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第1話

その日。彼は仕事でごたごたがあって、いつもよりかなり遅く店に着いた。体も心も疲れているのにその店に来てしまうのは、自分のすべてをさらけ出しても許される気がするから。唯一、本当の自分でいられるような気がするから。  雑居ビルの地下。目の前にはおしゃれとは言い難いスチール製の扉。立て付けが悪いのか、扉が重いのか、男性の力でも中々に開けにくい扉を開くと、センスの是非が問われるようなカラフルなライトが足元を照らす。狭い通路。そこを数歩行けば一気に広いフロアに出る。だが、全体の明るさはさして変わる事は無く、所々に取り付けられたダクトレールから落ちた光が、テーブルに座る様々な人間模様を映し出す。  軽く会釈する男たちが通り過ぎ、あたりをきょろりと見回したところで、連れもパートナーもいない彼は奥にあるバーカウンターに腰を落とした。 「おかえりなさい。いつもので良いのかしら?」 「はい」  言い方は微かに違えど、彼が二度目に来店した時も似たような事を言われて驚いた。 「わたしね。勉強は出来ないけれど、人の顔やその人の好みとか覚えるの得意なのよ。唯一褒められた特技ね」  そう言って、豪快に笑うマスターを今でもよく覚えている。 「どうぞ、めしあがれ」  繊細とは程遠い大きくて無骨な手が、お酒と小鉢を目の前に置いてくれる。 「ありがとうございます」  マスターの優しい笑顔と楽しい話。そしてそれを目当てに集まってくる人々。彼もまたその一人。

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