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1章 炎の記憶 9
「で、どういうことか説明してくれるんだろうな?」
「その前にこの惨状の謝罪なんじゃないですか? これだから狂暴な犬畜生は」
「誰が犬畜生だ魚野郎」
「魚野郎っ!? そこはちゃんと人魚とおっしゃってくださいな」
水槽のガラス越しににらみ合う。真っ青な瞳を収めたまなじりが、いつもとは逆にきりりとつり上がった。
根本的に火と水は相性が悪い。昔から、顔をあわせるたびにこいつとはろくなことにならないことはわかっている。なのになぜ顔を合わせてしまったのだ。この水の精霊フェイシスと。
ぽんぽんぽんぽんこちらに文句と侮蔑を並べ立ててくるフェイシスに嫌気がさして顔を背ける。するとそこへもう一度ぶほっと吹き出すような笑い声が聞こえた。
「いやぁ、悪い悪い。噂には聞いてたが精霊の長同士がこんだけ仲良しだとは思わなくってな」
「「誰が仲良しだ」ですか」
声が揃ってまたヴァルディースは気まずさに顔をそむけ、フェイシスは辟易したように頭を振った。
ザフォルはその様に思わずといった風に一層腹を抱えて笑っていた。
「貴様ら一体どういう関係だ。そもそも、フェイシス。お前がご大層に抱きかかえてるのは、こいつの双子の兄貴だろう」
寝台の上で眠るレイスを指し示す。未だに目をさます気配はないが、いつの間にか傷が、纏った魔力の燐光によってじわじわと修復されていた。
目にするたびに腹立たしさがこみ上げる。こんこんと眠り続ける様子ではさっき自分を乗っ取ったことなどまるで気づいてもいないのだろう。そもそも感情が流れ込んできてはいるが、同化は解消し、接続は切れているはずだ。なぜ乗っ取ることまでできたのかがわからない。
「私がザフォルにお願いしたんですよ。ユイスがあんまり可愛いものですから、死なせてしまうのはもったいないなぁって」
フェイシスが無邪気に笑う声にはっと意識を引き戻された。
「ユイスは私がずっと見てきたなぁんて知りもしないでしょうけど。私はこの子をずぅっと見てきたんです。それなのに自分の肉親に殺されるなんてあんまりじゃありませんか」
フェイシスはユイスがレイスと別れたあと、どういう境遇をたどってきたのかを語った。その頃フェイシスがたまたま一時の寝ぐらにしていた湖のそばの屋敷で、毎日ユイスは泣きはらしていたのだという。姿は見せずともそれからずっと傍らで見守ってきた。水のある場所ならフェイシスはどこにでも存在できる。時にはユイスの涙に潜んでいたこともあったという。
「じゃあ、俺とこいつを分離させたのもお前の差し金か?」
「いいえー。まさか。なんで私がこの子を殺した相手と貴方なんか助けなきゃいけないんです? 私はザフォルにこの子の魂を精霊化させるまでの間に必要な入れ物を見つけて欲しいとは言いましたけど。まあでも、精霊の長がガルグの小間使いなんて、恥さらしもいいところですから、分離してもらえてよかったんじゃないですか? ユイスの容れ物にしても双子の片割れだったらこれ以上ないですしね」
ヴァルディースはフェイシスの挑発に歯ぎしりした。間抜けにもガルグに捕まった事実は変えられないので、何も反論できない。
ザフォルを見ても、相変わらずにやにやと底の見えない笑みを浮かべている。
「お前が俺を助けたのは、そいつの身体をフェイシスの言う入れ物にするつもりだったからか」
「まあ、そうとも取れるねぇ。けど、俺様があんたらを見つけたのは本当にたまたまだぜ? 俺には俺の目的があるんでね」
偶然と言い切ってしまうには状況がうまいこといきすぎている。長年付き合いがあるフェイシスの魂胆は、本人が語った通りだとは思うものの、ザフォルの方は、上辺で何を言っていようが、本心はヴァルディースには全く測りきれない。今も呑気に煙草を燻らせているように見せながら、全く隙というものがない。
だが、フェイシスがレイスの身体を欲しているなら話は早い。だったらくれてやる。ザフォルもザフォルだ。こういう結末が用意されているなら、勿体ぶらずにさっさと言えばいい。
ヴァルディースは大きく息を吐いた。
「こんな面倒くさい野郎の身体が必要だって言うんなら勝手にしろ。俺には用事がない話だ」
言い放って踵を返す。フェイシスが文字通り水を得た魚のように跳ね上がり、小さな妖精のような姿になって水槽から飛び出した。
「いいのかい、それで」
ザフォルがタバコの煙を吐き出しながら、ヴァルディースの背に言葉を投げかけた。
「何がだ」
小さい体でレイスの身体を持ち上げようと奮闘していたフェイシスからも、怪訝な視線がザフォルに向けられる。
「放っぽり出して、それでいいのかい? このままレイスの身体をユイスの入れ物にしちまえば、レイスの魂は行き場を失う。正式な死でもないから、どこへ行ってどうなるかもわからん。蘇ったユイスの方も、なんで自分が生きて弟のレイスが死んでるのか知ったら、大いに悲しむだろうなぁ」
「確かにそれは一理ありますねぇ。ユイスもずっとレイスに会いたがっていましたから」
ザフォルの言葉に同調して頭を捻るフェイシスに苛立った。
「だったら、そいつもフェイシスが眷属にしてやればいいだろう。どうせ半分すでに人間でもないんだ。問題ない筈だ」
「イヤですよ! なんで私がこんな野蛮な子の面倒まで見ないといけないんですか? それにそもそも、もうこの子の属性は貴方の炎に染まってしまってますから、今更水の精霊である私の眷属になんてできるわけもないでしょう。貴方が面倒みてくださいな」
苛立ちそのままに放った言葉が自然と刺々しくなる。放たれたフェイシスはあからさまにムッとした様子でヴァルディースに噛み付いてきた。
ザフォルとレイスを挟んでにらみ合う。
「そんなにイヤかい? 昔体験した記憶と似たようなものを負わされるのは」
ザフォルが呆れるように肩をすくめて笑った。ヴァルディースは咄嗟に衝動に駆られてザフォルの襟を掴み上げ、壁に叩きつけていた。
怒りがふつふつと湧き上がってきた。
「何を知ってるんだ貴様は。フェイシスから何を聞いたか知らんが、勝手な想像で俺に命令するな」
苛々する。ノイズのようなレイスの記憶の奥から、別の記憶が浮き上がってくる。黒髪の少女が笑う。
そんなものは出てくるな。ザフォルの首を締め上げる手に力がこもる。
記憶が重なる。女の笑顔。少年の恐怖。その中に重なって蘇る、悲しみの少女。これはヴァルディース自身の記憶だ。
煩くてたまらない。
激しく拳を叩きつけた壁が亀裂を伴って大きく歪んだ。
ザフォルは目の前にはいなかった。
「どのみちフェイシスの言う通りだ。レイスに道は二つしかない。あんたが食ってやらんというなら、化け物に成り果てるか、あんたの眷属にするか、だ」
突きつけられた選択肢に、ヴァルディースはもう一度強く壁に拳を叩きつけた。
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