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エピローグ

 レイスと並んで森の手前にある小さな石碑の前に立っていた。後ろにはユイスやメイスが見守っている。レイスはなかなかその前に立つことができなかった。白い石には何もない。が、レイスにはわかる。そこが母ファイナの死んだ場所なのだ。  表情を変えることなくただ石を見つめるレイスの肩をヴァルディースは抱き寄せた。 「無理はするな」  声をかけたが、それをむしろ振りほどくようにレイスは前に進んだ。震える足で跪き、恐る恐る石に手を伸ばす。  ヴァルディースにはそれを見守ることしかできない。風が吹き抜ける。ヴァルディースの中にレイスの悲痛な感情が流れこんでくる。 「母、さん……」  か細い声で、レイスが母を呼んだ。白い石をまるで抱き込むようにして頽れる。  ユイスとメイスがたまらず駆け寄ろうとした。それをヴァルディースは制止した。代わりに自分がレイスの傍らに腰を下ろす。  レイスとの間に余計な会話はいらない。石にしがみつくレイスの手を包み込み、強張った指を解していく。  ようやく顔を上げたレイスが、泣き出しそうな顔でヴァルディースを見上げた。ぽんと、頭を撫でてやる。石から離れ、胸にしがみついてきたレイスを、ヴァルディースは抱きとめ、包み込んだ。  メルディエルの一件からすでに一年余りが過ぎていた。  この一年は、レイスにヴァルディースの魔力を馴染ませることに集中してきた。  最初こそただヴァルディースに身預けるだけで、メイスはおろかユイスとも関わろうとしなかったものの、少しずつではあるが、家族と再び打ち解け始めている。  家の方からは、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。レイスがその声に反応して顔を上げた。赤ん坊というのは不思議なもので、凍りついたレイスの感情をいともたやすくほぐしてしまった。最初は恐る恐る触れるだけだったのが、今では慣れない手つきながらもあやしている。あの事件の直後に妊娠が発覚した、グライルと姉エミリアの子供だ。  母の前から離れ難そうにするレイスの背を、家に向けて押しやる。  母の死に際については、メイスから散々聞かされた。それでも未だ罪悪感に苛まれて夜中に飛び起きるレイスを、このまま動かさずにいたら、また過去に引きずられてしまうのは目に見えていた。  レイスと入れ替わりにメイスがこちらへ近づいてくるのが見えた。 「母さんを一人にしておくわけにはいかないから、おれたちは残るよ」  メイスがそう告げた。風の大陸とも呼ばれるフォルマンの大地は、草原を駆け抜ける精霊がとても多い。ファラムーアのせいでいっときは亀裂が入っていた精霊たちとの関係も、これから修復していかなければいけない。 「いつでも頼ってこい。レイスもいるしな」 「……おまえ、おれの複雑な親心を簡単に抉ってくるよな」  そのメイスの台詞にヴァルディースは首を傾げた。今まで精霊長の中で一番若かったヴァルディースとしては、メイスはファラムーアの後継というのもあって弟のような感覚になってしまう。それが何かまずかっただろうか。  二人で向き合っていると、傍らでユイスが笑い出し、バツの悪そうにメイスが顔を背けた。 「父さんはレイをヴァルディースさんにとられて寂しいんだよ。娘を嫁に出した父親の気分みたいなものらしいから」 「レイスは息子だろう?」  さらに首をひねると、今度はユイスが苦笑いをする。ヴァルディースにはやはり、まだレイス以外の人間の感覚というのがよくわからない。 「ところでヴァルディースさんたちはこれからどうするんですか?」 「とりあえず俺の棲家にレイスを連れて行かないとだな。他の炎精たちがうるさくてかなわん。そのあとはどうするか」  ユイスはもう一度メルディエルに戻るだろう。フェイシスの棲家があの辺りだ。  炎精霊の棲家に行った後の居場所は、レイスに選ばせてみようと思うが、ユイスがいるならメルディエルに行くこともあるかもしれない。それにメルディエルにはもう一人いる。 「それにしてもまだ信じられないよおれは。あのアルス、いや、今はサーレスだっけ。あいつがザフォルの息子だなんて」  何も説明しなかったザフォルに代わって、メルディエルの女王が事の次第を語った。ザフォルはアルスの転生体となってしまった自分の息子を、解放したかったのだという。  だからといって、ザフォルのやった事をヴァルディースは許す気にはなれない。不始末を自分で尻拭いするかのようにステイやスィッタと共に消えたザフォルにも腹が立って仕方ない。 