼き尽くすことなど、一瞬でしかなかった。
跡形もなく消え去った肉体から、魂が飛び去るのをヴァルディースは見た。精霊が寄り集まりそれを抱き、魔力の源へ帰し、次の生命の誕生の糧としようとするのをはっきりと見た。人間の終焉。ヴァルディースが何千万と見た、死と呼ばれる光景だ。
そうやってその魂は、目の前の水槽で聖霊に抱かれる魂の持ち主であるユイスは、死を迎えたはずだった。
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