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「おはようございます」
「ああ」
返された言葉は挨拶にほど遠いものだ。丁寧な挨拶をぞんざいに受け取った長身の男はゆったりとした動作で優雅に足を進める。
まもなく50歳になろうとしていることを示すのは前髪に僅かに存在する白髪 のみ。顔と身体には緩みはなく、丁寧にメンテナンスされていることが窺える。
ダークグレーのスーツに合わせているのは、ロンドンストライプをのせたセミワイドカラーのクレリックシャツ。細めのストライプが知的で華やかな男の雰囲気を後押ししていた。ネクタイはしめていない。
外出時と来客があるときだけ、デスクの引き出しに入れてある何本かのネクタイから一本を選び身に着ける。何事にも縛られたくないという無意識の現れだろう。縛られるより縛り付けるほうが男の好みだ。
いつものように適当な返事で挨拶をやり過ごされた秘書は、その背中が男の部屋に消えるまで頭を下げ続ける。毎日繰り返される儀式は今日のスタートを告げる号令のようなものだ。
男の秘書は30歳を迎えたばかり。彼は3年の間ですっかり変貌を遂げた。自分に起こったこと、そして継続している男との関係性を何と呼んでいいのかわからない。聞いてみたい気持ちはあるが確かめることができないままだ。それを問うことは許されていない。
惹きつけられる力に困惑し抵抗を続けたが無駄なことだった。経験を多く積んだ男の手練に対抗する術を持ち合わせておらず、少しずつ足場を削られていくような毎日。その過程を男は楽しみ、秘書は堕ちることを拒否し踏みとどまろうと足掻いた。しかし足元からすべて消え失せた時、彼はようやく理解した。止めることはできなかったことを。最初からすべて男の意のままに導かれていたことを。
今日はいったい……そこまで考えて秘書は思考を止める。自分から何かを望んではいけないからだ。許可された事以外実行してはならないという命令は体に染み込んでしまった。動きや考えることを止めることは苦ではなく、むしろ悦びといっていい。
命じられた仕事をこなし、電話を受け、雇い主であり事務所の主 である男が快適に過ごせるよう細部を整える。秘書にとって仕事は男への忠誠の証。そして溢れんばかりの想いの現れ。だから手は抜けないし、抜くつもりはない。
ぞんざいな挨拶と同様、感謝の気持ちが言葉になることがなくても秘書には十分だった。男の繊細な指と冷たい手のひらを思い浮かべるだけで体の芯に火が灯る。男の動きは言葉以上に饒舌で、あっという間に心と身体を蕩けさせる。
秘書は配達される郵便物を待っていた。宅配業者、郵便局から届く封書の数々。不要なDMは破棄し、必要なものだけ男に届ける。
そして……その時……。
秘書は熱いため息をひとつ吐きながら男のデスクの前に立つ自分を想像し目を閉じた。
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