「でもザフォルの気持ちもわかんなくはないんだよな」 「同じ父親ってヤツだからか?」  メイスが頷く。これは、純粋な精霊であるヴァルディースには一生わからない感覚かもしれない。 「どのみちヤツも今はメルディエルの監視下だ」  ここにフェイシスがいない理由もそれが原因だ。アルスは今サーレスと名を変え、メルディエルの監視の中で過ごしている。光の聖剣があるとはいえ、セリエンがいないメルディエルで何か起きた時に人間だけでは対処できるとは思えない。 「おまえがメルディエルに行ってくれればフェイシスも心強いだろうよ。レイも、なんだかんだでサーレスとは仲がいいみたいだし」 「仲がいいと言っていいのか?」  それについてはヴァルディースも少しわからなかった。どちらかというと、一方的にレイスがサーレスに懐かれている。レイス自身も特別サーレスについては悪い感情はないのだが、少しばかり辟易している節はある。 「ザフォルといえばもう一つわからないことがある。あいつがなぜ光の聖剣を扱えたのか、だ」  ヴァルディースは話を戻した。  光の聖剣を扱えるのは限られる。人間でもセリエンの加護を受ければ扱えないことはないようだが、ザフォルはガルグ。光とは対極の闇に属する存在のはずだ。 「ユーアやフェイシスもわからなかったからなぁ。セリエンが何かしたとしか思えないけど」  考えてもこればかりはわからない。ただ、ザフォルでもセリエンの加護があれば光の聖剣を扱えるなら、人間には扱いきることは無理でも、自分たちであれば扱うことができるのではないだろうか。  セリエンのいない現状では言ってもしょうがないことではあるのだが。  家の方からは、今度は赤ん坊の笑い声が聞こえてきた。いつのまにかレイスが、ゆりかごの赤ん坊を、あやしている。いや、どちらかというと髪を掴まれて遊ばれているだけかもしれないが、楽しそうな赤子の声は、未だ表情は乏しいレイスの心を、映してもいるようだ。 「子供ってのはいいもんだな」  しみじみと呟いたメイスに、ふとヴァルディースはあることを思いついた。  落ち着いたらその思いつきを実行してみるのもいいかもしれない。無意識に笑みがこぼれていたのをメイスが見つけて首を傾げる中、その計画を一人胸に秘めて、ヴァルディースはレイスのもとに足を向けた。  日が暮れて眠るには早い頃、最近レイスはよく一人で盃を傾けている。手にしているのは強い酒であることが多いが、酔えるわけではないらしい。精霊になったからというだけではなく、これは人間だった頃から同じだ。きっと気持ちの問題なのだろう。  ヴァルディースはさして減らない盃をレイスから取り上げ、飲み干した。ほんのり乳の香りがする、この土地で作られた酒だ。 「悪くない」  ヴァルディースの味覚は、本来ならない。あらゆる感覚は、レイスと共有し始めてから、レイスを通して知った。  この酒は比較的ヴァルディースも好きな味だ。 「ずっと昔、兄貴が飲んでるのをこっそりくすねて酔っ払って、子供が飲むものじゃないって、酷く怒られた」 「懐かしいか?」 「懐かしいけど、あの頃は美味いと思えなかったのに、今は、全然違う」  レイスが言いたいことは、酒の話に限ったわけではないということは、ヴァルディースにはわかっている。この土地も空気も、そこに住む人間も、全てレイスにとって懐かしくも、昔とは違う存在なのだろう。 「やっぱり、ここはもうオレがいるべき場所じゃない」  ここに来る前、ヴァルディースは、フォルマンの草原に残りたければそれもいいと、レイスに伝えていた。ここに来るまでは本人も悩んでいたのだ。けれど、結局レイスは残ることを選ぶことはできなかった。  予想はできていた。レイスにとってここはすでに過去の世界であり、罪を思い知らされる場所でしかない。今更生活していくことは難しいだろう。 「レイ」  ヴァルディースはレイスを抱き寄せた。一瞬レイスは身を強張らせたが、膝の上に乗せて抱きしめると顔を赤くして恥じらうように目を伏せる。  そんなレイスに深く口づけ、意識を奪う。 「安心しろ。おまえの居場所はここだ」  喘ぐレイスの吐息の合間に囁いた。 「おま、っ、ずる、いっ」  顔を覆って腕の中から逃れようとするレイスを引き戻し、もう一度口づけヴァルディースはわざと笑ってみせた。 「だから、何がずるいんだ?」  レイスが言葉に詰まって、歯噛みする。その様がとても愛おしい。  指を絡め、肌を重ね合わせ、ヴァルディースで満たす。レイスに漠然とした不安など抱く必要がないのだと身をもってわからせてやる。  レイスもそれに応える。もう闇はどこにも存在しない。

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